第4章 「境界線」のクライシス
ピコン。ピコン。ピコン。
スマートフォンの通知音は、もう、止まらなかった。
それは、もはや「いいね」の軽やかな通知音ではない。
助けを求める、無数の手。
画面の向こう側から伸びてくる、重く、切実な「需要」の音だった。
『心の処方箋先生?』
蓮の揶揄するような声が、まだ耳に残っている。
私は、カサブランカの水揚げで冷え切ったはずの指先が、じっとりと冷たい汗で湿っていくのを感じた。
「……っ」
DMの画面を、指が震えて開けない。
『死にたいです』
『助けてください』
『話を聞いて』
(ダメ。見ちゃダメ)
私は、スマートフォンの画面を荒々しく伏せた。
だが、音は止まらない。
ピコン。ピコン。
それは、商社時代に私を追い詰めた、深夜の着信音によく似ていた。
「明日までに、完璧に」
「期待してるぞ」
「君なら、できるだろう?」
他人の「期待」と「要求」が、私の「境界線」をいともたやすく踏み越えて、心臓を直接握り潰しに来る。
あの日、私を救ってくれたカウンセラーは言った。
『あなたは、他人の感情に「共感」しすぎる。それは才能だが、弱点でもある。他人の苦しみを、自分の苦しみと「同一化」してしまう』
(分かってる。これは、私の悲しみじゃない。私の苦しみじゃない)
そう頭では理解しているのに、伏せたスマートフォンの画面が、まるで、助けを求める人々の「断末魔」のように、点滅を繰り返している。
「……美咲」
蓮が、低い声で私を呼んだ。
いつの間にか、彼は私の真横に立っていた。
その目は、いつもの「合理主義者」の目だ。
「これは『機会損失』だ。このトラフィック――人の流れを、ここで逃がす手はない」
「……機会、損失……?」
「そうだ。需要が生まれた。俺たちは、それに応える供給の義務がある。お前の言う『ごっこ』じゃない、『ビジネス』としてな」
蓮は、店のノートパソコンを掴むと、カウンターに叩きつけるように置いた。
カタカタカタ!
彼がコンサルタントだった頃を彷彿とさせる、高速のタイピングが店内に響く。
「待って、何を……」
「決まってるだろう。この『需要』を、整理する」
「マネタイズ……? 蓮、あなた、あのDMを読んだの!? 『死にたい』って……!」
「読んだ。だから、整理するんだ」
蓮は、手を止めずに言った。
「これは、洪水だ。お前という『ダム』に、制御不能な量の『需要』が押し寄せてる。このままじゃ、お前はまた決壊する。……商社の時と、同じだ」
(蓮は、私を……守ろうとしてる? この無秩序な『助けて』の洪水から、彼なりの『ビジネスモデル』というダムで?)
「だから、『門』を作る。フィルターをかける。それが『価格』だ」
「価格……?」
「そうだ。例えば、こうだ」
蓮は、パソコンの画面を私に向けた。
そこには、インスタグラムのプロフィール編集画面が表示されていた。
『お悩み相談(予約制):30分 5,000円(処方箋ブーケ付)』
「……正気?」
声が、震えた。
「私は、医者じゃない。カウンセラーでもないのよ!?」
「客も、そんなことは分かってる。分かってないのは、お前だけだ」
蓮の目が、私を射抜く。
「お前は『花屋』として、客の『悩みを聞く』という『付加価値』を提供する。これは、立派なコンサルティングだ。俺が昔やっていたことと、何も変わらん」
「違う……!」
「何が違う?」
「これは、人の心の問題よ! お金で値踏みしていいものじゃ……」
「じゃあ、タダ(無料)ならいいのか?」
蓮は、私の伏せたスマートフォンを指差した。
「タダだから、石を投げるように『助けて』が殺到するんだろうが。お前は、その『タダの善意』に、自分の時間と精神を、無限に差し出すつもりか? それこそ、商社時代の『無限残業』と、何が違うんだ!」
ぐうの音も出なかった。
蓮の言うことは、正しい。
あまりにも、正しく、合理的で、冷徹で。
そして、その「正しさ」こそが、私をバーンアウトさせた元凶だった。
「……やめて」
「美咲」
「やめて、蓮! 私は、そんなことをするために、この店を開いたんじゃない!」
私は、ノートパソコンを閉じようと手を伸ばした。
だが、その手が届く前に、蓮の指が、エンターキーを叩いた。
カッターン、と。
やけに響く、その音。
「……ああ」
蓮は、まるで、巨大な契約を成立させた後のように、深く息を吐いた。
「これでいい。これで、需要と供給のバランスが取れる」
私のスマートフォンが、ピコン、と鳴った。
それは、DMの通知ではなかった。
インスタグラムからのお知らせ。
『あなたのプロフィールが更新されました』
私は、震える指で、画面を開いた。
「フルール・ココロ」の、公式アカウント。
その、見慣れたプロフィール欄に、無機質なフォントで、こう刻まれていた。
『お悩み相談(予約制):30分 5,000円(処方箋ブーケ付)』
「……あ」
目の前が、暗くなる。
キーパーの中で、今朝仕入れたばかりのカサブランカが、強い、甘い香りを放っている。
その匂いが、急に、私の呼吸を奪いに来る。
(違う)
(違う、違う、違う)
これは、私が望んだことじゃない。
私の「価値」が、値札をつけられた。
私の「善意」が、商品になった。
私の「心の処方箋」が、五千円の「プロダクト」になった。
商社時代と、同じだ。
私の「能力」が、他人の「期待」によって値踏みされ、市場に晒される。
「……蓮」
私は、自分でも驚くほど、低い声が出た。
店の中の、甘い花の匂いが、今はもう、吐き気しか催させない。
「今すぐ、それを、消して」
「美咲、これはビジネスだ。お前を守るため……」
「消して!」
私は、叫んでいた。
水揚げ用のバケツを、なぎ倒す勢いで。
「これは、私の(・)店よ!」
それは、私が、この店で初めて、本気で主張した「境界線」だった。
他人の期待のためじゃない。
ビジネスのためでもない。
私自身が、私として、生きるための、最後の、防衛線だった。




