11 邂逅
隣のクラスの教室には、
一人だけ人が立っていた。
壊れた机と椅子が散乱する教室の中央。
窓から差し込む薄い光の中で、黒い影が静かに揺れている。
背が高い。
180センチ後半はあるだろう。
肩幅が広く、首から背中にかけての筋肉の付き方が、明らかに普通じゃない。
上半身は裸。
肌は血にまみれていて、乾きかけた赤黒い跡が、胸や腕にこびりついている。
それが自分の血なのか、他人の血なのかは分からない。
足元には、
黒とも紫ともつかない結晶が、いくつも転がっていた。
角ばっていて、不自然なほど硬質で、
光を反射するのではなく、吸い込んでいるような質感。
俺たちのクラスには、なかったものだ。
魔物の死体は、どこにもない。
――魔物は、倒すと消える。
それは、もう分かっている。
なら、この結晶は。
(……人、か)
喉が、ひくりと鳴った。
男の顔を見る。
整っている。
鼻筋も通っていて、輪郭も鋭い。客観的に見れば、たぶん美形だ。
なのに、
怖い。
目が、飢えた狼のそれだった。
感情がないわけじゃない。
ただ、人を人として見ていない。
――浅野ケイ。
確か、そんな名前だった。
部活には所属していなかったが、
アイスホッケーをやっていて、
海外の強豪チームから内定があるとかで、
少し前に噂になっていた。
顔が怖すぎて、誰も近づかなかった男。
俺は、一歩だけ前に出て、
小さく会釈した。
その瞬間。
浅野の口元が、
ほんの一瞬だけ歪んだ。
――笑った、ように見えた。
次の瞬間、
影が、前に飛んできた。
速い。
思考が追いつく前に、
距離が、消える。
(――来る!)
反射的に、脚に力を込める。
昨晩のヒール式トレーニングで鍛えた脚力が、
床を蹴り抜いた。
身体が、浮く。
浅野の突進を飛び越え、
そのまま、顔を狙って蹴りを放つ。
――当たらない。
差し込まれた腕が、
俺の蹴りを受け止めていた。
硬い。
骨じゃない。
筋肉そのものが、鉄みたいだ。
次の瞬間、
拳が飛ぶ。
避けきれない。
頬に衝撃。
視界が、白く弾けた。
俺は転がるように距離を取り、
すぐさま近くの椅子を掴んだ。
考えるより先に、投げる。
椅子は、一直線に浅野へ飛ぶ。
だが、
浅野はそれを蹴り砕いた。
その一瞬の隙を、逃さない。
俺は前に出て、
腹を狙って拳を叩き込む。
手応えはある。
だが、浅野は怯まない。
逆に、肘が飛んでくる。
肋骨に、鈍い痛み。
「……っ!」
吹き飛ばされ、
机に背中を打ち付ける。
息が詰まる。
そこからは、
肉弾戦だった。
殴る。
殴られる。
掴む。
投げられる。
床を滑り、
壁に叩きつけられ、
机を盾にして、
また椅子を投げる。
あらゆる手段を使う。
噛みつく勢いで、
必死に、必死に。
最初は、拮抗していた。
だが、
徐々に差が出る。
浅野の攻撃は、
正確で、重い。
一発一発が、
確実に急所を狙ってくる。
俺のガードの隙間を、
冷酷に打ち抜いてくる。
(……ヤバい)
倒れかける。
立ち上がる。
また、殴られる。
そのとき、
自然と、心の中で唱えていた。
(……ヒール)
暖かい感覚が、
痛みを押し流す。
(……あ)
声に出していない。
思うだけで、回復している。
殴られても、すぐ立てる。
血が出ても、すぐ止まる。
浅野が、初めて眉を顰めた。
「……妙に、しぶといな」
次の瞬間。
浅野の雰囲気が、変わった。
黒髪が、逆立つ。
ばち、ばち、と
空気が弾ける音。
身体の周囲に、電気のようなものがまとわりつく。
「……」
嫌な予感が、確信に変わる。
次の瞬間、
電撃。
床が焦げ、
空気が裂ける。
俺は跳ぶ。
間一髪。
だが、
肩と脚に、電気が走る。
身体が、痙攣する。
視界が歪む。
それでも。
(……ヒール)
ほとんど、反射だった。
痛みが、
無理やり引き剥がされる。
浅野が、黙る。
今だ。
「……このまま時間かけたら」
息を整えながら、
言葉を投げる。
「俺のクラスメイトが来る。
争う必要はない……協力しないか」
本音じゃない。
(最悪、騙し討ちでもいい)
浅野は、鼻で笑った。
「馴れ合いに、興味はない」
それでも、
俺は引かない。
殴られながら、立ち上がる。
殴られながら、言葉を重ねる。
数分。
体感では、もっと長い。
やがて、
浅野が吐き捨てる。
「……疲れる」
「お前と戦うのは、楽しくない」
次の瞬間、
教室いっぱいに、電撃。
反射的に、身構える。
その一瞬。
――いない。
教室には、
俺一人だけが残されていた。
結晶が、床に散らばっている。
静かだった。
時計を見れば、
まだ十分も経っていない。
なのに、
とてつもなく長かった。
息を整えながら、
俺は思う。
(……これが、人と人の本気の戦い)
そして。
(……俺、確実に強くなってる)
死地でこそ、人は強くなる。
回復できる俺は、
どこまでも、強くなれる。
そう、
確信に近い感覚を抱きながら、
俺は、血の匂いの残る教室に立っていた。




