18 痛み
夜の校舎は、昼間よりもずっと静かだった。
遠くの教室から、ときおり鈍い音が響く。
どこかのクラスでは、まだ戦いが続いているのだろう。
それでも、この辺りは比較的落ち着いていて、廊下には薄暗い非常灯の光だけが残っている。
俺は一人で、いつものように体を動かしていた。
と言っても、筋トレだけではない。
もうこの段階で、ただ鍛えるだけでは足りないことは分かっていた。
「やっぱ実戦だな」
廊下の先を歩いているのは、犬に似た二足歩行の魔物だった。
背中が異様に盛り上がり、口元からは涎が垂れている。
動きは単調だが、油断すれば一気に距離を詰めてくるタイプ。
俺は、あえて物陰に隠れず、正面から歩いて近づいた。
魔物が気づき、低く唸る。
次の瞬間、爪を振り上げて突っ込んできた。
避けられた。
でも、避けなかった。
爪が肩を裂く。
焼けるような痛みが走り、思わず息が詰まる。
「……っ」
痛い。
普通に、めちゃくちゃ痛い。
だが、倒れない。
すぐに距離を詰め、剣で胴を斬る。
浅く、確実に。
魔物が体勢を崩したところで、ヒール。
傷口が塞がり、痛みが引いていく。
「……回復、早すぎだろ」
自分でやっていて、少し引く。
次は、逆だ。
攻撃を受けてから、わざと回復を遅らせる。
痛みが残ったまま、足を動かす。
集中力が削られ、判断が遅れる。
「……これはダメだな」
実感として、はっきり分かる。
ヒールは万能じゃない。
タイミングと使い方を間違えれば、むしろ足を引っ張る。
そんなことを繰り返しているうちに、廊下には魔物の死体がいくつも転がっていた。
――いや、正確には、倒した瞬間に消えるから、痕跡だけだ。
血と、破壊された床と、壁の傷。
その中心に、俺が立っていた。
「……やってるな」
背後から声がした。
振り向くと、藤原・光が立っていた。
剣は持っているが、構えはしていない。
「散歩?」
「まあね。考えを整理したくて」
相変わらず、何を考えているのか分からない。
緊張感がないのに、隙もない。
「相変わらず、無茶するな」
「実験だよ。やってみないと分からないこともある」
藤原は、廊下に残る惨状を一瞥してから、軽く肩をすくめた。
「効率は悪くないけど……あまり長くやると感覚がズレちゃうよ」
見抜かれている。
「光って呼んで」
「え?」
「名字、堅いから」
こんな状況で言うことじゃないだろ、と思いつつも、なぜか断る気にならなかった。
「……分かった、光」
それだけで、藤原は満足そうに微笑んだ。
話している間にも、別の魔物が近づいてくる。
二人で、流れるように対処する。
藤原の剣は、やはり異常だった。
光の刃が一瞬走り、魔物は抵抗する間もなく消える。
壊れた床の上に並んで腰を下ろし、しばらく話す。
そのとき、藤原が唐突に言った。
「……100個集まったらさ」
「君、小田と一緒に逃げなよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……は?」
「合理的だろ。拒絶と回復。外に出る役としては最適だ」
なるほど、と頭では理解できる。
でも、体が拒否した。
「無理だよ」
「俺が抜けたら、そのうち死人が出る」
即答だった。
藤原は、少しだけ目を細める。
「どうしても?」
「どうしてもだ」
ヒールは、俺に一番効く。
だからこそ、俺は前に立てる。
だが、同時に、俺がいなければ耐えられない人間もいる。それを知ってしまった以上、簡単には抜けられない。
「……そう」
藤原は、それ以上は食い下がらなかった。
一度だけ、俺をじっと見てから、静かに立ち上がる。
「まあ今日は、引くよ。散歩、続けたいしね」
そう言って、教室とは逆方向へ歩いていった。
背中を見送りながら、思う。
あの人は、きっと全部分かっている。
それでも、踏み込まない。
それが、あの人のやり方なのだろう。
――そして、翌日。
探索が、本格的に始まる。
俺は、剣を握り直しながら、静かに息を吐いた。




