恋愛談議
せっかくの企画なので、「哲学的な彼女」投稿用に書いてみました。
扇風機に吹かれた髪が頬に当たり、水口かなえは読んでいる本から顔を上げた。
蝉の声が耳に届いた。
うっすらと滲む汗にぺたりとはりついた髪を煩わしげに払うと、かなえはにわかに夏の暑さを思い出し、首に掛けたタオルで流れる汗をぬぐった。
扇風機にしばらく涼み、制服のブラウスに浮いた汗染みを乾かすと、集中が途切れてしまって、もう本を読むことができなかった。
掘っ立て小屋みたいな野菜直売所で店番をするかなえは、あくびをひとつすると、まぶしい陽射しの外を眺める。
山の稜線を超えて入道雲が夏空に高く伸びていた。水田にはまだ頭を垂れない稲穂の青がなびいていて、その周囲には鳥除けのテープがきらきらと光っている。前を走る道路に人影はなく、アスファルトの舗装は遠くに陽炎を揺らめかしていた。
「おや?」
その陽炎の中に自転車を漕ぐ見知った顔を見つけて、かなえは目を細めた。自転車はこっちに近づいてくる。
「よっ」
「大貫くん?」
自転車がかなえの前に止まる。それはかなえの通う高校の同級生の大貫まさるだった。
「学校さがしていなかったからさ。手伝い?」
「そ」
かなえは短く答えると、不満気に小屋の中を見渡す。
「直売所の当番うちにまわってきたのに、両親そろって旅行いっちゃうんだもん」
新鮮な光沢のナスにトマトにキュウリにピーマンが、文句を言うなと抗議でもするように、扇風機の風にかさりと揺れた。
「へぇー、旅行か。いいな。どこ?」
「東京。はとバスツアー」
「東京かー」
何やらそわそわと落ち着かない様子のまさるは、中身のない感想をこぼすばかりで、かりかりと頭を掻いては、ちらちらとかなえの顔を覗き見てくる。
「それで大貫くんは、私に何か用?」
仕方ないのでかなえから訊いてみると、まさるはやっぱり頭を掻いて、濁った言葉を無意味に流す。
「まあ、その、用といえば用というか、たいしたことではないんだけども」
しばらく「あー、うー」と唸って沈黙した後、ちょっと遠く雲を見て、再び振り返ったまさるは、意を決したかのように口を開いた。
「あのさ、水口ってさ、好きな人っている?」
「私?」
かなえは目を丸くして、首を傾げる。
「好きな人ねー、そうねー」
頬に人差し指をあてて考えるかなえの答えを、じっと見つめて待っていると、予想外の人物の名前が返ってきて、まさるは自分の血の気が引く音を聞いた。
「川本先輩」
まさるの膝ががくがくと震えだす――その直前にかなえが言葉を継いだ。
「あと堂本先輩も好きでしょ。有泉先生も好きねー、面白くて。両親も入れとかんと怒られるわね。村田のおばちゃんも世話になってるしねー。俳優は谷沢啓介が好きだな、渋くて。あとはよっちんにケイちゃんに渡辺くんに栗本くんでしょ。他には……」
指折り数えるかなえを呆れた顔でまさるが見る。
「それって……」
「ああ、もちろん大貫くんもいるわよ」
そこはよかったと、こぶしを握り締めているまさるを見ることなく、指に並べた好きな人を眺めて、かなえは感慨深げに呟いた。
「好きな人って結構いるわねー。うちの弟どもも入れとこうかしら?」
そこでまさるは、はたと気付いた。
「そうじゃなくてさ~」
「わかってるって」
ようやく突っ込みを入れられたまさるに、かなえは平然と笑って返した。
「でもどうなんだろうねー、実際」
再び首を傾げるかなえは、先ほどよりかは真剣に言葉を探して答え始めた。
「もう始まっているんだけどそれに気付いていないだけかもしれないし、まだ全然出会っていないのかもしれない。もしくはすでに出会っていて、それは意外と近くにあるんだけど、まだ始まるには至ってないのかもしれない」
そこまで言ってまさるの顔を見たかなえは、にやりと笑って言葉を結んだ。
「まあ、今は気付いていないってことだけは確かだ。これでいい?」
「うん…まあ、とりあえずは……」
とにかくも、脈がないわけではないということらしいので、一応にまさるはうなずいた。
「まあまあ、立っているのもなんだし座りなよ」
そう言うとかなえは小屋の奥に行き、がさごそと何か探し始めた。
「イスもあるし」
イスが出てきた。
「今ならキュウリも付けるよ」
キュウリも出てきた。
「キュウリは味噌を付けると最高なのだね」
五十円玉を代金カゴに入れて、二本のキュウリを商品カゴから抜き取ると、どこから取り出したのか、かなえは味噌の入った瓶を持ち出し、キュウリに付けて食べ始めた。
「はい、モロキュー」
シャリッ。
ポキッ。
「うん、うまい」
歯がキュウリを噛み折って、ボリボリと口に青味を広げる。並んで座り、並んで食べるキュウリの味は、甘しょっぱい赤味噌の刺激に混ざり合わさる。
「二丁目の高本さんが手を入れて、お日様と郷土の土が育てたキュウリですから。愛がこもっているのだよ」
ぽりぽり齧るかなえの言葉に、まさるは食べかけのキュウリを見やる。
「愛ね……」
「愛です」
かなえは確信をもってうなずいた。
「愛というのはね、捨てないものであるんだって。昔なにかの本で読んだよ」
かなえはちょっと外に目をやって、愛について話し出した。まさるがその横顔に目を向ける。
「野菜を育てるのは子供を育てるように大変だけど、最後まで投げ出さずに育てるから、きっとこんなにおいしく育つんだね」
「捨てないか……」
見つめるキュウリは青々と、瑞々しげに育っている。
「どんなにいらなくなっても捨てられないものってあるじゃない」
かなえはキュウリをポリッともう一噛みする。
「子供の頃に遊んだ、今は汚れたぬいぐるみとか。捨てられないのは愛着があるからなのかな」
話すかなえはニコニコ微笑む。
「それでまだ家にある。捨てないでっていつも訴えていて、甘やかしちゃう」
けれどここで困った顔をして、ちょっと肩をすくめてみせる。
「母さんは怒るけどね」
笑うかなえにまさるが同意する。
「うちにもあるぜ、そういうの。子供の頃に集めたカードダスやミニ四駆なんか。昔好きだったやつは捨てにくいんだよな。嘘つきみたいでさ」
かなえがうなずく。
「きっとね、本当に愛しているものは、何があっても捨てられないものなんだろうね」
「そうだな」
蝉の鳴き声に扇風機の風が吹く。
「それで大貫くんは」
「うん?」
そこでかなえは振り向いたまさると顔を合わせ、その丸い大きな瞳を上目遣いに、まさるの目を覗き込んだ。
「カードダスやミニ四駆みたいに、私を捨てないでいてくれる?」
突然の言葉にまさるの脳がその意味を理解する数秒の間。
そして理解とともに紅潮する頬。
「も、もちろん!」
まさるは慌ててイスから立ち上がり、勝手に誓いの言葉を口にする。
「カードダスやミニ四駆を捨ててでも捨てない」
まさるの急き込んだ慌てぶりに微笑むかなえは、まんざらでもなさそうに頬を掻く。
「無理はしなくてもいいけどね。嬉しいけど」
けれどかなえは笑いをおさめ、真顔でまさるに問い掛ける。
「でも大変だよ? 私が交通事故で半身不随になったり、アルコール依存症になったり、精神障害になったり、癌になったり、寝たきりの痴呆おばあちゃんになったりしても、大貫くんは私を捨てないでいてくれる?」
いきなりの話の広がりにまさるはそこでちょっと沈黙してしまった。かなえは膝に頬杖を突いてまさるを見上げ、興味津々にその答えを待っている。
「……頑張る」
「正直者」
眉間に皺を寄せて真剣に考えたまさるの返答に、かなえは笑った。
雲はだいぶ流れていって入道雲も形を崩し、東の空はもう紺色に変わり始めていた。
「……でも」
山の端が赤色に染まるのも、もう少しという時間。
「始めてみるのも悪くないかな」
かなえは一番星を暮れ空に見つけた。
「まだ始まっていないけど、始めてみれば始まるかもしれないから」
そう言って、ちょっと一人笑いをするかなえに、まさるは前のめるような喜色を浮かべる。
「そ、それじゃあ……」
「だけど」
そこでかなえは指を差し、まさるの喜びに釘を刺す。
「もうわかってると思うけど、私……わがままだよ?」
小悪魔っぽく微笑んでみるかなえに、まさるは力強く胸を叩く。
「望むところ」
かなえは腕時計を見た。
「おっと、もうこんな時間」
立ち上がったかなえは、軽く両腕を上げてひと伸びすると、横目にまさるの顔と自転車を交互に窺う。
「それじゃあ、さっそく送ってもらっちゃおうかな」
「まかせとけ!」
自転車の後ろに立ち乗ったかなえの手は、まさるの肩をぎゅっと掴む。かなえはその顔を髪がまさるの耳に触れるほどに近付けると、右腕を突き上げて大声でまさるに発破を掛けた。
「行けっ、大貫号!」
「おう!」
耳を真っ赤にした大貫号は発奮した漕ぎ足に、夕陽の逆光をものともしないで、畦道をまっすぐに走って行った。
哲学らしさなど微塵もありません。
趣味全開です。
哲学とか、萌えとかよく知りませんが、これだけは言えます。
趣味です。