表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花屋「リ・フレーミング」の処方箋:もしも花屋が臨床心理学を学んだら  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/7

第5章 私のためのリ・フレーミング

バケツが倒れ、冷たい水が床に広がる音が、やけに大きく店内に響き渡った。

散らかったアルストロメリアが、水浸しの床に無残に横たわっている。


「これは、()の(・)()よ!」


喉が、熱い。

心臓が、耳のすぐそばで鳴っている。

私は、蓮の目から視線をらさなかった。商社時代には、決してできなかったことだ。


蓮は、私に叫ばれたことよりも、私が「水浸しの床」を放置して彼をにらみつけている事実に、わずかに目を見開いたように見えた。完璧主義・・・・・の私が、床の汚れよりも、「自分」を優先した。


「……本気か」

蓮が、低い声で言った。

「ああ。ビジネスとしては、最悪の判断だ」

「これは、ビジネスの話じゃない。私の『生き方』の話よ」


「……『生き方』、か」

蓮は、ゆっくりとノートパソコンの画面に目を落とした。

『お悩み相談(予約制):30分 5,000円(処方箋ブーケ付)』

その無機質な文字列が、私と蓮の間に横たわる、深くて暗い溝のように見えた。


「お前は、商社を辞めた時もそう言った。『自分の生き方を見つける』と。そして、行き着いた先が、この『花屋ごっこ』か? 結局、お前は他人の期待・・・・・に応えたいだけだ。それが『上司の期待』から『DMの"助けて"』に変わっただけだ。俺は、その『期待』から、お前を『守る』ために、値札かかくをつけようとした」


「……違う」

「違わない」

蓮の言葉が、鋭く私の防御を突き破る。

「お前は、自分の『弱さ』を認めたくないから、『善意』という言葉に逃げてる。お前が一番『境界線バウンダリー』を必要としてるくせに、いざ俺がその『線』を引いてやったら、今度は『私の店だ』と叫ぶ。……矛盾してるのは、お前の方だ、美咲」


言葉が、出ない。

蓮の指摘は、的確に私の「内面の矛盾」(プロンプト1)をえぐり出していた。

他人を助けたい(Want)。

でも、他人に飲み込まれたくない(Need)。

その二つが、私の中でずっと戦争をしていた。


私は、冷たい水が染み込んだエプロンの裾を、また無意識に握りしめていた。

(そうだ。私は、矛盾してる)

(助けたい。でも、怖い。蓮の言う通り、私はまた、潰れるのかもしれない)

(じゃあ、どうすればいいの?)


うつむきかけた、その時。

私の視界に、水たまりに映る、自分の顔が目に入った。

恐怖と、怒りと、混乱で、ゆがんだ顔。


(……ああ、そうか)


私は、顔を上げた。

「……ええ。その通りよ、蓮」

「何?」

「私は、矛盾してる。助けたいし、怖い。だから、蓮の言う『ビジネスモデル』は、私には要らない。……だけど、『守る』という視点には、感謝してる」


「……」

「だから、今すぐ、その項目を削除して」

「……美咲」

「削除して。これは『命令』よ。私は『経営者』として、あなたに『業務指示』を出してる」


初めて使った、その言葉。

『ごっこ』じゃない。

『経営者』として、明確な「境界線」を引き、私の「責任」において、判断する。


蓮は、数秒間、私を値踏みするように見つめていた。

コンサルタントが、クライアントの「本気度」を測る時の、あの冷たい目で。


やがて、彼は、ふっと息を吐いた。

「……承知した。『クライアント』の指示通りに」


カタカタ、とキーボードの音が数回。

彼がエンターキーを押すと、あの私を縛っていた『5,000円』の文字列が、呆気あっけなく画面から消えた。


「……これで、満足か?」

「ええ。ありがとう」

「言っておくが」と蓮は続けた。「洪水は、止まってない。お前が『ダム』の門を閉めただけだ。DMは、まだ鳴り止まないぞ」

「分かってる。それは、私が『私なり』のやり方で、対処する」

「……そうか」


蓮はそれだけ言うと、倒れたバケツを指差した。

「で、その『経営者』様は、いつまで床を水浸しにしておくんだ?」

「……っ! い、今すぐ片付けるわよ!」

私は慌てて雑巾ぞうきんを探した。

その時、カラン、と乾いたドアベルの音が鳴った。


「……いらっしゃいませ」

雑巾を持ったままの、最悪の格好で振り返ると、そこに立っていたのは、第1章の、あの完璧主義の女性――近藤さんだった。


「……あの」

近藤さんは、水浸しの床と、雑巾を持った私、そして、不機嫌そうな蓮を交互に見て、戸惑っている。

「今、大丈夫、でしょうか……?」


「も、申し訳ありません! すぐに!」

「いや、いい」

蓮が、私を制した。

「お客様の前だ。……奥で、着替えてこい。ここは俺がやる」

「え?」

「『経営者』は、客の前でみすぼらしい格好をするな。それが『合理的な判断』だ」


蓮はそう言うと、私から雑巾を奪い取り、黙々と床を拭き始めた。

元・エリートコンサルタントが、無言で床掃除をしている、異様な光景。


私は、その背中を数秒見つめた後、近藤さんに深く頭を下げた。

「申し訳ありません。すぐに着替えてまいります!」


***


エプロンを着替え、髪を整え直して店に戻ると、床はすっかり綺麗になり、蓮はいつものカウンターに戻っていた。

近藤さんは、店の奥で、少し不安そうに花を眺めている。


「お待たせいたしました、近藤さん」

「あ……」

近藤さんは、私を見て、少しほっとしたような顔をした。

今日の彼女は、あのカチカチのスーツではなかった。少し柔らかそうな、アイボリーのブラウスと、ロングスカート。相変わらず「完璧」に整ってはいるが、どこか、強張こわばりが取れている。


「あの……この前の、ブーケ……」

「はい」

「……枯れてしまって」

「そう、ですね。生花なまばなですから」

「……はい。……それで、あの……また、お願い、できますか?」


彼女は、何かを「お願いする」ことに、慣れていないようだった。

「完璧であるべき」人間は、他人に「頼る」ことを、極端に恐れる。


「もちろんです。今日は、どのようなイメージで?」

「……お任せ、します」


その言葉は、彼女にとって、どれほどの勇気が必要だっただろう。

『完璧』の物差しを、一度、他人に明け渡すこと。


「承知いたしました」

私は、あの日のように、彼女の「ペルソナ」を分析しなかった。

ただ、目の前にいる、少しだけ「よろい」を脱ぐことを覚えた一人の女性のために、花を選び始めた。


私は、キーパーから、完璧にまっすぐなバラや、均一な大きさのガーベラを――選ばなかった。


代わりに手に取ったのは、一本一本、顔の向きが違う、自由奔放なスカビオサ。

茎が、自然なカーブを描いている、淡いオレンジ色のラナンキュラス。

そして、小さなつぼみのまま、控えめに咲いている、スプレー咲きの白いバラ。


「……変な、形ですね」

私が束ねていくのを見て、近藤さんが、小さく呟いた。


「ええ。どの子も、自分の咲きたいほうを向いてるんです」

「……」

「でも」と私は続けた。「こうして集まると、なんだか、楽しそうなお喋りが聞こえてきませんか?」


私は、彼女にブーケを差し出した。

まっすぐな花は一本もない。

完璧なシンメトリー(左右対称)でもない。

ただ、それぞれが、それぞれの形で、美しく咲いている。


(これが、私の答え)


蓮の「合理性」でもなく、私の「自己犠牲」でもない。

物事の『枠組み(フレーム)』を変えて、違う見方をすること。

心理学で学んだ、『リ・フレーミング』という技術。


「完璧であるべき」という「枠組み(フレーム)」を、

「不揃いでも、それぞれが美しい」という「枠組み(フレーム)」に、変えること。


近藤さんは、そのブーケを、恐る恐る受け取った。

じっと、見つめている。

やがて、彼女の唇が、ほんの少しだけ、緩んだ。


「……確かに。……うるさいくらい、ですね」


それは、彼女がこの店で、初めて見せた、笑顔だった。


近藤さんが帰った後、店には、夕暮れ前の、柔らかい光が差し込んでいた。

私は、床に散らばったアルストロメリアを拾い上げ、その中で一番元気な一本を、小さな瓶に挿した。

そして、それを、カウンターの、自分の席の前に置いた。


「……おい」

電卓の音を止めて、蓮が私を見た。

「それ、売上になるのか?」


「これは、経費よ」

私は、微笑んで答えた。


「『経営者』が、健全な精神メンタルを保つための、必要経費。

――私のための、『心の処方箋』よ」


蓮は、一瞬、に取られたような顔をしたが、すぐに、いつもの無表情に戻った。

「……チッ。在庫管理表に、ちゃんと『廃棄ロス』でつけとけよ」


カチカチ、と。

電卓の音が、店内に、再び響き始めた。

その音は、もう、私を責める音には、聞こえなかった。


私は、スマートフォンの電源を、一度、切った。

洪水(DM)は、まだ、外で荒れ狂っている。

でも、私はもう、「ダム」を無防備に開けたり、蓮の「ダム」に頼ったりはしない。


私は、私の「境界線」と、「戦い方」を、見つけたのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ