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花屋「リ・フレーミング」の処方箋:もしも花屋が臨床心理学を学んだら  作者: もしものべりすと


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第6章 自己憐憫(セルフ・コンパッション)の宣言

夕暮れのオレンジ色の光が、店内のほこりを金色に照らし出していた。

近藤さんが帰った後、店には私と蓮、そして蓮の叩く電卓の音だけが残された。


私は、カウンターの前に置いた、あの小さな瓶に挿した一本のアルストロメリアを、ただ、じっと見つめていた。

『私のための、心の処方箋』

そう口にした時、蓮は「廃棄ロス」だと言った。

だが、この一本の花が、今、私にとってどれほど大きな「支え」になっていることか。


私のスマートフォンは、まだ、電源が切られたままだ。

エプロンのポケットの中で、それは冷たい、沈黙のかたまりだった。


(怖い)


電源を入れるのが、怖かった。

あの、無数の『助けて』という声。

私の「境界線バウンダリー」を、いともたやすく踏み越えてくる、切実な「需要デマンド」。

それに応えようとして、私は一度、壊れたのだ。


「……おい」

蓮が、電卓から顔を上げずに言った。

「いつまで、その『爆弾』から逃げてるつもりだ?」


「爆弾……」

「そうだ。お前が対処すると決めたんだろう。SNSの『洪水』だ」

蓮の言葉は、相変わらず冷たく、合理的だ。

デマンドを放置し続けるのは、経営者として最悪の『判断』だぞ」


「……分かってる」

「分かってない。お前は、また『感情』で動いてる。あの時と同じだ。『怖い』から『見ない』。それは、商社時代に、膨大なタスクから『逃げた』お前と、何も変わらん」


蓮の言葉が、突き刺さる。

(違う。あの時とは、違う)

そう言いたかったが、ポケットの中のスマートフォンに、手を伸ばすことができない。


私は、目の前の一本の花に視線を戻した。

不揃いで、完璧じゃない、アルストロメリア。


(あの時、私は、どうして壊れたんだろう)


完璧な「仮面ペルソナ」を被り、「すべき思考」に囚われ、他人の期待に応え続けた。

他人の感情に「同一化」しすぎて、自分の「境界線」を見失った。

自分を「抑圧」し、他人に「投影」し、自分自身を、すり減らし続けた。


(私は、私に、優しくなかった)


商社時代の私は、ボロボロの自分に、むちを打ち続けた。

「まだ足りない」「もっと完璧に」「休むな」

他人に「共感」しすぎた一方で、私自身には、一切の「共感」を向けていなかった。


(……ああ、そうか)


大学院の教科書で読んだ、ある言葉が、不意によみがえってきた。


――セルフ・コンパッション(Self-Compassion)。


それは、日本語に訳しにくい概念だ。

直訳すれば「自己憐憫じこれんびん」だが、それは「自分を可哀想だと思う」というネガティブな意味合いとは違う。

心理学で言うそれは、「自分自身への、思いやり」だ。


失敗した時、苦しんでいる時。

他人を思いやるのと同じように、自分自身を思いやること。

つらかったね」と、自分に声をかけてあげること。

「完璧じゃなくてもいいんだよ」と、自分を許してあげること。


それが、私には、決定的に欠けていた。


私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。

土の匂い、切り花の青い匂い、そして、目の前のアルストロメリアの、微かな甘い香り。


私は、ポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。


蓮が、電卓を叩く手を、止めた。


起動音と共に、画面が点灯する。

次の瞬間、凄まじい量の通知が、雪崩なだれのように画面を埋め尽くした。


ピコンピコンピコンピコンピコン……!


DMの未読件数が、三桁けたを超えている。

『助けて』

『死にたい』

『話を聞いて』

『五千円払いますから!』


蓮の「値付け」が消えたことで、彼らの「需要」は、より一層、切実さを増していた。


(……うん)


私は、その通知の嵐を、静かに見つめた。

以前のような、心臓を直接握り潰されるような、あのパニックは、もう、なかった。


(辛かったね)

私は、まず、私自身・・に、そう声をかけた。

(怖かったね。こんなにたくさんの「痛み」を、一人で受け止めようとしてたんだね)


そして、画面の向こう側の、見えない人々にも思う。

(あなたたちも、辛いんだね)

これが、『セルフ・コンパッション』の第二の要素、「共通の人間性(Common Humanity)」だ。

苦しんでいるのは、私だけじゃない。誰もが、不完全で、苦しみを抱えている。


私は、DMを一件一件、開くことはしなかった。

それは、私を「同一化」の沼に引きずり込む、危険なわなだ。


代わりに、私は、インスタグラムの「新規投稿」ボタンを、押した。


「……おい、まさか、全部に返信する気か?」

蓮が、いぶかしむような声を上げた。


「ううん」

私は、指を動かしながら、答えた。

「『フルール・ココロ』の、新しい『方針ポリシー』を、投稿するの」


これは、私の「宣言」だ。

私自身が、私として、健全に、この場所で花屋を続けるための、「境界線」の宣言だ。


私は、言葉を、選んだ。

「完璧」な言葉ではなく、「誠実」な言葉を。


『――「フルール・ココロ」より、大切なお知らせ――


たくさんの、温かい(そして、切実な)メッセージ、ありがとうございます。

一つ、お伝えしたいことがあります。


私は、医者でも、カウンセラーでもありません。

ここは、花屋です。


私にできるのは、あなたの「問題」を「解決」することではありません。

DMで、あなたのお悩みに「お答え」することもできません。


私が、花を通じてご提案したいのは、

「完璧でなくてもいい」

「不揃いでも、それぞれが美しい」

という、ささやかな「視点の変化リ・フレーミング」だけです。


もし、今、あなたが、本当に、どうしようもなく苦しいのなら。

どうか、私(花屋)ではなく、専門の相談窓口や、医療機関を頼ってください。


それは、あなたが「弱い」からではありません。

あなた自身を「思いやる(コンパッション)」ために、

あなたが、あなたに、差し出すべき、

最も「適切」で「誠実」な『処方箋』だからです。


フルール・ココロは、これからも、

不揃いで、完璧じゃない、

でも、だからこそいとおしい花たちと共に、

この場所でお待ちしています。


店主 美咲』


「……書けた」


私は、その文章を、蓮に見せた。

蓮は、眉間にしわを寄せたまま、スマートフォンの画面を、食い入るように見つめている。


「……何だ、これ」

「私の、宣言」

「……『商売』としては、最悪だな」

蓮は、吐き捨てるように言った。

「『需要デマンド』を、すべて『拒否』している。五千円どころか、一円にもならん」


「そうね」

「『バズ』は、これで完全に終わる。むしろ、『期待外れだ』と、炎上するかもしれんぞ」

「それでも、いい」


私は、蓮からスマートフォンを受け取ると、迷わずに「投稿」ボタンを押した。


「……いいの。私は、もう、誰かの『期待』に応えるために、自分をすり減らすのは、やめたの」


私は、インスタグラムの設定を開き、「DMの通知をオフ」にした。


「……蓮」

「何だ」

「私、商社を辞めた時、『自分の生き方を見つける』って言ったでしょ」

「ああ。それが、この『非合理的』な宣言か?」


「そうよ」

私は、笑っていた。

もう、エプロンの裾を握りしめてはいなかった。


「完璧じゃなくても、矛盾していても、不揃いでもいい。

私は、私を『思いやり』ながら、この店を続ける。

それが、私の見つけた『生き方』よ」


私は、カウンターの、私だけの一本のアルストロメリアに、そっと水を足した。

夕日は、もう、沈みかけていた。

店には、静かな、静かな夜が、訪れようとしていた。

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