かぐや姫の背景
お姫様のお話と言うと少女時代に憧れて読んだり、絵本で慣れ親しんだりした方が多いのではないでしょうか? もちろん私もその一人。好きも嫌いもなく、幼い女の子が物心ついた頃に当たり前のように与えられるのがお姫様の出て来る絵本なのかもしれません。
美しい容姿と華やかな衣装。大抵の少女は「お姫様」が大好きです。ええ、スリコミだろうとなんだろうと、「好き」と認めた時点で好きなんです。それは美意識の始まりであり、自分をよりよく見せたいと思う心を育みます。幼い時は「大人の自分」なんてまだまだ遠い世界だから、どんなふうにも描けますしね。
こういうお姫様の物語というと、大抵思い浮かぶのは「シンデレラ」ではないでしょうか? これは女の子の美への憧れを思う存分駆り立てる物語です。
親に甘えて守られて暮らしている自分とは違う不幸な身の上の少女が、魔法使いの手によってあれよと美しくなり、王子様が見つけ出して幸せにしてくれる。不幸な娘でも幸せになれる。それに魔法で綺麗にもなれる! とても甘美な物語。
アイテムも女の子に夢を与えるものばかり。かぼちゃの馬車、ひらひらのドレス、豪華なお城、透明に輝くガラスの靴。美こそ善! とばかりにこれでもかと綺麗な物が名を連ねます。
そして、従順で、おとなしく、良い子でいればいつかは幸せになれるんです。愛も、名誉も、楽しい生活もちゃんと約束される。少しばかりの今の不幸を悲しむ事なんてないんです。
実はシンデレラには残酷な一面もあって、おとなしいシンデレラは黙っていても幸せになれるのに、悪役の意地悪な姉たちは、ガラスの靴に足を入れるために自分の足を切っちゃったり、エンディングで燃える炎の靴を履かされたり、容赦のない報復を受けています。貞淑な女性を育てるための教育的要素が強いので、善は何処までも幸福に、悪はトコトンたたかれます。
現実にはしっかりした、自分の意思を貫いて勝ちあがろうとするたくましい女性も多くて、貞淑に育てようとこういう教育が必要だったのかもしれません。悪役の姉たちの方が現代社会では出世、活躍できそうですけどね。
まあ、実に大人や嫁探しをする男性諸君にとって便利な話です。これを美しさというオブラードで隠し、親や大人の言う事を聞いておとなしく待てば損はしないというしたたかさもベールに包んで、憧れの世界を演出しています。大抵、おとぎ話や、教育効果を狙った話はこういうものです。
ところがこのかぐや姫。シンデレラと比べるのはなんですけど、他のお話とはちょっと色合いが違います。少なくともシンデレラよりは教育的じゃない。クライマックスの月に帰るシーンまで、魔法も出てこなければ、胸躍るようなアイテムも登場しません。
正直私も子供の頃は、このお話のどこがおもしろいのかまったく分かりませんでした。月の世界の人が竹の中から生まれ、最後は月の世界に帰って行く。もともとの生まれた場所に帰るんだから、当たり前のようにも思える。「だから何?」ってものです。
でも今は、このお話が私は好きです。「古典、竹取物語」としてではなく、「かぐや姫」という、お姫様の物語として好きです。数奇な運命を持って、ひと時地上で人生の華を過ごした女性の人生として好きです。それを彩る翁と嫗夫妻や、帝の存在もいい。
そこで、私はこの話がこんな風に好きなんだよって事を、書きしるしたいと思います。
さて、この「かぐや姫」のお話は、一般には日本最古の物語と言われています。九世紀末から十世紀の初めには作られ、通説では八百九十年代後半に書かれたようです。
ただ、古代、奈良時代よりも古い時代から「竹取の翁の物語」は、民間伝承として伝えられていました。「かぐや姫」が、いつ、どのように生まれたのかは千年以上昔の事ですから、研究による憶測は出来ても、真実が分かる事は無いでしょう。
さらに「かぐや」という名前を持つ女性の記録もあります。迦具夜比売命という名の女性が崇神天皇の后として古事記に書かれています。
叔父を讃岐垂根王、曾祖母を丹波竹野媛といい、かぐや姫を育てるお爺さんの性、「讃岐」と同じです。きっと「竹取物語」とも何らかの関係があるのでしょう。
「竹取伝説」ではない「竹取物語」ですが、すでに原本は失われていて残念ながら存在しません。多くの人に幾度となく書き写され、それでも現在までこの物語は広く知られ、子供のおとぎ話にまでなっています。
作者はいまだに不明ですが、かぐや姫に振られる五人の求婚者たちの内三人が実在したとされる人物で、残る二人のモデルとされる人物も見当がついているようなので、当時、絶対的な権力を持っていた藤原氏一族にいい感情を持っていない人物だったろうとされています。
五人の求婚者の実在したとされているのは、右大臣・阿倍の御主人、大納言・大伴の御行、中納言・石上の麻呂足で、庫持の皇子のモデルは藤原の不比等。石作の皇子のモデルは多治比嶋と言われています。
彼らは全て天武・持統帝の頃の人物で、壬申の乱の功績を収めた君臣達です。彼らは藤原氏を中心とした一大権力者となり、四百年近い平安時代を謳歌します。そんな彼らをそれはもうひどく、こっぴどくかぐや姫は振っているのですから、藤原よりの人間ではないでしょう。政治的に窮した中で女子供の物語で憂さ晴らしをして、それを広めているのですから、地位が絡んだ男の嫉妬とはなかなか恐ろしいものです。
内容に中国のいい伝えがふんだんに盛り込まれているので、漢学や、仏教思想に詳しい人物なのは確かです。当時、漢学や仏教というのは政治的にも最先端の学問でしたので、社会的地位が高く、藤原氏に否定的な感情を持ってしまうような政治的に恵まれていない、でも、女の文字と言われる「かな文字」も使いこなせて、下々の者たちが伝え続けた民間伝承にまで精通している男性だったことがうかがえます。
でも、彼はイヤミでいじけた底意地の悪い人物ではなかったように思えます。男性より低く見られていた女性の使う文字、「かな文字」で女子供のために楽しめる物語を書いているのですし、作中で和歌も披露しています。
当時は和歌が女性を口説いたり、楽しませたりする大切なテクニックでしたから、女性受けのいい、しゃれっ気のある、粋な人物だったのではないでしょうか?
政治的立場は低くとも、文化人として女性にモテて、子供が好きで、世の中をちょっと斜に構えて見ている、シャレの分かる楽しい男性だったのかもしれません。
この話は「出世伝説」「天人昇天伝説」「貴人への求婚拒絶伝説」等の、スタンダードな伝説を組み合わせて作られていると言われていますが、私が読んだ感想としては、前半は「爽快な民衆のための娯楽」、後半は「壮大な恋愛物語」という印象を持ちました。この物語は前半と後半では受ける印象が大きく違うのです。前半は下々の不満を代弁し、スカッとした気分を味あわせようとしているのに対して、後半は帝との純愛、育ての翁夫妻との悲しい情愛に胸揺さぶられる展開になっているのです。
複雑な構成のようで、実は前半は爽快に、後半は悲劇的に、今でも十分に通用するエンターテイメント性を持って、作られた話に思えます。