第7章(最終章) 不揃いな日常
あの「宣言」から、一ヶ月が経った。
嵐は、去った。
いや、正確には、私が「嵐」の中にいることを、やめたのだ。
インスタグラムの「バズ」は、まるで蜃気楼だったかのように、あっという間に消え去った。
蓮の予言通り、投稿にはいくつかの批判的なコメントもついた。
『期待外れだ』
『結局、逃げたんだ』
『無責任だ』
商社時代の私なら、その一言一句にナイフで抉られるような痛みを感じ、必死で「弁解」しようとしただろう。
けれど、今の私は、違った。
(そう、思われても、仕方ない)
私は、そのコメントを静かに読み、そして、そっとアプリを閉じた。
それが、彼らの「解釈」であり、私の「問題」ではない。
冷たく聞こえるかもしれないが、これが、私が私を守るために学んだ、必死の「境界線」だった。
「フルール・ココロ」は、驚くほど、静かになった。
DMの通知は、もう、鳴らない。
店を訪れる客足も、あの熱狂が嘘のように、元の、寂しいくらいのリズムに戻っていた。
「……で?」
ある日の午後、蓮が、最新の売上データとにらめっこしながら、これみよがしに溜息をついた。
「これが、お前の『生き方』とやらの『合理的帰結』だ。先月の売上、前月比マイナス三十五パーセント」
「……」
「このままじゃ、あと三ヶ月で、キャッシュが底をつくぞ」
「……そう」
「『そう』、じゃねえだろ」
蓮は、電卓を叩く指を止め、私を睨んだ。
「どうするつもりだ。また、俺が『合理的』な提案をして、『ヒステリー』を起こされても困るんだが」
棘のある、いつもの蓮の口調。
だが、不思議と、もう、怖くなかった。
「……蓮」
「何だ」
「私、大学院の通信、もう一度、受けてみようと思う」
「……は?」
蓮は、本気で、何を言っているんだこいつ、という顔をした。
「金がないっつってる時に、さらに『コスト』をかける気か? お前の『自己満足』のために?」
「ううん」と、私は首を振った。
「私の『自己満足』のため、でもあるけど。
……私、やっぱり、花屋として、誰かの『心』の隣にいたいんだと思う。
でも、もう、無防備に『同一化』して、潰れるのは、ごめんなの」
私は、切り揃えたばかりの、数本のガーベラを手に取った。
どれも、微妙に、花びらの形が違う。不揃いな、ピンク色。
「だから、今度こそ、ちゃんと『学ぶ』。
私自身が、あの洪水に『飲み込まれない』ための、強かな『技術』として、臨床心理学を学ぶ。
それは、私にとって、この店を続けるための、一番の『必要経費』よ」
蓮は、私の目を、じっと見つめていた。
コンサルタントの、冷たい目ではなかった。
ただ、目の前の人間の「本気度」を測るような、静かな目だった。
「……いいか」
やがて、彼は口を開いた。
「学費がかかる以上、それは『投資』だ。投資である以上、必ず『回収』してもらう」
「……え?」
「お前がプロの『技術』を身につけたら、その分、客単価に『付加価値』として上乗せする。……いいな?」
「……それって」
「『お悩み相談:五千円』より、タチが悪いぞ? 『臨床心理学を学んだ花屋の、高付加価値ブーケ』だ。一万円でも、安いくらいだ」
そう言って、蓮は、口の端で、意地悪く笑った。
(……この人は)
本当に、ブレない。
その「合理主義」が、今は、一周回って、頼もしくさえあった。
「……分かった。その時は、蓮の『コンサルティング』に、期待してる」
「フン。せいぜい、赤点取らないようにな」
蓮はそう吐き捨てると、カチカチ、と、再び電卓の音を響かせ始めた。
その音が、なぜだか、今日は少し、優しく聞こえた。
カラン。
その時、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
そこには、あの完璧主義だった、近藤さんが立っていた。
アイボリーのブラウスが、すっかり彼女の定番になっている。
「あ……」
近藤さんは、私と、蓮を交互に見て、少し、微笑んだ。
「……なんだか、お二人、雰囲気が、変わりました?」
「え?」
「いえ……なんというか、前は、もっと……ピリピリ、してたから」
私と蓮は、思わず、顔を見合わせた。
「……気のせいですよ」
「……気のせいです」
声が、揃ってしまった。
「あ、うふふ」
近藤さんが、小さく、声を出して笑った。
彼女の、あんなに自然な笑顔は、初めて見た。
「今日は、友人の、お見舞いなんです」
彼女は、そう言った。
「なので……『完璧』じゃなくて、『元気が出る』花を、お願いできますか?」
私は、彼女の言葉に、目を見張った。
彼女は、もう、私に「処方箋」を求めてこなかった。
彼女自身の「言葉」で、彼女自身の「Want(欲求)」を、伝えてくれた。
「……はい!」
私は、今、心の底から「花屋」として、笑っていた。
「とびきり、不揃い(・・・)で、元気な子たちを、集めますね!」
私は、キーパーに向かった。
まっすぐなバラじゃない。
太陽の方を、我先にと向いているような、黄色い、大ぶりのガーベラ。
ぴょんぴょんと、自由に飛び跳ねている、青いデルフィニウム。
完璧な球体じゃない、少し歪な、緑色のテマリソウ。
(ああ、なんて、楽しいんだろう)
誰かの「問題」を分析するんじゃない。
誰かの「期待」に応えるんじゃない。
ただ、目の前の人の「Want」と、花の「個性」を、繋いでいく。
ブーケを渡した時、近藤さんは「わあ、眩しい」と、本当に嬉しそうに言った。
彼女が帰った後、蓮が、ぽつりと言った。
「……おい。今の客、客単価、上がってたぞ」
「え?」
「お前、無意識で、高いガーベラ、三本も使ってた。……まあ、『投資』としては、悪くない」
「……もう、蓮ったら」
私は、笑いながら、作業台の片付けを始めた。
店には、西日が差し込んでいる。
私のカウンターの、あの小さな瓶。
あの日、床に散らばった、一本のアルストロメリアは、もう、ない。
今は、私が、その日の気分で選んだ「不揃い」な花が、毎日、そこに挿されている。
今日は、少し、首が曲がった、白いスカビオサだ。
私は、もう、他人の「すべき思考」にも、自分の「完璧主義」にも、囚われない。
私は、臨床心理学を学ぶ、ただの花屋だ。
不揃いで、矛盾だらけで、合理的じゃなくて。
でも、それで、いい。
私は、私自身の「心の処方箋」を、ちゃんと、持っているのだから。
(了)




