第3章 「投影」される嫉妬
高田さんの嗚咽が、静かな雨音に変わるまで、どれくらいの時間が経っただろうか。
私は彼女が落ち着くまで背中をさすり、温かいハーブティーを出すと、蓮が奥から持ってきたブランケットで彼女をくるんだ。
彼女は、最終的に、あの真っ赤なバラもオレンジのガーベラも買わなかった。
「親友へのお祝いは、また、日を改めて来ます」
そう言って、彼女が買っていったのは、たった二本。
あの青いデルフィニウムと、紫のリンドウだけだった。
「……無理に、明るい色を買わなくて、いいんですね」
店を出る間際、彼女が呟いたその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。腫れた目元は痛々しかったが、その表情は、店に来た時のあの完璧な「仮面」よりも、ずっと、ずっと美しく見えた。
高田さんが帰った後、蓮は「準備中」の札を「営業中」に戻しながら、ぼそりと言った。
「……お前、ハーブティーまで常備してたのか」
「ええ。バーンアウトに効くカモミールよ」
「チッ。用意周到な『ごっこ』だな」
――ごっこ。
その言葉が、私の胸の古い傷をチクリと刺す。
「ごっこじゃないわ」
「じゃあ、なんだ? 慈善事業か? 俺はビジネスとして出資してるんだ。あの客、結局、単価いくらだった? デルフィニウムとリンドウで、千円にも満たない。お前が費やした時間はプライスレスか?」
蓮の言葉は、いつもそうだ。
正しく、冷たく、合理的で、的確に私の痛いところを突いてくる。
「……人の心は、値段の問題じゃない」
「ほう。じゃあ、お前の心はタダなのか?」
蓮は、電卓を置いたカウンターに両手をつき、私を真っ直ぐに見据えた。彼の、コンサルタント時代を彷彿とさせる、すべてを見透かすような目。
「お前は、また『同一化』してる。あの客の悲しみは、お前の悲しみじゃない。なのに、お前は自分のことのように泣きそうになってた。……商社で潰れた時と、何も変わってないぞ、美咲」
反論できなかった。
図星だったからだ。
他人の感情に「共感」しすぎた結果、その感情を自分のものとして取り込んでしまう「同一化」。それは、バーンアウトした私にカウンセラーが何度も注意してくれた、私の最大の弱点(アキレス腱)。
「私は……」
「花屋は、セラピストじゃない。お前は医者でもカウンセラーでもない。その『境界線』を、お前自身が一番分かってない」
蓮はそれだけ言うと、再びキーボードの前に戻り、今月のキャッシュフローの計算を再開した。
カタカタ、カタカタ。
その無機質な音が、お前は間違っている、と私を責めているように聞こえた。
私はエプロンの裾を、今度は、爪が食い込むほど強く握りしめていた。
(分かってる。蓮の言うこと、全部、分かってる)
私のこの行動は、純粋に「他人を助けたい」という思い(Want)なのか。
それとも、過去に救われなかった「自分自身を救いたい」という、歪んだ自己満足(Need)なのか。
私自身にも、もう、その区別がつきにくくなっていた。
***
翌朝。
その「事件」は、静かに、しかし確実に進行していた。
開店準備をしていると、私のスマートフォンの通知が、異常な頻度で鳴り始めたのだ。
ピコン。ピコン。ピコンピコン。
「……何、これ」
画面に表示されていたのは、インスタグラムの通知だった。
『@××さんがあなたの投稿に「いいね!」しました』
『@△△さんがあなたをフォローしました』
『@□□さんがあなたの投稿をリポストしました』
「……うわ」
昨日の高田さんだ。
彼女が、あの青いデルフィニウムと紫のリンドウを、自宅の質素な花瓶に挿した写真を、こうタグ付けして投稿していた。
『#フルールココロ #心の処方箋 #泣いてもいい場所 #ありがとう』
その投稿が、一晩で、爆発的に拡散していた。
「蓮、ちょっと……!」
「朝から騒ぐな。……ああ、それか。見てる」
蓮は、すでに店のノートパソコンで、インスタのアナリティクス画面を開いていた。その目は、獲物を見つけたハンターのように細められている。
「インプレッション数が跳ね上がってる。この2時間での新規フォロワー、300超え。昨日のあの客、相当なインフルエンサーだったか?」
「そういう問題じゃ……」
「いや、重大な問題だ。これはビジネスチャンスだ、美咲」
蓮の指が、獲物を仕留めるように高速でキーを叩く。
「このバズは一時的なものだ。だが、この『心の処方箋』というキーワードは強い。マーケティング用語で言う『U.S.P.(ユニーク・セリング・プロポジション)』だ。他店との圧倒的な差別化要因になる」
「待って、蓮! 私はそんなつもりじゃ……!」
ピコン!
また通知が鳴る。今度は、DMだった。
『私の悩みも聞いてもらえますか?』
『死にたいです。助けてください』
『予約は取れますか?』
「……っ」
スマートフォンの画面が、急に、恐ろしいものに見えた。
土の匂い、冷たい水の感触、ハサミの金属音。私が愛していたはずの「花屋の日常」が、この無機質な電子音に、バラバラに引き裂かれていくような気がした。
「蓮、やめて! 私は、そんな……!」
「なぜだ?」
蓮は、心底不思議そうに私を見た。
「客が、お前の『価値』を認めた。需要が生まれたんだ。俺たちは、それに応える供給の義務がある。ビジネスとして、当然だ」
「これは『承認欲求』の罠よ!」
思わず、大学院の教科書で読んだ言葉が口をついて出た。
「SNSの『いいね』は、麻薬と同じ。一時の高揚感はあっても、すぐに耐性ができて、もっと強い刺激を求めるようになる。私まで、それに飲み込まれたら……!」
「――美咲さんが、飲み込まれる?」
カラン、と。
私と蓮の間に割って入るように、穏やかな、しかし芯のある声がした。
振り返ると、エプロン姿の主婦が、買い物かごを片手に立っていた。
「あ……佐伯さん。おはようございます」
「おはようございます、美咲さん。……今、インスタ、すごいことになってますね」
佐伯さんは、この店の「最初の客」だった。
近所に住む彼女は、開店当初、客が一人も来ない日に、ふらりと立ち寄ってくれた。
「まあ、素敵なアトリエ。私、こういうの応援したくなるの」
そう言って、いつも私の選ぶ、少し癖のある花々を「最高!」と褒め、熱心に彼女自身のSNSで紹介してくれていた。いわば、この店の「良き理解者」であり、名付け親(『心の処方箋』と最初に言ったのは彼女だ)でもあった。
「蓮くんも、朝からお仕事熱心ねぇ」
「……どうも」
蓮は、佐伯さんには少しだけ頭が上がらないようだった。
「佐伯さん、今日は?」
「あ、そうなの! 友だちがね、やっと念願のカフェをオープンさせるのよ。だから、お祝いの花をと思って」
「まあ、素敵! おめでとうございます!」
「それでね、美咲さんのセンスで、思いっきり華やかなの、お願いできる?」
「もちろん、喜んで!」
私は、蓮との口論でささくれ立っていた心が、佐伯さんの笑顔で解されていくのを感じた。
(これよ。これが、私がやりたかったこと)
私はキーパーに向かい、今朝入ったばかりの、最高に状態の良いシャクヤク(芍薬)を取り出した。
幾重にも重なった花弁が、今まさに開こうとしている、大輪のピンク。
「佐伯さん、これなんかどうです? 『ピオニー』とも呼ばれる、まさに『華やかさ』の象徴みたいな花です」
「わあ……綺麗……」
佐伯さんは、うっとりとシャクヤクに見入っていた。
だが、次の瞬間。
彼女は、ふと、表情を曇らせた。
「……でも」
「でも?」
「……こんなに立派な花、あの子に、似合うかしら」
「え?」
「……あの子、昔から地味で、取り柄もなくて。カフェなんてやったって、どうせすぐ潰れるのに……こんな派手な花、貰ったって、困るだけじゃないかしらねぇ」
その口調は、心配しているというよりは、むしろ、激しい「嫌悪感」を露にしていた。
さっきまで私を褒めそやしていた、穏やかな笑顔は消えている。
(……何?)
私は、違和感に背筋が凍るのを感じた。
「友人の開店祝い」を喜んでいたはずなのに。
なぜ、その友人を「貶める」ような言葉が出てくる?
(まさか)
私の頭の中で、臨床心理学の教科書の、あるページが開かれる。
――投影。
フロイトが提唱した、心の「防衛機制」の一つ。
自分自身の中に、認めたくない、受け入れ難い感情(例えば、嫉妬、劣等感、攻撃性)を抱いた時。
その感情を、まるで相手が持っているかのように、あるいは、相手がその感情を引き起こす元凶であるかのように、外の世界に「映し出す」こと。
(佐伯さんは、友人の成功が、眩しすぎるんだ)
自分はずっと「良き主婦」として、この小さな町で「美咲さんのセンスを応援する」という、ささやかな満足の中で生きてきた。
なのに、かつては自分より「地味」だったはずの友人が、自分を飛び越えて、「カフェのオーナー」という華やかなステージに立とうとしている。
その現実が、耐えられない。
「羨ましい」「悔しい」「私が先だったはずなのに」
そのドロドロとした「嫉妬」を、彼女自身が「良き理解者」であるという仮面を被ったままでは、認めることができない。
だから、無意識は、その感情を「投影」する。
「あの人には似合わない」
「あの人は派手すぎる」
「あの人は失敗するべきだ」
と。
「……佐伯さん」
私は、自分でも驚くほど、冷静な声を出していた。
「それでしたら、こちらの花はいかがでしょう」
私は、シャクヤクをそっとキーパーに戻した。
そして、その隣にあった、まだ蕾の固い、小さな、緑色のバラの束を手に取った。
「え……緑色の、バラ?」
「はい。『エクレール』という品種です」
「でも、蕾ばっかりだし、色も地味……これじゃ、お祝いにならないわ」
「そうでしょうか」
私は、その緑のバラを一本抜き、佐伯さんの手のひらに乗せた。
「このバラは、すぐには咲きません。でも、カフェのカウンターで、ゆっくりと、時間をかけて開いていきます。その過程を、毎日見守ることができる花です」
「……」
「佐伯さんのご友人は、きっと、このカフェを開くために、私や佐伯さんには見えない場所で、このバラのように、静かで、地道な努力を続けてこられたんだと思います」
私は、佐伯さんの目を、まっすぐに見つめた。
アサーティブに。彼女の「嫉妬」を非難せず、ただ、別の「解釈」を提示する。
「華やかなシャクヤク(友人の成功)に目を奪われるのではなく、彼女が重ねてきた『穏やかな努力(この緑のバラ)』に、目を向けてみませんか?」
佐伯さんの手が、微かに震えている。
彼女は、自分が何を言ったのか、気づいていないかもしれない。
自分が、どれほど恐ろしい「嫉妬」という感情に飲み込まれそうになっていたのか、気づいていないかもしれない。
だが、彼女の無意識は、理解した。
私が、彼女の「投影」に気づいたことを。
「……緑、なのね」
佐伯さんは、逃げるように視線を花に落とし、呟いた。
「花言葉は?」
「『穏やか』、そして『希望』です」
佐伯さんは、深く、息を吸い込んだ。
まるで、今まで溜め込んでいた、黒い感情をすべて吐き出すかのように。
「……じゃあ、それで。それを、ラッピングしてちょうだい」
彼女は、それ以上、一言も喋らなかった。
会計を済ませ、緑のバラのブーケを受け取ると、逃げるように店を出ていった。
カラン、と乾いたドアベルの音が響く。
店には、ピコン、ピコン、と鳴り続けるスマートフォンの通知音だけが、虚しく残されていた。
「……おい」
蓮が、一部始終を黙って見ていた口を、ようやく開いた。
「……今の客単価、三千円。まあまあだな」
「……」
「それより、DMがパンクしそうだ。どうする、美咲。『心の処方箋』先生?」
蓮の揶揄するような言葉が、今はもう、私の耳には届かなかった。
それよりも、もっと恐ろしい、無数の「助けて」という声が、スマートフォンの向こう側から、私に向かって手を伸ばしている。
私は、自分の指先が、あのカモミールティーの時とは違う、冷たい汗で湿っていくのを感じていた。




