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異説・桜前線此処にあり  作者: 祀木楓
第2章 藩医見習い
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始まる新生活

 

 

翌日


私は人の気配で目が覚めた。



「う……ん?」



瞼を開くとそこには久坂さんの姿が目に映り、私は慌てて飛び起きる。



「な……何してんのよ!!」


「朝餉だと部屋の外から何度も声を掛けたというのに、中々起きぬゆえ……仕方なく、こうして此処で待つことにしたのだ」


「え? もうそんな時間? ……ごめんなさい!」



この時代の時刻には、まだ体が慣れない。


目覚まし時計が無い中で早朝に起きるということは、私にとっては至難の技だ。



「案ずるな。私も朝から良いものが見られたからな……それはそれで良い」


「……良いもの?」


「聞きたいのか?」


「ちょっと! 何を見たって言うのよ!?」



久坂さんの含みのある言い方に、思わず尋ねる。



「それは……秘密……だ」



そう言って頑なに教えてくれない久坂さんに、ついには私の方が根負けしてしまった。


一体、何を見られたのか?


それは確かに気にはなるが……


実際、寝衣はさほど着崩れては居なかったので、少し安心する。


そんな私たちが朝餉後に向かうのは、例の講義室だった。





「さて……と、藩医になるにはやはり知識と技術が無ければならない。私が殿にお前を推薦し、すぐにでも藩医の身分とならせる事もできるのだが……やはり、その前にある程度の医術を身に付ける方が良いだろう」



久坂さんはいつになく真剣な表情で説明する。



「私は、この時代でお医者様に……なるのよね。でも……いくら江戸時代とはいえ医者になるのだから、その試験はきっと難しいんでしょう? 私に出来るのかな……」


「試験? 何のことだ?」


「きっとこの時代でも、医者になるには何年も何年も勉強して……更に難しい試験に合格して、それで初めてなれるんだよね?」



私は久坂さんに尋ねた。



「……そんな物はない」


「無い!? 何それ……じゃあ、どうやったら医者になれるのよ?」


「医者になるには、医学書を読めば良いのだ。その上で、自分は医者であると名乗れば誰もが医者になれる。よく、武家の次男や三男が『医者にでもなるか』と思い立ち、医者になるという話をよく耳にする。ただし……そういった、所謂『でも医者』は大した医術を持たぬ故、自然と淘汰されて行くがな」



本を読めば、誰でも医者になれる?


医者っていうのは、人の命を預かる尊い職業なのに……そんなのアリ?


私は久坂さんの言葉に、驚きを隠せなかった。



「まぁ……町医者はそれでも良い。相手にするのは庶民だからな……だが、藩医を目指すとなれば話は別だ。しかと医術を身に付けた者でなければならない。でなければ、家の信用どころか存続にも関わるからな。誤診でお家断絶など、先祖に申し訳が立たぬ」


「わかった! 私、やってみるよ。こう見えて、覚える事は得意だもん。それに……」


「それに?」


「私、考えたの。いつまでも、後ろ向きじゃ駄目だよね? だったら、私が出来ること……医学の分野で何かやり遂げようって。それが医者になることなら、私はそれを受け入れるわ」



私の発言に、久坂さんはフッと笑う。



「そうだな、それが良い。目的を持って日々を過ごすことは、良いことだ。だが……昨夜のように泣きたくなったら、私がまた懐を貸してやろう」


「っ……もう泣かないもん!」


「それはそれで、つまらんな。私としては、あの様にしおらしいお前も可愛らしくて大歓迎なのだが……それは残念だ。まぁ、我慢は程々に……な?」


「……久坂さんはいつも一言多い!」



ふいっと顔を背ける私に、久坂さんは楽しそうに笑みを浮かべている。



「とは言え、何から始めるべきだろうか? 本道から……いや、蘭学が先か? 美奈、お前は何から学びたい? もしも苦手な物があるならば、それから学べば良いだろう」


「本道……って何? 良くわかんないけど……あっ、ちょっと待って!」



私はある物の存在を思い出し、慌てて部屋から荷物を持ってきた。



荷物とは……そう。


タイムスリップしたあの日、私と共にこの時代に飛ばされてきた物だった。


その中身は主に、教科書や実習セット。


それもそのはず、私は学校からの帰宅途中にこうなったのだから。



「これ、これ! ちょっと見て」



鞄に入っていた教科書を全て出すと、久坂さんに手渡した。



「これは何の書物だ?」


「私の時代の医学書! って言っても……医者でなくて看護師が学ぶ為の物だから、医者の学ぶ知識に比べると薄っぺらいモノなんだけどね」



とりあえず久坂さんに手渡した一冊は、解剖生理学の教科書だった。


解剖生理学とは主に人体の仕組みを学ぶもので、一年生のはじめに学ぶ科目だ。


何でこんな教科書を持っていたかというと……私の学校では三年生になると国家試験対策として、病院実習日の合間にこの三年間の補講が組まれているため、一年時の教科書を使う日もある。


こんな時、それを知らずに教科書を紛失してしまった生徒は大変だ。


専門書なだけあって、一冊数千円はするのだから。



「ねぇ……杉田玄白の解体新書より凄いでしょう? 色つきの絵だけでなく、写真もたくさん載っているのよ」



カラーで描かれた、人体のしくみ。


そして、写真で撮された人の臓器。


久坂さんは教科書を見るなり、固まってしまっている。



「ちょ……ちょっと、何か反応してよ!」



私は久坂さんの肩を揺さぶった。



「あ……あぁ、すまん。美奈が先の世から来たことは、頭では理解していたつもりだったのだが……実際に、こうも目の当たりにしてしまうと……やはり驚きは隠せないな。何というか……これが人の……心の臟……なのか? 絵では見たことがあるが、こうして実物を見るのは初めてだ。それにこの手技……これは何というもので、何の為に行うものなんだ?」


「あぁ……これ? これは処置じゃなくて検査よ。私の時代では、まずは診察してから必要に応じて検査をするの。検査で病名を特定して、治療方針を決めたりするわね。で……これはブロンコファイバーね」


「ぶろ……何だそれは?」



この時代の人間に、長い横文字はやはり聞き取りにくいのだろうか?


そう思いつつも、私に分かる限りのことを説明する。



「ブロンコファイバースコープは気管支鏡検査っていって、気管支……えっとこの辺に、カメラ……こういう絵が写せる機械が付いた長い管を入れていくのよ。これでこの辺りの病変が目に見えるし、必要なら細胞を採取したりすることもできるの。要するに、何か病気がないか調べたりする為に行っているのよ」


「そうか……お前の時代では、そんなこともするのか……」



久坂さんは興味深そうに、教科書を眺めている。



「ならば、こちらは何だ? これは……何だか読めぬ文字と、よく分からぬ絵があるが……」


「えっと……どれどれ? これは血液の部分ね? 簡単に言うと、人の血にはそれぞれ種類があるから、むやみに血を混ぜたら大変ってことね」


「血を……混ぜる? それは本当に医術なのか? まじないの類ではないのか?」


「れっきとした医術よ。例えば出血が多くて血が足りなくなっちゃった時とかに、クロスマッチしてから血を入れてあげるのよ。私の時代では、そんなの普通よ」


「くろす……?」


「血液は色々と種類があるって言ったでしょう? クロスマッチテストはやり方はいくつかあるけど……その血を入れても大丈夫か検査してから、血を入れるのよ。その検査がクロスマッチ……日本語で言うと、交差適合試験ね」



不思議そうな顔を浮かべてはいたが、教科書があったお蔭か私の拙い説明でも、久坂さんは十分に理解しているようだった。


時折、馬鹿げたことを言うけど……やっぱり医者なだけあって、優秀なのね。


こんな風に一回で理解できたら、試験で満点ばっかりとれるんだろうな……羨ましい。


その後も質問は次々に飛んできた。


分かることは説明できるが、全てが分かる訳ではないので困ることも多かった。



「本当に……素晴らしいな。医術の進歩した世界……できることならば一度この目で見てみたいものだ」


「そう? まぁ……百五十年も経てば流石に、医学も科学も進歩するよね」



久坂さんは、肩に掛けられた私の手をとる。



「そうだな。こうして触れられることもできるというのに……お前がそんなにも先の世の人間だとはな。何とも不思議な感覚だ……」



突然のその行動と、久坂さんのいつになく真剣な表情に、不覚にも私の心臓はトクンと小さく跳ねた。



「ど……どさくさに紛れて、何するのよ!」



私が慌てて手を離すと、久坂さんはフッと笑った。



「顔が赤いが……どうかしたか? 熱でもあるんじゃないか?」



久坂さんは私の額に手を当てると、意地悪く言った。



「べ……別に! それより、講義……でしょう?」



その手を振り払った私は無理矢理、話題を変える。



「あぁ……そうだったな。これ程のことを学んで居たならば、学の方は問題なさそうだ。となると、技術だな」


「技術……か。そっちは全く、だね」



病院実習が本格的に始まったのは、三年生になってからのこと。


三年に進級する以前も多少は病院実習があったのだが、それはほんの触り程度だ。


進級してわずか二週間でこの時代に飛ばされたので、確実に経験は浅い。


そもそも、それは看護師としての実習であって医師のそれではない。


技術……と言われると、皆無と答えるのが妥当だろう。



「そもそも、私は医者じゃないもの。医者としての経験は全くない」



久坂さんはしばらく考える。



「ならば……町医者でもやってみるか?」


「町医者?」


「そうだ。藩医としての命が下れば、私に同行すれば良い。だが……それは、そうそうあるものでは無いからな」


「久坂さん、お仕事……あまり無いの? なのに、私を引き取って大丈夫? 家計が圧迫しちゃったりしない?」



私は心配になり、久坂さんを質問攻めにする。



「気遣いなど要らぬ。近頃は藩医としての命よりも、別件の方が多いというだけのこと。娘一人を囲ったところで傾くような落ちぶれた家ではあるまい」


「なら良かった。貧乏なのに私まで引き取ったら家が傾くんじゃないかって、心配しちゃった」


「なっ!? ……まぁ良い。それで、だな……藩医として出向く事が少ないということは、その分お前が経験を得る機会も少ないということだ」


「確かに、そうだよね」


「だから、町医者をやってみてはどうか? と言ったのだ。藩医である久坂家ともなれば、訪れる町民も多かろう? 勿論、私と美奈で切り盛りしていくのだ。どうだ、名案ではないか?」



久坂さんは、これぞ名案とばかりに胸を張る。



「でも…………」


「何が不満だ?」



不満などではない。


しかし


何故、つい先日出会ったばかりの素性の知れない私にそこまでしてくれるのか?


その疑問が心のどこかに引っ掛かる。



「ねぇ……どうして私にそこまでしてくれるの? 見ず知らずの……他人なのに……」



その疑問がつい、口をついて出た。



「どうして、か。そんなに簡単なことも分からぬのか? これは……思ったより時間が掛かりそうだな」



久坂さんは深い溜め息をつく。



「時間? どういう意味よ?」



その本意がよく分からない私は、首をかしげた。



「理由など初めから幾度となく言っておるではないか! 私が美奈を気に入ったからだ……と」



笑顔で率直に言う久坂さんに、私は少し戸惑いはしながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。



「ありが……とう」


「なんだ? 随分と素直だな……そう来られると、こちらも調子が狂ってしまう」


「何それ! じゃあやっぱ、今のは無し。そもそも、何度も言っているでしょう? 私は誰の妾にもならないって。私は、私だけを好きで居てくれる人が良いの。だから、既婚者は無条件で脚下!」


「なんだ……もう普段の表情に戻ってしまったのか? 先程の照れた表情は、実に愛らしかったのだがな……残念だ」


「なっ!?」


「私のこれまでの人生で、気に入った女人はお前だけなのだがな……信用ならぬと言うならば仕方があるまい。これからじっくりと時間をかけて口説くとするか……」



そう呟いた久坂さんは、意味あり気に微笑んだ。



冗談なのか?



本気なのか?



良く分からない久坂さんの言葉や態度に、久坂さんの本心が読めずに戸惑う。



この人の言葉に振り回されないようにしなくては……。



そう心に深く刻む私であった。


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