地味でつまらないと婚約破棄された私を、いつも褒めてくれた近所のおじいさんは、身分を隠した先王陛下でした
ジェラルド・グレイフォード伯爵令息の誕生祝賀会は、王都でも評判の華やかな夜会だった。
色とりどりのドレス、磨き上げられた銀器、甘い花の香り。
本来なら私は婚約者として、今夜の主役であるジェラルドの隣に立つはずだった。
けれど、現実の彼は私を見て開口一番こう言った。
「エレノア、君は今日もずいぶん地味だな」
周囲の貴族たちが、聞こえないふりをしながら視線だけをこちらへ向けてくる。
私は笑みを崩さないようにして答えた。
「誕生日のお祝いですもの。主役より目立ってはいけませんでしょう」
「そういうところが、つまらないんだ」
ジェラルドはうんざりしたように肩をすくめた。
ここ数か月、彼はずっとこんな調子だった。
婚約者だった頃の穏やかさは消え、私が工房の帳簿や出荷記録の話をすれば露骨に顔をしかめ、贈り物の相談をしても「もっと華やかなものはないのか」と鼻で笑う。
それでも今日は彼の誕生日だ。
祝いの席を荒らしたくなくて、私は何も言わずにいた。
贈り物として用意したのは、上質な革で作った帳簿入れだった。
彼は最近、工房の書類を持ち歩くことが増えていたからだ。役に立つものの方がいいと思った。けれど、その考え方そのものが、彼には気に入らなかったのだろう。
ふいに会場の入口がざわついた。
視線を向けると、見覚えのある小柄な老人がいる。
近所に住むアルおじいさんだった。
私が幼い頃から可愛がってくれている人で、庭いじりの合間に本を貸してくれたり、焼き菓子を分けてくれたりする。会うたびに「お前は素直で明るく、よく物を見る利発な子だ」と褒めてくれる、気のいいおじいさんだ。
だが今夜のアルおじいさんは、伯爵家の使用人たちに妙に恭しく迎えられていた。
その隣には、以前一度だけ見たことのある若い男性も立っている。アルおじいさんの家へお茶を届けた時、迎えに来ていた“孫”だ。背が高く、口数が少なくて、少し近寄りがたいほど整った顔立ちをしている。
今夜も彼は無駄のない所作で軽く一礼しただけで、壁際へ下がった。
あの人、ただの孫にしては妙に立ち居振る舞いが洗練されているのよね。
そう思ったのも束の間だった。
ジェラルドが私の前を素通りし、入口へ歩いていく。
その先から現れたのは、薔薇色のドレスをまとったミレイユ・フォンテーヌ子爵令嬢だった。
彼女は勝ち誇ったように微笑み、ジェラルドの腕に自分の腕を絡める。
会場の空気が変わった。
「みなさま、聞いてほしい」
ジェラルドが声を張る。
「私は本日をもって、エレノア・アシュベル侯爵令嬢との婚約を破棄する」
大広間がどよめいた。
けれど彼は満足そうに続けた。
「理由は単純だ。彼女は地味で、面白みがない。私の隣に立つには、あまりにも華やかさに欠ける」
「ジェラルド様には、もっとふさわしい方がいらっしゃいますもの」
ミレイユがうっとりとした声で言う。
「その通りだ。私が求めるのは、社交の場を明るくし、人の心を惹きつける女性だ。帳簿だの出荷記録だの、つまらないことばかり気にする令嬢ではない」
あちこちから、押し殺した笑いが漏れる。
胸の奥が冷えた。
それでも私は泣きたくなかった。
その時、会場の端にいたアルおじいさんと目が合った。
老人は深いため息をつき、首を横に振っていた。嘲りではない。呆れと、気遣いが滲んでいた。
「……承知いたしました」
ようやくそう言って、私は一礼した。
「祝いの席を乱して申し訳ありません。私はこれで失礼いたします」
「ずいぶん聞き分けがいいな」
「泣いてすがるよりは見苦しくないでしょう」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。
ジェラルドは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにミレイユへ笑いかけた。まるでもう、私などどうでもいいとでもいうように。
胸の奥で、何かが静かに切れた。
私はその場を後にした。
*
廊下へ出た途端、張りつめていた息が漏れる。
泣くものかと唇を噛んだ、その時だった。
「泣きたい時は、無理に我慢せんでもよい」
穏やかな声がした。
振り返ると、アルおじいさんが杖をついて立っていた。
「……アルおじいさん」
「ひどい男だのう」
「本当に」
そう答えた途端、泣きたいのに、なぜか少し笑ってしまった。
「私は、そんなにつまらない娘でしょうか」
「馬鹿を言うな。お前は素直で明るく、よう物を見る利発な子じゃ。少なくとも、わしはそう思っとる」
いつもの言葉だった。
胸が痛いほどありがたかった。
「ありがとうございます」
「しかし、お前は悲しいだけの顔ではないのう。何か引っかかっておる顔じゃ」
「……分かりますか」
「長い付き合いじゃからの」
私はしばらく迷ってから、小さく息を吐いた。
「以前から、少し気になっていたことがあるのです」
「ほう」
「グレイフォード家の工房の出荷です。軍へ納める武具の帳簿と、実際に運び出される数が合わないことがありました」
アルおじいさんの目が、ほんのわずか細くなった。
「数が合わぬだけか?」
「それだけではありません。裏門から出る荷だけ、いつも封蝋の印が違っていたのです。軍納品の青い印ではなく、見慣れない赤い印で……」
老人は黙って聞いている。
「一度だけ、ジェラルド様にも申し上げました。『この記録、おかしくありませんか』と」
「それで?」
「『女が帳簿に口を出すな。父上が決めたことだ。余計な詮索はするな』と」
そこで私は苦く笑った。
「私の見間違いかもしれません。でも、どうしても気になって」
「そうか」
アルおじいさんは短くうなずいた。
「見間違いならそれでよい。だが、お前がそう思うなら気に留める価値はある」
「……はい」
「今夜はもう帰れ。温かいものを飲んで、よく休みなさい」
私は深く頭を下げた。
この何気ない会話が、グレイフォード伯爵家を滅ぼす引き金になるとは、この時はまだ思っていなかった。
*
婚約破棄の翌日から、王都は妙に静かだった。
あれほど大勢の前で恥をかかされたのだから、私はさぞ「捨てられた令嬢」と噂されるのだろうと思っていた。
けれど露骨な悪評は驚くほど届かない。
父ローレンス侯爵は激怒していた。
婚約が破談になったこと以上に、あの場で私が辱められたことに対して。
「伯爵家には正式に抗議する。お前が恥じることは何もない」
「はい、お父様」
母もまた何も聞かず、ただ私の手を握ってくれた。
ありがたかった。
だからこそ、泣いてばかりはいられないと思った。
それでも夜になると、ジェラルドの言葉が蘇る。
――地味で、面白みがない。
――帳簿だの出荷記録だの、つまらないことばかり。
痛かった。
だが同時に、妙に引っかかってもいた。
どうして彼は、あそこまで私が見ていたものを嫌がったのだろう。
その答えが出るより早く、王都は再び揺れた。
王家の内偵が、グレイフォード伯爵家へ入ったのだ。
最初は誰も理由が分からなかった。
だが数日後、その理由が明らかになる。
グレイフォード伯爵家は、中立商会への売却を装い、長年にわたり敵国へ武器を横流ししていた。
剣、槍、弩の部品、甲冑用の金具。
軍需契約で得た資材も技術も、まとめて敵へ流していたのだ。
伯爵家当主が主導し、関係者は次々に拘束された。
そしてジェラルドもまた、完全に無関係ではいられなかった。
彼はすべてを知らなかったのかもしれない。
けれど、不自然な帳簿も、違う封蝋の荷も、一度ならず目にしていた。私が指摘した時も、彼は調べるどころか、見て見ぬふりを選んだ。
家の利益を守るために。
その結果、グレイフォード伯爵家は王命により取り潰しとなった。
私は居間でその報せを聞き、しばらく言葉を失った。
「……本当に」
「本当だ」
父は厳しい顔で言った。
「先王陛下ご自身の進言があったと聞く」
「先王……陛下?」
思わず聞き返すと、父は怪訝そうに私を見た。
「お前、知らなかったのか。最近、王都近郊で身分を隠して民や貴族の様子を見ておられたそうだ」
「まさか……」
脳裏に浮かんだのは、畑の脇で笑っていたアルおじいさんの顔だった。
あの人が。
本を貸し、花の育て方を教え、焼き菓子を分けてくれたあの人が。
先王陛下。
頭が追いつかなかった。
*
その三日後、私は父に伴われて王宮へ向かった。
内偵の発端として、婚約中に見た出荷の違和感について確認したい、とのことだった。
緊張しながら控えの間を歩いていると、前方の回廊から聞き覚えのある声がした。
「ミレイユ、待ってくれ。これは一時的なものだ。父上が釈明できれば――」
「お放しくださいませ」
曲がり角の向こうにいたのはジェラルドだった。
髪は乱れ、顔色は青白い。誕生祝賀会の夜に見せた余裕など、跡形もない。
その腕を振りほどいているのは、ミレイユだ。
「あなたは何か誤解なさっていますわ。わたくし、伯爵令息のあなたと親しくしていただけで、罪人の家と運命を共にするつもりなどございません」
「君は僕を愛していると言ったじゃないか!」
「伯爵家の若様を慕っていたのです。何も持たないあなたではありませんわ」
ミレイユはそう言い切ると、私に気づいた。
ほんの一瞬だけ顔を引きつらせたが、すぐに何事もなかったように裾を持ち上げ、一礼して去っていく。
ジェラルドは呆然とその背を見つめ、それから私を見た。
顔がさっと歪む。
「エレノア……」
「お久しぶりです、ジェラルド様」
「君は、僕を笑いに来たのか」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「もう、そんな気持ちもありません」
彼は何か言い返そうとして、けれど言葉を失った。
後ろから現れた近衛兵が無言で一礼し、彼を連れていく。
去り際、ジェラルドは一度だけ振り返った。
「……あの時、君の言うことをちゃんと聞いていれば」
かすれた声だった。
私は答えなかった。
答える必要も、もうないと思ったからだ。
彼自身が、いちばんよく分かっているはずだった。
*
その後、私は離宮へ通された。
応接間の扉が開く。
そこにいたのは、見慣れた小柄な老人――ではなく、礼装をまとい、ただ立っているだけで空気を変える威厳を宿した先王陛下その人だった。
それでも目元のいたずらっぽさだけは、いつものアルおじいさんのままだった。
「そんな顔をするでない、エレノア」
「……本当に、陛下だったのですね」
「うむ。黙っておって悪かったの」
私は膝を折り、深く頭を垂れた。
「知らずとはいえ、これまでの非礼をお許しください」
「堅苦しいのう。あれが気に入っておったのに」
陛下はくつくつ笑い、侍従を下がらせた。
「立ちなさい。お前と話したいのは、先王としてより、庭先で菓子を分け合った年寄りとしての方が大きい」
「陛下……」
顔を上げると、アルベルト陛下は優しく目を細めていた。
「お前が違和感を見逃さなかったこと、よく覚えておる。些細なずれを『気のせいかもしれません』で流さず、しかし軽々しく騒がず、まず考えた。その慎重さも、よう物を見る目も、立派な資質じゃ」
「私は、ただ変だと思っただけです」
「それで十分よ。多くの者は、その『変だ』を見て見ぬふりをする」
陛下の声が少し低くなった。
「ジェラルドは、それをした」
「……」
「お前の価値にも、家の罪にも、見る目がなかったのだ」
婚約破棄された夜からずっと、自分の中の何かが否定されたような気がしていた。
けれど今、その欠けた部分を静かに埋めてもらった気がした。
その時、扉が軽く叩かれた。
「入れ」
現れたのは、あの“孫”の青年だった。
今日も無駄のない所作で一礼し、静かに室内へ入ってくる。
彼は私を見て、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
「久しぶりです、エレノア嬢」
「……あなたは」
「レオンハルトだ」
アルベルト陛下が楽しそうに言った。
「わしの孫であり、この国の王太子じゃ」
「王太子殿下……!?」
思わず立ち上がりかけた私に、レオンハルト殿下は静かに首を振った。
「以前と同じようにしてくれ。祖父に茶を出してくれた時のお前の方が、ずっと話しやすい」
「ですが……」
「その時、お前は工房の帳簿の話をしていたな」
私は目を瞬いた。
あの時、確かに私は言ったのだ。
『嫁ぐ家のことを知っておきたくて。数字は嘘をつかないので、見ていて面白いのです』
彼はその言葉を覚えていたらしい。
「祖父からたびたびお前の話を聞いていた。今回の件でなおさら、直接話してみたいと思った」
「……私と、ですか」
「そうだ」
レオンハルト殿下はまっすぐに言った。
「これは褒美ではない。物のようにお前を迎えようという話でもない。ただ、王太子妃候補として、一度正式に話がしたいという申し入れだ。無論、断っても構わない」
褒美ではない。
その一言で、肩の力が抜けた。
「……少し考えさせてくださいませ」
「もちろんだ」
「ただ」
自分でも驚くほど素直に、言葉が続いた。
「お話は、してみたいと思います」
「それで十分だ」
レオンハルト殿下は短くうなずいた。
その横で、アルベルト陛下が満足そうに目を細める。
「ほれ見ろ。わしの見立ては間違っておらんかったじゃろう」
「祖父上は最初から結論を決めすぎです」
「見抜くのが早いだけじゃ」
祖父と孫のやり取りが、少しだけ可笑しかった。
私は思わず笑ってしまう。
「ようやくいつもの顔に戻ったのう、エレノア」
「……はい」
胸の奥が、じんわりと温かかった。
*
離宮からの帰り道、馬車の窓から見える空はひどく高かった。
ジェラルドは、もう何も持っていない。
家も、地位も、華やかな恋人も失った。
けれど私は、彼の不幸を見て笑いたいわけではなかった。
ただ、はっきり分かったのだ。
あの人が捨てたのは、地味でつまらない婚約者などではない。
違和感を見逃さず、支え、危うさに気づける相手だった。
そして、それを最初から見抜いていた人たちがいた。
近所のおじいさん。
アルおじいさん。
――いや、先王アルベルト三世陛下。
そして、無愛想な“孫”。
――王太子レオンハルト殿下。
ふっと笑みがこぼれる。
婚約破棄された夜、私は確かに傷ついた。
けれど、そこで終わりではなかった。
見る目のない者に捨てられた先で、見る目のある人たちが私を見つけてくれた。
それだけで、もう十分だった。
後日、レオンハルト王太子殿下から正式な面会の願いが届いた時、私は静かに笑ってこう答えた。
「お受けいたしますわ」
地味でつまらないと捨てられた令嬢の未来は、思っていたよりずっと明るい方へ続いていた。




