第2章 「抑圧」された悲しみの色
カサブランカの、ねっとりとした甘い香りが指先に残る。さきほど帰った完璧主義の彼女が残していったのは、凛とした緊張感と、伝票一枚。そして、私の中に生まれた小さな、しかし確かな手応えだった。
冷たい水の中で茎を切り揃える作業は、一種の瞑想だ。ジョキリ、というハサミの音。切り口から滴る青臭い樹液。それらが、ささくれ立とうとする私の心を整えてくれる。
「……随分とご機嫌だったな」
カウンターの奥から、蓮がぼそりと言った。電卓のディスプレイから目を離さないまま。
「何が?」
「『あの子は雑草じゃない』。……お前、ああいう時、一番面倒くさいぞ」
「あら、事実を言ったまでよ。それに、面倒くさい私のおかげで、今日の客単価、上がったんじゃない?」
蓮は答えず、ただ「チッ」と微かな舌打ちを返した。それが彼の「図星」の合図だと、私は知っている。
私は無意識に、またエプロンの裾を握りしめている自分に気づき、そっと手を離した。
(蓮の言う通りだ。私、少し、深入りしすぎた)
他人の心に触れることは、自分の心にも触れられることだ。
あの日、私を救ってくれたカウンセラーは言った。『あなたは、他人との「境界線」が曖昧になりやすい。他人の感情に“共感”しすぎて、自分の感情のように“同一化”してしまう』と。
バーンアウトした直接の原因も、それだった。上司の期待、同僚の焦り。その全てを自分のものとして引き受けて、潰れた。
花屋は、その「境界線」を学ぶための、私自身のリハビリの場所でもあるのだ。
――その時だった。
カラン!と、さっきよりも二オクターブは高い、けたたましいドアベルの音が響いた。まるで、店の静けさを許さないとでも言うように。
「こんにちはーっ! やってますかーっ?」
振り向くと、そこに立っていたのは、目眩がするほどの「色彩」だった。
ショッキングピンクのカーディガンに、鮮やかな黄色のプリーツスカート。手首にはカラフルなプラスチックのブレスレットがじゃらじゃらと鳴り、彼女が動くたび、甘ったるいピーチ系の香水が、店内の湿った土とカサブランカの香りを強引に塗り潰していく。
「い、いらっしゃいませ……」
「わーっ、可愛いお店! インスタで見ました! なんか、『心の処方箋』くれる花屋さんなんですよね?」
甲高い声が、狭い店内に反響する。
(インスタ……? 心の処方箋……?)
蓮が一瞬だけ顔を上げ、私を「ほら、面倒なことになった」という目つきで一瞥した。
女性――高田と名乗った――は、二十代後半だろうか。大きな瞳を必死に(・・・・・)見開き、口角はこれ以上ないという角度で吊り上げられている。その笑顔は、まるで、悲しみが入り込む隙間を一切与えないと誓った、第1章の彼女とは別種の、完璧な「仮面」だった。
「あの、今日はどのようなご用途で?」
「あ、そうそう! お祝いなんです! 友だち……ううん、親友の! だから、すっごく派手に! 明るく! お願いしたいんです!」
彼女はそう言うと、真っ先に、店の入り口に飾っていた真っ赤な大輪のバラに飛びついた。
「これ、いい! 情熱的! あと、こっちのオレンジのガーベラ! 元気が出る感じ!」
彼女が指差す花は、どれも彩度の高い、強烈な「陽」の色ばかり。
白や、淡いピンク、落ち着いた紫の花々には、まるで存在しないかのように、目もくれない。
「あの……高田さん。お祝い、なんですね」
「そう! だから、悲しい色はぜーんぶ抜き! お祝いなんだから、明るくないとダメ(・・)ですよねっ!」
――ダメ(・・)。
その一言が、私の耳に鋭く突き刺さった。
さっきの彼女の「完璧であるべき」と同じ種類の、強迫的な「べき思考」の響き。
私はゆっくりと、彼女の服装をもう一度、観察した。
季節外れに明るい、ビビッドカラー。
だが、そのショッキングピンクのカーディガンの袖口は、無意識に手で握りしめられているのか、少しよれていた。
そして、何より。
あれだけ明るい色の服を着ているのに、彼女の足元は、使い古されて少し形が崩れた、黒い(・・)ローファーだった。
(この人は、無理をしている)
明るい「仮面」を全力で演じながら、その足元は、鉛のように重い現実に縫い付けられている。
私の脳裏に、商社時代の自分がフラッシュバックした。
深夜のオフィスで、泣きたいほどのミスを隠し通し、上司の前で「大丈夫です! 完璧です!」と、乾いた喉で精一杯の笑顔を作っていた、あの日の自分。
(まずい。息苦しい)
彼女の必死さが、私の古い傷に触れる。
他人の感情が、私の「境界線」を越えて、なだれ込んでくる。
この人の悲しみは、私の悲しみじゃない。
私は、飲み込まれちゃいけない。
「……おい」
蓮の低い声が、私の耳元で響いた。
「仕入れのFAX、来てるぞ。確認しろ」
「え……あ、うん」
蓮が私に差し出したのは、真っ白なFAX用紙だった。もちろん、何も印刷されていない。
彼は、私が客に「飲み込まれ」そうになっていることに気づき、強制的に現実に引き戻したのだ。
私は一つ、深呼吸をした。
冷たい紙の感触が、私に「境界線」を思い出させてくれる。
「高田さん」
「はいっ!」
「お祝いの花、承知しました。……でしたら、この花はいかがでしょう」
私は、彼女が頑なに避けていた、店の奥のコーナーに向かった。
そして、一本の、青いデルフィニウムを抜き取った。
雨上がりの空をそのまま溶かし込んだような、静かで、深く、澄んだ青色。
「え……?」
高田さんの笑顔が、初めて強張った。
「あの……私、お祝いだって……。そんな、青い花……」
「はい。お祝いだからこそ、です」
私は彼女の前に、その青いデルフィニウムをそっと差し出した。
アサーティブに。相手の「明るくすべき」という価値観を否定せず、しかし、私の「悲しんでもいい」という選択肢を提示する。
「高田さんは、赤やオレンジを『元気が出る色』だと仰いました。それは、その通りです。……ですが、この青は、『元気がない時』に、ただ、静かに隣にいてくれる色なんです」
「……」
「お祝いだから、明るくしなければ。……本当に、そうでしょうか」
私は、キーパー(花の冷蔵庫)から、もう一本、紫色のリンドウを取り出した。
「無理に明るい色を選ばなくても、いいんですよ」
高田さんは、目をそらさない。
彼女の大きな瞳が、必死に作り上げた笑顔の奥で、激しく揺れている。
彼女が必死で心の奥底に沈めていた「何か」――心理学で言う『抑圧』だ。
耐え難い感情に、無意識で蓋をすること。商社時代の私も、そうやって『悲しい』という本心(Need)を殺し続けた。
その蓋が、今、目の前で外れかかっている。
「このリンドウの花言葉は、『悲しみに寄り添う』です」
彼女は、なぜ、この店が「心の処方箋」と呼ばれているか、まだ知らない。
私が、なぜ、彼女の心の鎧に気づいてしまったのかも、知らない。
ただ、彼女の無意識が、この店を選んだ。
「助けて」と叫ぶ代わりに、明るい色の服を着て、甲高い声を出し、そして、花屋のドアを開けた。
「……彼が、好きだったんです」
突然、彼女の口から、か細い声がこぼれ落ちた。
吊り上げられていた口角が、糸が切れたように、だらんと下がる。
「彼……婚約者、だったんですけど……先週、事故で……」
「……」
「お葬式でも、私、泣けなくて。だって、私がしっかりしなきゃって……周りも、『元気出して』って……だから、今日も、親友の結婚祝いだって、無理やり……明るい服、着て……」
「高田さん」
「……明るく、しなきゃ、いけないのに……」
彼女の視線が、デルフィニウムの青に落ちた。
まるで、初めて「泣いてもいい」と許可された子供のように。
次の瞬間、彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「う……あ……ああああ……っ」
派手なカーディガンも、ピーチの香水も、甲高い声も、すべてが剥がれ落ちていく。
彼女は、その場に崩れるようにうずくまり、声を上げて泣き始めた。
それは、一週間分の「抑圧」された、重く、濃い、本物の悲しみだった。
私は、ただ、黙って彼女の隣にしゃがみこんだ。
花を差し出すでもなく、言葉をかけるでもなく。
(私は、カウンセラーじゃない)
私にできるのは、彼女の悲しみを「治療」することじゃない。
ただ、彼女が、安全に悲しむことができる「場所」と「時間」を提供すること。
それが、花屋にできる、唯一の「処方箋」だ。
ふと、カウンターを見ると、蓮が、店のドアに「準備中」の札をかけるのが見えた。
外の喧騒が、少しだけ遠くなる。
店の中には、リンドウの紫と、デルフィニウムの青。
そして、一人の女性の、深く、静かな嗚咽だけが響いていた。




