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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

たとえばこんな終わり方【完結】

君のSAN値は限界突破!!

作者: 有賀羊
掲載日:2026/08/21

※冒頭は『君のSAN値はもうゼロだ』の夜の内容と重複しています。

前作をお読みいただいており、展開が変わる部分から読みたい場合は、ページ内検索などで「よかった……修也、ちゃんといる……」と検索していただくとスムーズです。


 その日は、どこにでもある普通の一日だった。


 仕事を終えた梓と駅前で待ち合わせて、二人で夕飯を食べに行った。


「食べすぎた〜」


「俺も。最後のデザートいらなかったかも」


「頼んだの修也じゃん」


「梓も半分食っただろ」


「だってくれたから」


「俺のせいみたいに言うなよ」


 そんなくだらない話をしながら、二人並んで家までの道を歩く。


 季節は初夏。

 夜になれば昼間の暑さも少し和らぎ、吹き抜ける風が気持ちよかった。


「明日の休み、どうする?」


「んー。家でいいんじゃね?」


「えぇ〜」


「最近出かけすぎだろ。たまには家でゴロゴロしようぜ」


「じゃあ映画観よ。ほら、昨年一緒に何回も見に行ったあの映画!ネットで配信開始されたんだよね〜」


「お!いいじゃん!見る前に炭酸とポテチ買っとかないとな〜」


 明日のこと。

 これからのこと。

 そんな当たり前の話をしていた。


「──痛っ」


 突然、首筋にちくりとした感触が走った。


「どうしたの?」


「なんか刺さった」


 首へ手をやる。

 指先で探ってみても、特に何かが刺さっている様子はない。


「蚊じゃない?」


「え、もういる?」


「いるでしょ。初夏だよ?」


「マジかよ。最悪」


「刺されやすいもんね、修也」


「梓が刺されなさすぎなんだよ」


「日頃の行いかな」


「じゃあ俺の行い悪すぎだろ」


 それだけだった。痛みが続くわけでも、血が出ているわけでもない。

 少し気になって首を擦ったものの、家に着く頃にはそんなことがあったことすら忘れていた。


◆


 ──暑い。


 最初に感じたのは、それだった。


「…………っ」


 意識が浮上する。


 暗い。

 寝室だ。

 隣では梓が眠っている。


 いつもの夜。

 いつもの部屋。

 なのに。


(……暑い)


 掛け布団を退けようと腕を動かす。


「っ……?」


 動かない。

 いや、違う。


(熱い)


 暑いんじゃない。

 熱い。

 身体の奥から、焼けるような熱が込み上げてくる。


「ぐ……っ」


 息を吸う。

 喉が熱い。

 いや、それどころか胸も、腹も、頭も。

 全身が、内側から火に炙られているようだった。


(なんだ、これ。火事……?)


 朦朧とする頭で、そんなことを考えた。


 部屋が燃えている。

 だから熱い。


 だったら逃げないと。

 梓を早く、起こさないと。


(あ、梓……!)


 呼ぼうとした。

 声が出ない。


「──っ」


 代わりに、喉の奥から空気が漏れるような音がした。


(梓)


(起きろ)


(火事だ)


 身体を起こそうとする。

 その瞬間。


(──あ?)


 何かが、おかしい。


 腕は?

 足は?

 身体は?


 どこだ。


(俺の身体、どこだ?)


 感覚がないわけではない。

 むしろ、ある。

 ありすぎる。


 腕を動かそうとしたはずなのに、ベッドの上で何かがのたうった。

 足を下ろそうとしたはずなのに、床へ何本もの何かが落ちる感覚がした。


(な……に……)


(……なんだよ、これ)


 熱い。


 あつ……い……。


 熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。


(あつい)


(あついあついあついあつい)


(なんで)


(なんでこんな)


 痛い。


 いや。


 熱い。


 もう、どちらなのかも分からない。


 身体の中に火を放たれたみたいだった。

 血が沸騰して、内臓まで焼け焦げていくような感覚がする。


 そんなはずがない。

 そんなはずがないのに。


(あつい)


 腕はどこだ。


(あつい)


 足は。


(あつい)


 身体が。


(あつい)


 俺が。


(あつい)


 溶けていく。


(あついあついあついあついあついあついあつい)


(たすけて)


 誰に。


(梓)


 そうだ。

 梓。


(起きろ)


(起きて)


(助けて)


 けれど、声が出ない。

 身体を動かそうとしても、もうどこをどう動かせばいいのか分からない。


 皮膚が。

 肉が。

 骨が。


 全部がぐずぐずに溶けて、混ざっていく。


 俺の形が、なくなっていく。


(いやだ)


(いやだ)


(いやだ)


(俺、溶けて──)


 そこで、意識が途切れた。


◆


「…………」


 気がついたとき、熱は消えていた。痛みもない。

 薄暗い寝室の中で、俺はしばらく動けずにいた。


(…………夢?)


 悪夢。そうであってほしかった。


 隣を見る。

 梓は規則正しい寝息で眠っている。


(よかった……)


 ほっとする。

 少なくとも、火事ではなかったらしい。


 俺は息を吐いて──


「…………」


 息?


(……あれ?息って、どうやるんだっけ)


 そもそも呼吸をしている感覚がない。なのに苦しくない。


(な……んで……)


 身体を起こそうとする。


 ずるり。


 何かがベッドから床へ落ちた。


(…………は?)


 腕をつこうとする。


 にゅるりと伸びた何かが、床へ触れた。


 触手。

 そうとしか呼べないものが、俺の身体から伸びていた。


(…………)


 理解したくなくて視線を逸らす。

 その先に、寝室の姿見があった。


 鏡の中に、何かがいる。


(…………は)


 鏡の中にいるのは、どう見ても人間ではなかった。


 輪郭を失った、不定形の身体。

 そこから何本も伸びる触手。

 人間だった頃の名残のように残された、二つの目。


 冒涜的なナニカ。


 そんな言葉が、これほど似合う存在を俺は知らない。

 そして、それが俺だった。


(はは…………なんだよコレ……)


『さあ、SAN値チェックのお時間です』


 そんな声が、聞こえた気がした。


 昔から好きだった、クトゥルフ神話TRPG。

 もしも探索者が、こんな存在を目の当たりにしたのなら、正気を保っていられるかダイスを振って確かめることになる。


(……俺も、振るのかな)


 馬鹿みたいなことを考えた。

 けれど、そうやって自分の知っているものに置き換えなければ、目の前の現実を理解できそうになかった。


 鏡の中のナニカが、俺を見る。

 俺も、そいつを見る。


 これは俺だ。

 どうしようもなく、途方もなく、俺なのだ。


 考えろ。

 どうすればいい。

 何が起きた。


 病気?

 そんなわけがない。


 夢?

 だったら早く覚めてくれ。


 俺は、どうしたらこの現実から逃れられる?


「……ん……」


 背後から、小さな声が聞こえた。


 鏡越しに見る。

 梓が、ベッドの上で身じろぎしていた。


(梓)


「……修也?」


 ゆっくりと瞼が開く。


 まずい。


「きゅ……!(梓、待って)」


 呼びかけたつもりだった。

 けれど、自分から出たのは、声とも呼べない訳の分からない音だけで。


「…………」


 梓と、目が合った。

 梓の目が、大きく見開かれる。


「…………っ」


『さあ、SAN値チェックのお時間です』


 また、そんな声が聞こえた気がした。


(……やめてくれ)


 今度は、少しも笑えなかった。


 梓は動かない。俺から目を逸らすこともできず、ただ固まっている。


「きゅ……(梓……)」


 返事はない。

 その顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。


(怖いよな)


 当たり前だ。

 俺だって怖い。

 鏡に映った自分を見ただけで、どうにかなりそうだった。

 いや、どうにかはなっている。


 それが突然、梓の目の前にいる。


「きゅう……(ごめん)」


 謝ったところで、伝わるはずもない。

 だが反射的にその言葉が出た。


 触手を一本、梓へ伸ばしかける。


 せめて、大丈夫だと。

 目の前にいるのは俺なんだと、伝えたくて。


 だが、その動きが引き金だった。


「──いやああああああああああっ!!」


「っ!」


 梓の叫び声が、寝室に響いた。

 伸ばしかけた触手を、咄嗟に引っ込める。


「いやっ、いや、なに、なにあれ……!」


「きゅう……!(待って、梓!)」


「来ないで!」


「…………」


 その声に俺の身体が止まった。


 梓はベッドの端まで後ずさる。けれど、それ以上は動けない。

 逃げることも、目を逸らすこともできず、ただ俺を見ている。


(……失敗)


 そんな言葉が、頭に浮かんだ。


 正気度ロールは、失敗。


 しばらく、そうしていた。


 俺がもう動かないと思ったのだろうか。

 膠着した時間が不意に動き出す。


「修也……」


「…………!」


「修也、どこ……?」


 梓の視線が、俺から外れた。


「修也ぁ……?」


「きゅう(梓)」


「どこいったの?」


 震える手で掛け布団を退ける。


「修也……修也……」


 俺を探している。

 目の前にいる俺ではなく、人間だった俺を。


「きゅう!(ここだよ!)」


「ひっ!修也っ!」


 梓がベッドから降りようとする。

 けれど、足に力が入らなかった。


「あ……っ」


 ずるりと身体が滑り落ちる。

 床に手をつき、そのまま座り込んだ。


「きゅう!(梓!)」


 出てきたのは、やっぱり訳の分からない音だけだった。

 梓は振り返らない。


「修也……どこ……?」


 立ち上がることもできないまま、床に手をつく。


 ぺたぺた。


 梓は這うように寝室の外へ向かっていく。


「修也……」


 呼びながら。

 何度も、俺の名前を呼びながら。


「きゅう……(ここにいるのに……)」


 俺も、その後を追った。


 ずるり。


 床を這う俺の身体から、湿った音がする。


 梓が這っていく。

 俺も、その後を這っていく。


 こんな状況じゃなければ、あまりにも間抜けな光景だった。

 いつもだったら、笑っていた。


 なんて格好してるんだって。

 何やってんだよって。


 梓と一緒に、笑いたかった。

 なのに。


(なんで)


 なんで、こんなことになってるんだ。


 梓はリビングまで辿り着くと、辺りを見回した。


「修也……?」


 当然、返事はない。


 俺はここにいる。

 すぐ後ろにいる。


「きゅう……(梓……)」


 どうすればいい。


 声をかけても伝わらない。

 近づけば、また怖がらせる。


 俺だと。

 ここにいると。


 どうすれば伝えられる。


 そのとき、冷蔵庫に掛けてある小さなホワイトボードが目に入った。


(……あ)


 触手を伸ばし、ホワイトボードの脇にぶら下がっていたペンを掴む。

 もう一本の触手でキャップを外そうとして、滑った。

 ころん、と床に落ちる。


「…………」


 拾い直し、もう一度試みる。

 今度は、外れた。


 震える触手で、ペン先をホワイトボードへ押しつける。

 書き慣れたはずの自分の名前が、がたがたとひどく歪んだ。


『修也』


 ボードを梓の視界に入るように、触手をさらに伸ばす。

 梓が、その文字を見る。


「……修也?」


「きゅう!(そう!)」


 思わず身体が大きく揺れた。

 梓がびくりと肩を震わせる。


「修也が……どうしたの?」


(名前に気づいた)


(それなら──)


 俺はもう一度ペンを握り、今書いた名前の上に文字を書き足した。


『俺が

  修也』


「…………」


 梓は何も言わず、その文字を見つめていた。

 やがて、ボードを持つ触手を辿るように、ゆっくりと俺を見る。


「…………」


 目が合う。


「……修也?」


「きゅう……(うん)」


「…………」


 梓の唇が、小さく震えた。


「修也……」


 もう一度。

 確かめるように、俺の名前を呼ぶ。


「きゅ!(うん!)」


「…………そっか」


 梓が笑った。

 いや、笑おうとしたのだろう。口元はひどく歪んでいた。


「そっかぁ……修也なんだ……」


「きゅう……(梓)」


 梓は俺を見る。


 二つの目を。

 何本もの触手を。

 輪郭を失った、この身体を。


「…………」


 また、ホワイトボードを見る。


『俺が

  修也』


 そこに書かれた文字を、じっと見つめる。


「修也……」


「きゅ(うん)」


「修也……」


「きゅう(うん)」


「…………」


 何度も。何度も。

 俺とボードを見返しながら、梓は名前を呼んだ。

 まるで、目の前にあるものと、その名前をどうにか結びつけようとしているみたいに。


「修也……」


「きゅう……(ここにいるよ)」


「……うん、いるね」


「…………」


「修也、ここにいるね」


「きゅう(うん)」


「よかった……」


 ぽろり。


 梓の目から、涙が落ちた。


「いなくなったのかと思った……」


「きゅ……(ごめん)」


「よかった……修也、ちゃんといる……」


「…………」


 その言葉に。

 ほんの少しだけ、俺も安心してしまった。


 怖がられた。

 叫ばれた。

 逃げられた。


 それでも、俺だと分かってくれた。

 この姿でも、俺が修也だと。


「…………」


 梓が、俺へ手を伸ばす。


「きゅ……(梓?)」


 震える指先が俺の身体へ近づき、あと少しのところで止まった。


「……ごめん」


「きゅ(いいよ)」


「ごめんね……」


「きゅう(大丈夫だから)」


 分かってる。

 無理をしなくていい。


 俺だって、まだ自分の身体を見るのが怖い。

 梓なら、なおさらだ。


 だから、時間があればいい。

 少しずつ慣れていけばいい。


「…………怖い」


「きゅう(うん)」


「めちゃくちゃ怖い。今も修也見ると……なんか、頭ぐちゃぐちゃする」


 そりゃ、そうだろう。

 俺だって鏡を見るだけでそうなる。


 それでも梓は、もう一度俺へ手を伸ばした。まだ指先は震えている。それでも今度は途中で止まることなく、ゆっくりと俺の身体に触れる。


「…………っ」


 触れた瞬間、梓の肩が大きく跳ねた。

 俺も動かず、じっとその様子を見守る。


 しばらく触れたままでいた梓が、恐る恐る指先を動かした。


「……ぷにぷにしてる」


「きゅ?(え?)」


「思ったより、柔らかい」


「きゅ、きゅう(そ、そう)」


 梓がもう一度触る。

 今度はさっきよりも躊躇がない。


 ぷに、ぷに。


 さらに少し強く押し込まれる。


「きゅう!?(ちょっと!?)」


「すごい。修也、めっちゃ柔らかい」


「きゅう!?(そこ!?)」


 梓の目からは、まだ涙がぽろぽろと零れている。顔だって青いままだ。

 それなのに、俺の身体を触る手からは、少しずつ震えが消えていた。


 ぷに。


「…………」


 ぷにぷに。


「きゅきゅう?(あの、まだ続けます?)」


「……いける」


「きゅ?(何が?)」


「いけるよ、修也!」


「きゅう!?(何が!?)」


 梓がぱっと顔を上げる。


「よし、一緒に寝よ!」


(は?)


「ベッド!一緒に!ほら、まだ深夜だし寝る時間だよ!」


「きゅう!?(いやいやいや!)」


「大丈夫!」


「きゅきゅう!(何を根拠に!?)」


「だって修也、柔らかいし」


「きゅう(関係ある?)」


「なんか……」


 梓が俺をじっと見る。


 まだ少しだけ顔が強張っている。

 けれど、そのまま俺の身体をもう一度ぷに、と触って。


「大きいぬいぐるみだと思えば、いける気がする」


「きゅう……(彼氏なんだけど……)」


「抱き枕みたいな感じで!」


「きゅう!(彼氏だよっ!)」


「いつも一緒に寝てるじゃん」


「きゅきゅう〜(そうだけどさ〜)」


 昨日までは、人間だった。

 腕もあったし、足もあったし、少なくとも抱き枕に例えられるような身体ではなかった。


「それに」


 梓が俺を見る。


「修也でしょ?だったら、一緒に寝たい」


 その言葉に、何も返せなくなった。


「……ダメ?」


「きゅう……」


 ダメなわけがない。

 むしろ。


(……俺も、一緒に寝たい)


 こんな姿になった以上、もう無理だと思っていた。


 隣に寝転がって。

 くだらない話をして。

 そのまま眠る。


 昨日まで当たり前だった、そんなことさえ。


「きゅう(分かった)」


 一本の触手を伸ばして、梓の手に触れる。


「一緒に寝る?」


「きゅう!(一緒に寝る!)」


「よし!」


 梓が笑う。


「じゃあ今日から修也、抱き枕ね」


「きゅう!!(彼氏!!)」


◇◇◇


 それから、数日が経った。


「修也〜」


「きゅ?(ん?)」


 ソファでテレビを見ていると、隣に座っていた梓が俺の触手を一本持ち上げた。

 最初こそ触れるだけでも震えていたというのに、今ではすっかり慣れたらしい。


 触手を握る。

 撫でる。

 時には抱きかかえたままテレビを見る。

 夜になれば、当然のように同じベッドへ入ってくる。


(……順応するの早くない?)


 正直、もっと時間がかかると思っていた。

 それどころか。


「…………」


 むに。


「きゅう(梓)」


 むにむに。


「きゅう(梓さん?)」


「何?」


「きゅきゅう(何じゃないんだよ)」


 梓の手を触手でぺしぺし叩く。

 最近では、意味もなく俺の身体を触るようになった。


「なんか落ち着くんだよねぇ」


「きゅう……」


「柔らかいし、あったかいし」


 梓が俺の身体へもたれかかる。


「冷房つけてると、たまに寒くなるじゃん?」


「きゅう(そうだな)」


「そういうとき、修也ちょうどいいんだよねぇ」


(ちょうどいい)


「大きいぬいぐるみで、抱き枕で、湯たんぽにもなる」


(……それは聞きずてならないな)


 俺は無言でホワイトボードを引き寄せた。


『修也は彼氏』


「うん」


 その下に書き足す。


『リピート!』


「えっ」


 ボードを梓の正面に突き出す。


「…………修也は彼氏」


「きゅう!きゅきゅう!(そう!俺は彼氏!)」


「ふふっ、満足?」


「きゅう!(ああ!)」


「はいはい。私の彼氏は、柔らかくてあったかくて、とっても便利です」


「きゅう!?(適当にあしらわれた!?)」


「あはは!」


「ぎゅう……」


(もう完全にクッション扱いじゃん)


 まあ、怖がられるよりはずっといい。

 こうして当たり前のように触れてもらえるだけで、俺は十分だった。


 そう思っていた、そのとき。


「……いける」


「きゅ?(何が?)」


 梓が突然、俺の身体から顔を上げた。


「いける……いけるよ、修也!」


「きゅう?(だから何が?)」


 妙に自信に満ちた顔をしている。


「今なら一緒にお風呂も行ける気がする!」


(ふろ?…………風呂!?)


「一緒に入ろっか!」


「きゅう!?(一緒に!?)」


「うん!」


「きゅきゅう!?(なんで急に!?)」


「だって一緒に寝るのも平気だったし、こうやってくっついてても全然平気だし」


 梓はそう言いながら、証明するように俺の身体をぎゅっと抱きしめる。


「だから、お風呂もいける!」


「きゅう……?(その理屈でいいのか……?)」


「よし!」


 梓が勢いよく立ち上がった。


「お風呂入ろ!」


「きゅう!?(今から!?)」


「善は急げ!」


(これ、善なの!?)


 梓はすでに浴室へ向かっている。


「今からお湯溜めてくるね〜」


「きゅう……(まじなのね……)」


 俺はその背中を見送った。


(…………)


 数日前。

 俺を見て悲鳴を上げていた人と、同一人物なんだよな?


「修也〜!」


「きゅう!(今行く!)」


 まあ。


(……元気になったなら、いいか)


 触手を動かし、梓のあとを追った。


◇◇◇


 それから、さらに数日後。


 ピンポーン。


「ん?」


 昼過ぎ。

 リビングでだらだらと過ごしていると、玄関からインターホンの音が聞こえた。


「誰だろ」


「きゅう(さあ)」


「ちょっと見てくるね〜」


「きゅっきゅ〜(いってら〜)」


 梓が立ち上がり、玄関へ向かう。

 特に気にすることもなく、俺はそのままテレビを眺めていた。


 しばらくして、玄関の方から話し声が聞こえてくる。


「警察……?」


「きゅ?(警察が来たのか?)」


 なんとなく気になって耳を澄ませた。


「この辺りで、大きな蛇が目撃されまして」


「蛇?う〜ん……私は見てないですねぇ」


 その言葉に、俺は固まった。


(蛇……?)


 少し考える。


(……あ)


 そういえば、少し前にベランダで見かけた気がする。

 結構大きかったから驚いたけど、いつの間にかいなくなっていた。


(あれのことか?)


 そういえば、あれからどうなったのかまったく知らなかった。


「結構大きい蛇なんですか?」


「はい。現在も捕獲できていないため、近隣のお宅を回って目撃情報がないか確認しているところなんです」


「へぇ〜」


「ベランダや庭先などで見かけたりはしていませんか?」


「う〜ん……私は見てないですねぇ」


(俺は見た)


 というか、思いっきり目が合った。


「ご家族の方も、何かご存じないでしょうか?」


「あ、彼氏と二人暮らしです」


「そうなんですね。彼氏さんは今、ご在宅ですか?」


「いますよ〜」


「…………」


(ん?俺?)


「修也〜!」


(待って)


「ちょっと来て〜!」


(待って待って待って)


 俺は自分の身体を見る。


 不定形の身体。

 二つの目。

 何本もの触手。


(俺を!?)


「修也〜?」


「きゅう!?(何!?)」


「警察の人が蛇見なかったかって〜!」


「きゅう!(見たけど!)」


 いや、問題はそこじゃない。


(俺、この姿で出ていいの!?)


 梓はもう俺の姿にすっかり慣れている。

 だが、それは梓だけだ。

 普通の人間が今の俺を見たらどうなるかなんて、考えるまでもない。


「修也〜?」


「きゅう……(行きたくない……)」


 呼ばれたところで、素直に玄関へ向かう気にはなれなかった。


(というか、絶対見せない方がいいだろ)


「もう、しょうがないなぁ」


 ぱたぱたとスリッパの音が近づいてくる。


「きゅ?(え?)」


 リビングまで戻ってきた梓は、そのまま俺の身体へ両腕を回した。


「きゅきゅっ!?(ええっ!?)」


「よいしょ」


 ひょい、と持ち上げられる。


「きゅきゅう!?(ちょっと待って!?)」


「ほら、修也も見たか聞きたいんだって」


「ぎゅうぅ〜!!(だからって連れてくな!!)」


 じたばたと触手を動かすものの、梓は気にする様子もなく、そのまま俺を抱えて玄関へ戻っていく。


(待って待って待って!)


(俺を!?)


(この姿の俺を警察官に見せるの!?)


「お待たせしました〜」


「いえ──」


 警察官がこちらを向く。


「こちら、彼氏の修也です」


「きゅう……(どうも……)」


 梓の腕に抱えられたまま、警察官と目が合った。


「…………」


(ほらぁ!!)


 やっぱりこうなるじゃん!

 どうすんだよ、これ!


 梓を見ると、普通に笑っている。


(なんでそんな平然としてんの!?)


 もう一度、警察官を見る。


「…………っ」


 その目が、大きく見開かれた。

 そして。


── 正気度ロール発生

── 対象:警察官

── ダイス結果:失敗

── 一時的狂気:錯覚

── あなたは正しく現実を見つめることができない


「…………」


 警察官が、一度瞬きをした。


 そして、俺を見る。


「…………ああ」


「きゅ?」


「あなたが彼氏さんですね」


「はい、彼氏です」


「……きゅう?(……え?それでいいの?)」


「すみません。この辺りで大きな蛇を見かけませんでしたか?」


 警察官の平然とした反応に驚きながらも、触手でホワイトボードを引き寄せる。


『見た』


「修也、見たの?」


「きゅう(うん)」


 ボードを書き直す。


『数日前、ベランダにいた』


「ベランダですか?」


「きゅう(そう)」


『目が合ったら逃げた』


「なるほど」


 警察官は手帳へ何かを書き込んでいる。


「どちらの方向へ逃げたか分かりますか?」


 思い出す。


『必死すぎて見てない』


「ああ……そうですか」


(そう、蛇の方が)


 俺を見た瞬間のあいつは、本当に必死だった。


「分かりました。情報ありがとうございます。もしまた見かけましたら、近づかずに警察へご連絡ください」


「は〜い」


「きゅ〜う(は〜い)」


「では、失礼します」


 警察官が軽く頭を下げる。

 梓も笑顔で見送った。


「ご苦労さまで〜す」


 ガチャ。


 玄関の扉が閉まった。


「…………」


「…………」


「さて、お昼どうしよっか」


「きゅきゅきゅきゅっ!(いやいやいやいやっ!)」


「ん?」


 俺は勢いよくホワイトボードを引き寄せた。


『今の人、大丈夫!?』


「警察の人?」


「きゅう!(そう!)」


「普通だったよ?」


「きゅきゅう!!(それがおかしい!!)」


 俺のこと最初に見た瞬間、明らかに普通じゃなかった。

 絶対に何かがおかしかった。


「でもちゃんと話せてたし、大丈夫じゃない?」


「きゅう……(まあ……)」


「それより修也、蛇見てたんだね」


「きゅう(実はね)」


「まあ、無事に見つかるといいねぇ」


「きゅう(そうだな)」


 梓はそう言って、何事もなかったようにリビングへ戻っていく。


「…………」


 俺は閉じられた玄関の扉を見つめた。


(……大丈夫だよな? あの人)


 少しだけ心配になった。

 でも。


(まあ……警察官だし、大丈夫か)


 俺も梓のあとを追った。



 こうして俺は、初めて他人に今の俺の姿を見られた。

 特に問題はなかった。

 たぶん。


◇◇◇


 それから、また数日後。


 ピンポーン。


「は〜い」


 インターホンが鳴ると、梓がぱたぱたと玄関へ向かっていった。


「きゅう……」


 俺はソファに寝転がったまま、その背中を見送る。


 この前は警察だったけど、今日は誰だろう。

 しばらくすると、玄関の方から女の人の声が聞こえてきた。


「突然の訪問、申し訳ございません。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」


「なんの用件でしょう?」


「あなたは、神様を信じて──」


「あ、宗教はお断りしてま〜す」


 バタン。ガチャっ。


 梓が戻ってきた。


「知らない人だった」


「きゅう(だろうな)」


「最近、訪問多いねぇ」


「きゅう(警察の次は宗教か……)」


 梓は何事もなかったように俺の隣へ座ると、再びテレビを見始めた。

 俺もテレビへ視線を戻す。


(まあ……宗教とか興味ないしな)


「ねえ修也、アイス食べる?期間限定でプリン味あってさ〜」


「きゅう!(食べる!)」


「はいはい」


 梓が立ち上がり、冷凍庫へ向かう。


 こうして。

 俺たちの平穏な日常は、今日も守られた。

 たぶん。


◇◇◇


 それから、しばらくして。


「へぇ〜。この人、結婚したんだ」


「きゅ?(誰?)」


 ソファでスマートフォンを眺めていた梓が、画面をこちらへ向けてくる。


「ほら、この俳優さん。前に一緒にドラマ見たじゃん」


「きゅう(ああ、この人か)」


「相手も俳優さんだって。二人でコメント出してる」


「きゅう(へぇ〜)」


 特に興味もなく返事をして、テレビへ視線を戻す。


 けれど。


「結婚かぁ」


 梓が何気なく呟いた言葉に、触手が止まった。


(……結婚)


 今まで、あまり考えたことがなかった。


 梓とは付き合っている。

 一緒に暮らしている。

 このままずっと一緒にいられたらいいとは思っていた。


 だから、いつかは。


「…………」


 自分の身体を見る。


 何本もの触手。

 人間とは似ても似つかない身体。

 今の俺と、結婚。


(できるのか?)


 そもそも、こんな姿になった俺が、梓と結婚なんてしていいんだろうか。


 梓はまだ若い。

 これから先、いくらでも──。


「あ、私も結婚するなら修也とするからね」


「きゅう!?!?」


 思考をぶった切るように、梓が言った。


「…………」


「…………」


「きゅう!?(え!?)」


「何、その反応」


「きゅきゅう!?(いや、結婚!?)」


「うん?」


「きゅう!?(俺と!?)」


「何焦ってるの?」


 梓はわたわたとしている俺に、不思議そうな顔をしている。

 俺は慌ててホワイトボードを引き寄せた。


『俺と結婚するの?』


「するよ?」


『この姿で?』


「うん」


『本当に?』


「うん」


 迷いがない。

 あまりにもない。


「というか」


 梓が俺を見る。


「修也は私と結婚したくないの?」


「きゅう!?(したい!!)」


 即答した。

 ボードにも爆速で書いた。


『したい!!』


「じゃあいいじゃん」


(いいんだ)


「きゅう……(いいのか……)」


「それとも、他に結婚したい人いる?」


「きゅきゅう!!(いない!!)」


「じゃ、決まりだね〜」


「きゅう!?(決まった!?)」


「そのうち籍入れよっか」


「きゅう!?!?」


 話が早い。

 早すぎる。

 俺はまだ、結婚について考え始めて一分も経っていない。


 でも。


 梓はもうスマートフォンへ視線を戻している。

 まるで、今の会話なんて大したことでもなかったみたいに。


「きゅう……」


 俺は自分の身体を見る。


 人間とは似ても似つかない身体。


 それから、隣にいる梓を見る。


(……そっか)


 この姿でも。


 俺はまだ、梓の彼氏で。


 いつかは。


(……旦那になるのか)


「きゅぁ〜……(うぁ〜……)」


 なんだか急に恥ずかしくなってきた。


「修也?」


「きゅう!(なんでもない!)」


「ふ〜ん?」


 梓がにやっと笑う。


「未来の旦那さん?」


「ぎゅううう!!」


「ふふっ」


(やめろぉぉぉ!!)


◇◇◇


 怪物になってから、気づけば二か月近くが経っていた。


「修也さぁ、ちょっと太った?」


「…………きゅ?」


 さっきから妙に真剣な顔で俺を見ていると思ったら、梓の口から飛び出したのはそんな一言だった。


「なんか前より丸くなった気がして。最近ずっと家にいるじゃん?」


「きゅう……」


 自分の身体を見る。

 不定形で、丸い。というか、そもそもどこからどこまでが腹なのかもよく分からない。


 この姿になってから、外には出ていない。家の中で動くといってもリビングと寝室を往復するくらい。それなのに飯は普通に食っている。


(…………太ったのか、俺)


「まあ、柔らかくて気持ちいいから私は好きだけどね」


「きゅう……(フォローになってない……)」


 このままではまずい。

 そう思った俺は、その日のうちに運動することを決意した。


◇


「いーち、にー、さーん……」


「きゅあっ!きゅあっ!(せいっ!せいっ!)」


「修也、頑張れ〜」


 翌日から、俺は触手を使った筋トレを始めた。

 正しい鍛え方なんて分からないので、とりあえず身体を持ち上げたり、触手を曲げ伸ばししたり。とにかく全身を動かしている。


「なんか、すごいね。触手を何本も同時に鍛えられるの、効率良さそう」


「きゅう!(だろ!)」


 俄然やる気が出てきた。


(目指せ、細マッチョ!)


 そこで自分の身体を見る。


(細……?)


 まあいい。

 とにかくマッチョを目指そう。


◇


 そんな生活を始めて、さらに数日。


「修也〜、ちょっと休憩したら?」


「きゅう!(あと十回!)」


「ハマってるなぁ」


 梓が呆れたように笑いながら、買ってきた食材を冷蔵庫へ入れている。

 俺は横目でそれを眺めていて、ふと気づいた。


(…………あれ?)


 梓は今日も仕事へ行って、帰りに買い物をしてきた。

 一方の俺は、一日中家にいて筋トレをしていた。


 家賃も、光熱費も、食費も。

 今は全部、梓が払っている。


 ついでに最近飲み始めたプロテインも。


「きゅ、きゅう……(な、なんてこった……)」


「修也?」


 俺は静かにホワイトボードを引き寄せた。


『俺、ヒモじゃん』


「今さら?」


「ぎゅうううう!?(今さら!?)」


「だって、もう2か月は経ってるしね〜。家賃とか、ずっと私が払ってるよ?」


「ぎゅううう……(ぐぬぬぅ……)」


 知っていた。

 知っていたけど、改めて突きつけられると辛い。


「別にいいけどね。私、高給取りだから」


「きゅう!!(よくない!!)」


 勢いよくボードを書き直す。


『俺も働く。金を稼ぐ』


「どうやって?」


「…………」


 自分の触手を見る。

 物は掴める。細かい動きも、以前よりずっと上手くなった。


 そして、テーブルの上にあるノートパソコンへ目を向ける。


(……これ、いけるんじゃないか?)


 一本の触手をキーボードへ伸ばし、試しにキーを押してみる。


 ぽち。


『あ』


「…………」


 さらに、ぽちぽち。


『あず』


 さらに、ぽちぽち。


『あずさ』


「きゅう!?(どう!?)」


「修也、めちゃくちゃ遅いよ」


「きゅう!!(これから頑張るんだよ!!)」


 ばんばんばんばんっ!


 何本もの触手で床を叩く。


「あはは!分かった、分かったから!」


「きゅうぅ!!(絶対速くなってやる!!)」


 ばんばんばんっ!


「修也、地団駄踏んでるみたい」


「きゅう!!(踏んでんの!!)」


「足ないのにね〜」


「ぎゅううう!!」


 ばんばんばんばんっ!


「あははは!」


 今は遅くても、俺には触手が何本もある。全部を自在に動かせるようになれば、人間だった頃より速く打てるかもしれない。


(よし!)


 身体を鍛える。

 そして──。


(稼ぐ!!)


◇◇◇


 ある日の深夜。


 ガタン。


「…………」


 物音で目が覚めた。


「きゅ……?」


 隣を見ると、梓はまだ眠っている。

 耳を澄ませてみるが、何も聞こえない。


(気のせいか……?)


 そう思ったとき。


 ガタッ。


 今度は、はっきり聞こえた。

 玄関の方だ。


(……何?)


 俺は身体を起こした。


 こんな時間に誰かが訪ねてくるはずもない。インターホンだって鳴っていないし、鍵もちゃんと閉めていたはずだ。


 梓を起こそうか迷ったが、何でもなかったらわざわざ起こす必要もない。


(ちょっと見てくるか)


 音を立てないよう寝室を出て、暗い廊下を進む。

 そして、玄関の方を覗いた。


「…………」


 知らない男がいた。


(…………え)


 男はまだ俺に気づいていない。

 暗がりの中、辺りを窺いながら部屋の奥へ進もうとしている。その手には、刃物が握られていた。


(強盗じゃん)


 どうやって入ったのかなんて、今はどうでもいい。

 問題は、その手に刃物が握られていることだった。


 男がこちらを向いた。


「…………」


「…………」


 目が合った。


「きゅう……(どうも……)」


「…………っ」


 男の目が、大きく見開かれる。


── 正気度ロール発生

── 対象:強盗

── ダイス結果:失敗

── 一時的狂気:暴力衝動

── あなたは誰彼構わず暴力を振るおうとする。または誰彼構わず殺そうとする


「な……なんだよ……」


「きゅう……」


「なんなんだよ、お前……!」


 男の顔からみるみる血の気が引いていく。

 刃物を握った手は震え、呼吸も荒い。


(……まずいな)


 どう見ても普通の状態じゃない。


 下手に刺激しない方がいい。

 そう思って、動かずにいたのだが。


「……死ね」


「きゅ?」


「死ねえええええ!!」


「きゅう!?(なんで!?)」


 男が刃物を振り上げ、こちらへ突っ込んでくる。


(いやいやいやいや!)


(普通、逃げるだろ!!)


「うあああああっ!!」


「きゅう!!」


 咄嗟に一本の触手を振るった。


 バァン!!


「ぐぇっ!?」


 鈍い音とともに、男の身体が吹っ飛ぶ。


「…………」


 そのまま玄関先へ倒れ込んだ男は、ぴくりとも動かなくなった。


 男を見る。

 自分の触手を見る。

 もう一度、男を見る。


(…………筋トレ、すげぇ)


「……修也ぁ?」


「きゅ?」


 背後から眠そうな声が聞こえた。

 振り返ると、梓が寝室から出てきたところだった。目を擦りながらこちらへ歩いてくる。


「何の音……?」


「きゅー……(あー……)」


 梓が俺を見る。

 その向こうに倒れている男を見る。

 床に転がった刃物を見る。


「あっ」


 どうやら一気に目が覚めたらしい。


「……泥棒?」


「きゅう!(そう!)」


「修也がやったの?」


「きゅう(うん)」


「へぇ〜」


 梓は男と俺を交互に見た。


「修也、強いね〜」


「きゅきゅう!(俺もびっくりしてる!)」


「筋トレの成果?」


「きゅう!(えっへん!)」


「すごいねぇ」


 梓は素直に感心したように頷いたあと、寝室からスマートフォンを持ってきた。


「じゃあ、警察呼ぶね」


「きゅう(頼む)」


「…………」


「きゅ?(どうした?)」


 電話をかけようとした梓が、なぜか俺を見ている。


「修也、どうする?」


「きゅう?(何が?)」


「警察来るけど」


 この前のことを思い出した。


 俺を見た瞬間、明らかに様子がおかしくなった警察官。

 一瞬固まったあと、なぜか俺を普通の人間のように扱い始めた。


(…………ふむ)


 俺はホワイトボードを引き寄せた。


『隠れる』


「え?この前は大丈夫だったじゃん」


「きゅう(いやいや)」


 ボードにもう一言書き足す。


『後はよろしく』


「えっ」


 梓の返事も待たず、寝室へ向かう。


「ちょ、修也?」


 そのままベッドの下へ、ずるりと身体を滑り込ませた。


「…………」


「…………」


「ほんとに隠れた」


「きゅう(よろしく)」


「もう〜」


 梓は呆れたように笑いながら、スマートフォンを操作し始めた。


 こうして。

 警察が到着するまでの間、俺はベッドの下に隠れることになった。


◇


 しばらくして、玄関から何人かの話し声が聞こえてきた。


 俺はベッドの下。

 人間だった頃なら絶対に入れなかった隙間に身体を押し込み、何本もの触手もぎゅっと縮めて収納している。


(こういうときは便利だな、この身体……)


 そんなことを考えていると、リビングから警察官の声が聞こえてきた。


『この男性を制圧したのは、あなたですか?』


『…………』


 少しだけ、間があった。


『……私です』


『…………』


『あなたが、お一人で?』


『はい』


『…………』


『…………』


 疑われてる。


 そりゃそうだ。

 梓は別に筋骨隆々でもなければ、格闘技をやっているわけでもない。


 あの男を玄関まで吹っ飛ばしたのは、俺だ。


(ごめん、梓……)


 とはいえ今ここから出ていって、『本当は俺がやりました』なんてホワイトボードを掲げるわけにもいかない。


(……大人しくしとこ)


 俺はベッドの下で、さらに小さくなった。


◇◇◇


 ある日の夜。


「…………」


 窓の外を眺める。

 もう何度目だろう。


 昼間は人通りが多いから、こうして外を見るのは夜の方が好きだった。


 道路を走る車。

 歩道を行き交う人たち。

 犬を連れて歩く人の姿も、小さく見える。


 怪物になる前は、俺もあそこにいた。


 何も考えずに外を歩いて。

 仕事へ行って。

 買い物をして。

 梓と出かけて。


「…………きゅう(…………いいなぁ)」


 別に、今の生活が嫌なわけじゃない。


 梓がいる。

 一緒に飯を食って、テレビを見て、同じベッドで寝る。

 仕事だって、この身体でできることを探し始めた。


 それでも。


(……外、出たいな)


「修也?」


「きゅ?(ん?)」


 振り返る。


 いつの間にか、梓がこちらを見ていた。


「…………」


「きゅう?(何?)」


「…………よし!」


「きゅ?(おぉ?)」


 梓が立ち上がった。

 こっちへ来る。


「きゅ、きゅう?(え、なになに?)」


「よいしょ!」


「ぎゅっ!?」


 いきなり身体を抱え込まれた。


「きゅきゅう!?(なんだ急に!?)」


「行こっか!」


「きゅう!?(どこに!?)」


「外!」


「ぎゅうううう!?(嫌だああああ!!)」


 暴れる。

 めちゃくちゃ暴れる。

 しかし梓は俺をぎゅむっと抱えたまま、玄関へ向かっていく。


「大丈夫、大丈夫〜」


「きゅきゅう!!(何が大丈夫なんだよ!!)」


「堂々としてれば、ぬいぐるみみたいに見えるって」


「きゅう!?(この見た目で!?)」


「よくあるじゃん、キモカワ系〜」


「ぎゅううう!!(誰がキモカワだ!!)」


「ほら、静かに。ぬいぐるみは喋らないよ〜」


「…………!」


(こ、こいつ……!)


 梓は俺をぎゅむっと抱えたまま、玄関へ向かっていく。


(いやいやいや!本当に外に出す気じゃん!!)


「きゅっ、きゅう!!(待って、まじ待って!!)」


 咄嗟に触手を伸ばし、玄関の壁や靴箱、ドア枠をがっしりと掴む。


「お?」


「きゅうううう!!(行かない!!)」


 ぎゅうううっ、と全身に力を込める。


(絶対に離すもんか!!)


「もう、修也ってば〜」


 ぐいっ。


「ぎゅっ!?」


 一本、外れた。


「きゅう!?(え!?)」


 ぐいっ。もう一本。


「きゅきゅう!?(ちょっと!?)」


「ほら、行くよ〜」


 ぐいっ。ぐいっ。


「ぎゅううううう!!」


 必死に玄関へしがみつく俺を、梓は容赦なく引き剥がしていく。


(なんで!?俺、筋トレしたよね!?強盗吹っ飛ばしたよね!?)


「はい、最後の一本〜」


「ぎゅうううううう!!(ぬおぉぉぉぉぉっ!!)」


 べりっ。


(…………ぁあっ)


 全敗した。


「よし、行こっか!」


「きゅうぅ……(強い……)」


「何か言った?」


「きゅう……(なんでもない……)」


 こうして俺は、梓に抱えられたまま久しぶりに家の外へ連れ出された。


 久しぶりに踏み出した、家の外。


 誰かに見られていないか。

 悲鳴を上げられないか。

 警察を呼ばれないか。


 怖くて仕方がなかった。


 けれど、梓はいつも通りだった。


「ほら、行くよ〜」


 俺を抱えたままエレベーターに乗り、一階へ降りる。

 途中ですれ違った人が、ちらりとこちらを見た。


「…………っ」


 思わず身体が強張る。

 けれど、その人はすぐにスマートフォンへ視線を戻した。


(……あれ?)


 何も言われなかった。


 そのまま駐輪場へ向かう。


「よし、久しぶりに乗るか〜」


「きゅ?」


 梓が向かった先には、見慣れたバイクが停められていた。


「修也、後ろね」


「きゅう!?(バイク!?)」


「大丈夫、大丈夫」


(今日そればっかりだな!?)


 梓がバイクへ跨がる。

 そして俺を後ろへ乗せると、何本かの触手を掴んだ。


「これ、腰に巻いて」


「きゅ?(腰?)」


「落ちたら危ないからね。しっかり捕まってなよ!」


「……きゅう(……はい)」


 言われるがまま、梓の腰へ触手を巻きつける。


「もっとしっかり!」


「きゅう!(はい!)」


 ぎゅむっ。


「よし!」


 エンジンがかかる。


 ブロロロロロ……。


「…………」


(待って)


 なんか嫌な予感がする。


「じゃ、行くよ!」


「きゅう!?(ちょっ──)」


 バイクが勢いよく走り出した。


「うぎゅううううううう!!」


「あはははは!」


◇


「…………ぎゅう……」


「着いた〜!」


 どれくらい走ったのだろう。

 気づけば、周囲に建物はほとんどなくなっていた。


 街灯も少ない。

 聞こえるのは、木々が風に揺れる音くらい。


 山道の途中にある開けた場所へバイクを停め、梓がヘルメットを外した。


「ほら。大丈夫だったでしょ?」


「きゅう……(怖かった……)」


「誰にも何も言われなかったじゃん」


「…………」


 確かに。


 何人かとはすれ違った。

 車からこちらを見た人もいた。


 それでも。


 誰も悲鳴なんて上げなかった。

 誰も俺たちを追いかけてこなかった。


「ほら修也」


「きゅ?」


「上見て」


 言われるまま、見上げる。


「…………」


 星が見えた。

 街の中から見るよりも、ずっとたくさん。


「綺麗だねぇ」


「きゅう(ああ)」


 梓も隣で空を見上げる。

 しばらく、二人で星を眺めていた。


 やがて。


「ね、修也」


「きゅ?(うん?)」


「怖がることなんてないよ」


「…………」


「意外とさ。みんな自分のことで精一杯で、他人のことなんてそんなに見てなかったりするんだよ」


 梓が笑う。


「だから、好きに過ごそうよ。好きに外に出て、好きに生きようよ」


「…………」


「私たち、まだ三十にもなってないんだよ?これから先、まだまだ長いんだからさ」


 夜風が吹く。


「姿が変わったからって、終わりじゃないよ」


 梓は満天の星空へ両腕を広げた。


「ほら──私たちの冒険は、まだまだこれからだ〜!ってね」


「…………きゅう(…………梓)」


 何だそれ。

 打ち切り漫画みたいじゃん。


 そう思ったけれど。


「きゅう!(おう!)」


 一本の触手を、空へ向かって高く伸ばした。


◆◆◆


【どこかの探索者視点】


 ──どうして、こんなことになった。


「はっ……はっ……」


 荒い呼吸を繰り返しながら、男は壁に背を預けた。


 握りしめた拳銃には、もうほとんど弾が残っていない。

 仲間とはぐれ、出口も分からない。


 そして、目の前には。


「…………」


 人間ではない、何かがいた。


 甲殻類を思わせる身体。

 背中から伸びる巨大な翼。

 頭部から生えた、いくつもの触角。


 その異形が、両の鋏をゆっくりと持ち上げる。


 カチ。カチカチ。


 硬質な音が、薄暗い研究室に響いた。


「…………っ」


 男は息を呑む。


 こんな生物が、この世に存在するはずがない。


 そう思いたかった。

 だが、いる。


 確かに、目の前に。


「くそ……っ」


 震える手で拳銃を構える。


 ここまでなのか。


 そう思った、そのとき。


 ──ブロロロロロロ……。


「…………?」


 遠くから、何かが聞こえた。


(なんだ……?)


 エンジン音。

 それも、少しずつ近づいてきている。


 ブロロロロロロロロ──!


「…………は?」


 どんどん音が大きくなる。


(待て)


 ここは建物の中だ。

 なのに、どうして。


 そう思った次の瞬間。


 ガシャァァァァン!!


「うわあああああ!?」


 扉とその窓ガラスが、まとめて派手に砕け散った。


 飛び散る破片。

 轟くエンジン音。


 そして、破壊された入口の向こうから──バイクが突っ込んできた。


「はああああああ!?」


 そのままの勢いで、目の前にいた化け物へ激突する。

 凄まじい音とともに、その身体が吹っ飛んだ。


「…………は?」


 男は呆然と、その光景を見つめる。


 床を滑ったバイクが、ようやく止まった。


「よっし!」


 運転していた女が身体を起こし、ヘルメットを外す。


「修也、今の見た!?やったよ!」


「きゅう!」


「一発〜!」


 女が嬉しそうに拳を突き上げる。


「…………」


 男は呆然と、その光景を見つめていた。

 そして女が、ようやくこちらを向く。


「…………あれ?人いたんだ」


 女が首を傾げる。

 その背後から、何かが動いた。


「…………」


 男は目を見開いた。


 不定形の身体。

 そこから伸びる、何本もの触手。

 身体の表面に浮かぶ、二つの目。


「…………」


「きゅ?」


 目が合った。


「…………あ、見ちゃったねぇ」


 なぜ、あのような得体の知れないナニカと平然と話せる?

 なぜ、この状況で正気でいられる?

 なぜ──。


「固まっちゃったかぁ。ごめんねぇ、別に驚かせるつもりはなかったんだけど」


「…………」


 何を言っているんだ、この女は。


「うーん……」


 女が少し考え込む。


「修也、こういうとき、どうすればいいんだっけ?」


「きゅう、きゅきゅう」


 女がナニカに問いかけると、それは何やら鳴き声を返した。


「あっ、そっか!」


 納得したように手を打った。

 そして、男へ向き直る。


「とりあえず──」


 にこりと笑って。


「SAN値チェック、お願いします」


「…………は?」


 そのとき。

 どこからか、ダイスの転がる音が聞こえた気がした。


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