第5章 私のためのリ・フレーミング
バケツが倒れ、冷たい水が床に広がる音が、やけに大きく店内に響き渡った。
散らかったアルストロメリアが、水浸しの床に無残に横たわっている。
「これは、私の(・)店よ!」
喉が、熱い。
心臓が、耳のすぐそばで鳴っている。
私は、蓮の目から視線を逸らさなかった。商社時代には、決してできなかったことだ。
蓮は、私に叫ばれたことよりも、私が「水浸しの床」を放置して彼を睨みつけている事実に、わずかに目を見開いたように見えた。完璧主義の私が、床の汚れよりも、「自分」を優先した。
「……本気か」
蓮が、低い声で言った。
「ああ。ビジネスとしては、最悪の判断だ」
「これは、ビジネスの話じゃない。私の『生き方』の話よ」
「……『生き方』、か」
蓮は、ゆっくりとノートパソコンの画面に目を落とした。
『お悩み相談(予約制):30分 5,000円(処方箋ブーケ付)』
その無機質な文字列が、私と蓮の間に横たわる、深くて暗い溝のように見えた。
「お前は、商社を辞めた時もそう言った。『自分の生き方を見つける』と。そして、行き着いた先が、この『花屋ごっこ』か? 結局、お前は他人の期待に応えたいだけだ。それが『上司の期待』から『DMの"助けて"』に変わっただけだ。俺は、その『期待』から、お前を『守る』ために、値札をつけようとした」
「……違う」
「違わない」
蓮の言葉が、鋭く私の防御を突き破る。
「お前は、自分の『弱さ』を認めたくないから、『善意』という言葉に逃げてる。お前が一番『境界線』を必要としてるくせに、いざ俺がその『線』を引いてやったら、今度は『私の店だ』と叫ぶ。……矛盾してるのは、お前の方だ、美咲」
言葉が、出ない。
蓮の指摘は、的確に私の「内面の矛盾」(プロンプト1)を抉り出していた。
他人を助けたい(Want)。
でも、他人に飲み込まれたくない(Need)。
その二つが、私の中でずっと戦争をしていた。
私は、冷たい水が染み込んだエプロンの裾を、また無意識に握りしめていた。
(そうだ。私は、矛盾してる)
(助けたい。でも、怖い。蓮の言う通り、私はまた、潰れるのかもしれない)
(じゃあ、どうすればいいの?)
俯きかけた、その時。
私の視界に、水たまりに映る、自分の顔が目に入った。
恐怖と、怒りと、混乱で、歪んだ顔。
(……ああ、そうか)
私は、顔を上げた。
「……ええ。その通りよ、蓮」
「何?」
「私は、矛盾してる。助けたいし、怖い。だから、蓮の言う『ビジネスモデル』は、私には要らない。……だけど、『守る』という視点には、感謝してる」
「……」
「だから、今すぐ、その項目を削除して」
「……美咲」
「削除して。これは『命令』よ。私は『経営者』として、あなたに『業務指示』を出してる」
初めて使った、その言葉。
『ごっこ』じゃない。
『経営者』として、明確な「境界線」を引き、私の「責任」において、判断する。
蓮は、数秒間、私を値踏みするように見つめていた。
コンサルタントが、クライアントの「本気度」を測る時の、あの冷たい目で。
やがて、彼は、ふっと息を吐いた。
「……承知した。『クライアント』の指示通りに」
カタカタ、とキーボードの音が数回。
彼がエンターキーを押すと、あの私を縛っていた『5,000円』の文字列が、呆気なく画面から消えた。
「……これで、満足か?」
「ええ。ありがとう」
「言っておくが」と蓮は続けた。「洪水は、止まってない。お前が『ダム』の門を閉めただけだ。DMは、まだ鳴り止まないぞ」
「分かってる。それは、私が『私なり』のやり方で、対処する」
「……そうか」
蓮はそれだけ言うと、倒れたバケツを指差した。
「で、その『経営者』様は、いつまで床を水浸しにしておくんだ?」
「……っ! い、今すぐ片付けるわよ!」
私は慌てて雑巾を探した。
その時、カラン、と乾いたドアベルの音が鳴った。
「……いらっしゃいませ」
雑巾を持ったままの、最悪の格好で振り返ると、そこに立っていたのは、第1章の、あの完璧主義の女性――近藤さんだった。
「……あの」
近藤さんは、水浸しの床と、雑巾を持った私、そして、不機嫌そうな蓮を交互に見て、戸惑っている。
「今、大丈夫、でしょうか……?」
「も、申し訳ありません! すぐに!」
「いや、いい」
蓮が、私を制した。
「お客様の前だ。……奥で、着替えてこい。ここは俺がやる」
「え?」
「『経営者』は、客の前でみすぼらしい格好をするな。それが『合理的な判断』だ」
蓮はそう言うと、私から雑巾を奪い取り、黙々と床を拭き始めた。
元・エリートコンサルタントが、無言で床掃除をしている、異様な光景。
私は、その背中を数秒見つめた後、近藤さんに深く頭を下げた。
「申し訳ありません。すぐに着替えてまいります!」
***
エプロンを着替え、髪を整え直して店に戻ると、床はすっかり綺麗になり、蓮はいつものカウンターに戻っていた。
近藤さんは、店の奥で、少し不安そうに花を眺めている。
「お待たせいたしました、近藤さん」
「あ……」
近藤さんは、私を見て、少しほっとしたような顔をした。
今日の彼女は、あのカチカチのスーツではなかった。少し柔らかそうな、アイボリーのブラウスと、ロングスカート。相変わらず「完璧」に整ってはいるが、どこか、強張りが取れている。
「あの……この前の、ブーケ……」
「はい」
「……枯れてしまって」
「そう、ですね。生花ですから」
「……はい。……それで、あの……また、お願い、できますか?」
彼女は、何かを「お願いする」ことに、慣れていないようだった。
「完璧であるべき」人間は、他人に「頼る」ことを、極端に恐れる。
「もちろんです。今日は、どのようなイメージで?」
「……お任せ、します」
その言葉は、彼女にとって、どれほどの勇気が必要だっただろう。
『完璧』の物差しを、一度、他人に明け渡すこと。
「承知いたしました」
私は、あの日のように、彼女の「ペルソナ」を分析しなかった。
ただ、目の前にいる、少しだけ「鎧」を脱ぐことを覚えた一人の女性のために、花を選び始めた。
私は、キーパーから、完璧にまっすぐなバラや、均一な大きさのガーベラを――選ばなかった。
代わりに手に取ったのは、一本一本、顔の向きが違う、自由奔放なスカビオサ。
茎が、自然なカーブを描いている、淡いオレンジ色のラナンキュラス。
そして、小さな蕾のまま、控えめに咲いている、スプレー咲きの白いバラ。
「……変な、形ですね」
私が束ねていくのを見て、近藤さんが、小さく呟いた。
「ええ。どの子も、自分の咲きたい方を向いてるんです」
「……」
「でも」と私は続けた。「こうして集まると、なんだか、楽しそうなお喋りが聞こえてきませんか?」
私は、彼女にブーケを差し出した。
まっすぐな花は一本もない。
完璧なシンメトリー(左右対称)でもない。
ただ、それぞれが、それぞれの形で、美しく咲いている。
(これが、私の答え)
蓮の「合理性」でもなく、私の「自己犠牲」でもない。
物事の『枠組み(フレーム)』を変えて、違う見方をすること。
心理学で学んだ、『リ・フレーミング』という技術。
「完璧であるべき」という「枠組み(フレーム)」を、
「不揃いでも、それぞれが美しい」という「枠組み(フレーム)」に、変えること。
近藤さんは、そのブーケを、恐る恐る受け取った。
じっと、見つめている。
やがて、彼女の唇が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「……確かに。……うるさいくらい、ですね」
それは、彼女がこの店で、初めて見せた、笑顔だった。
近藤さんが帰った後、店には、夕暮れ前の、柔らかい光が差し込んでいた。
私は、床に散らばったアルストロメリアを拾い上げ、その中で一番元気な一本を、小さな瓶に挿した。
そして、それを、カウンターの、自分の席の前に置いた。
「……おい」
電卓の音を止めて、蓮が私を見た。
「それ、売上になるのか?」
「これは、経費よ」
私は、微笑んで答えた。
「『経営者』が、健全な精神を保つための、必要経費。
――私のための、『心の処方箋』よ」
蓮は、一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、すぐに、いつもの無表情に戻った。
「……チッ。在庫管理表に、ちゃんと『廃棄』でつけとけよ」
カチカチ、と。
電卓の音が、店内に、再び響き始めた。
その音は、もう、私を責める音には、聞こえなかった。
私は、スマートフォンの電源を、一度、切った。
洪水(DM)は、まだ、外で荒れ狂っている。
でも、私はもう、「ダム」を無防備に開けたり、蓮の「ダム」に頼ったりはしない。
私は、私の「境界線」と、「戦い方」を、見つけたのだから。




