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花屋「リ・フレーミング」の処方箋:もしも花屋が臨床心理学を学んだら  作者: もしものべりすと


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第1章 完璧主義と「すべき思考」のブーケ

雨上がりのアスファルトが放つ、湿った土と緑の匂い。それが、私の店「フルール・ココロ」のドアが開くたびに流れ込む、最初の香りだ。


午後の西日が、商品棚に並んだ小さな多肉植物たちに、まるでスポットライトのような長い光の筋を落としている。私は霧吹きでウンベラータの葉を丁寧に湿らせながら、その光の中で踊るほこりをぼんやりと眺めていた。埃ですら、光を浴びれば輝く。皮肉なものだ。


「美咲さん。今月の売上予測、入力終わった。見るか?」


カウンターの奥、店の「バックヤード」と呼んでいる狭い空間から、低く、体温のあまり感じられない声が飛んでくる。店の共同経営者、加賀谷かがや れん。彼が叩き出す無機質なキーボードの打鍵音だけが、店内に満ちた微かなジャズの音色と、不協和音のようなリズムを刻んでいる。


「ん、ありがとう。後で見る」

「……『後で見る』は、ビジネス用語で『絶対に見ない』の婉曲表現だぞ」

「あら。私の辞書では『蓮の気が済むまで』って意味だけど」


振り向かずに答えると、タイプ音が一瞬止まり、深い溜息が聞こえた。それが彼の「諦め」の合図だ。


蓮は、私がこの店を開くときに「出資」という名目で転がり込んできた男だ。元外資系コンサルタントという経歴は、およそ花屋に似つかわしくない。彼が店にいる理由はただ一つ。私が再び「壊れないか」を監視するため。彼の言葉を借りるなら、「投資対象(私)の資産価値がゼロになるリスクをヘッジするため」だそうだ。


――ああ、まただ。


私は無意識に、湿ったエプロンの裾を指先で握りしめていた。

この癖が出るとき、私は何かを「分析」し、「ラベリング」しようとしている。蓮の行動原理ロジックを、「合理化」だと断定することで、彼が隠している本心(=優しさ)から目をそむけようとしている。


臨床心理学は、諸刃の剣だ。

あの日、大手商社で文字通り「燃え尽きた」私を救ってくれた光であると同時に、今も私を縛り続ける呪いでもある。


バーンアウト。その響きは、情熱の残骸のようだ。深夜のオフィス、鳴り止まない電話、完璧な資料を求める上司の声。私は他人の「期待」という服を何枚も着せられ、最後には自分の肌の色さえ思い出せなくなっていた。


心がきしむ音を無視し続けた結果、ある朝、私はベッドから起き上がれなくなった。


その私を、ボロボロの私を、カウンセラーは静かに受け入れてくれた。

『あなたは、社会的な仮面ペルソナを着すぎただけだ』

ユングという心理学者が提唱した、人が社会に適応するために身につける「外的そとむきの顔」。それが「ペルソナ」だと。

『その仮面があまりに分厚くなって、本当のあなたの顔と区別がつかなくなった。今は、ただそれだけだ』と。


だから、私はこの店を開いた。

花を売るためだけじゃない。花を「媒介」にして、かつての私のように、分厚い仮面ペルソナに潰されそうになっている人が、ほんの少し立ち止まる「きっかけ(アウェアネス)」を見つける場所にしたかった。


カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。


入ってきたのは、三十代前半ほどの女性だった。上質なネイビーのパンツスーツ、一分の隙もない夜会巻き、寸分の狂いもなく引かれたアイライン。彼女が持っている革のビジネスバッグは、新品のように磨き上げられ、角の一箇所たりとも擦り切れていない。


(すごい、完璧な「仮面ペルソナ」……)


彼女の場合、それは「有能で、完璧なビジネスパーソン」という名の、鉄壁のよろいだ。


彼女は店内を見渡すでもなく、まっすぐカウンターに向かってきた。そのハイヒールの音は、まるでメトロノームのように正確で、硬い。


「いらっしゃいませ。……何かお探しですか?」

「アレンジメントを一つ。重要なプレゼンで使うものです」


声も、彼女の服装と同じくらいに硬質だった。早口だが、一語一語が明瞭だ。


「承知いたしました。ご予算や、お色のイメージは?」

「予算は問いません。それより、条件があります」

「条件、ですか」


彼女はバッグからタブレットを取り出し、指先で素早くスワイプした。表示されたのは、どこかのホテルのロビーに飾られていたらしい、巨大なフラワーアレンジメントの写真だった。


「これと、同じものを」

「……拝見します」


私はカウンターから出て、彼女の隣に立った。ふわりと、緊張を隠すための高価な香水の香りがした。だが、その下に隠れた、微かな汗の匂いを、私は嗅ぎ取ってしまう。


写真は、白と緑を基調にした、確かに見事なアレンジメントだった。けれど、


「お客様。これは……かなりの大きさですが」

「大きさは問いません。重要なのは、これと同じ『構成』であることです」

「構成、ですか?」

「ええ」


彼女は写真を拡大し、指でなぞった。

「完璧なシンメトリー(左右対称)。使われている花はカサブランカ、白バラ、トルコキキョウ。葉物の配置も、左右で寸分違わぬこと。そして」


彼女はそこで一度言葉を切り、私を射抜くように見つめた。

「傷や、形の不揃いな花は、一輪たりとも使わないでください。すべてが均一で、完璧であることが絶対条件です」


私は息を呑んだ。

これは、注文オーダーじゃない。脅迫に近い「要求」だ。


花は、工業製品じゃない。一つとして同じ形のものはない。茎のしなり、花弁の開き方、色の濃淡。その「不均一さ」こそが、命の証であり、美しさの源なのに。


(この人は、なぜこれほどまでに「完璧な均一さ」にこだわるんだろう?)


『変な家』の間取り図を見るように、私の頭が高速で回転し始める。

このいびつな注文は、彼女の心の何を映している?


彼女の視線が、ふと、店先に並んだガーベラの一鉢に向けられた。ピンク色のガーベラ。そのうちの一輪が、ほんの少しだけ、首を傾げるように斜めに咲いている。


彼女の視線は、その「斜めの花」を、まるで許しがたい欠陥のように、冷たく射抜いていた。


(見つけた)


彼女の心にあるのは、「完璧でなければ、価値がない」という強迫的な思い込み。心理学で言う「べき思考」だ。

その認知(ものごとの捉え方)の歪みが、彼女自身をがんじがらめにしている。


彼女が本当に欲しいもの(Want)は、「完璧な花」かもしれない。

だが、彼女が心の底から必要としているもの(Need)は、違う。

それは、「失敗しないこと」への保証。その強すぎる恐怖からの「解放」だ。


でも、私はカウンセラーじゃない。ただの花屋だ。

私にできるのは、言葉で「治療」することじゃない。花を「見立てる」ことだけ。


「……蓮。悪いけど、奥から『あの子』を持ってきて」

「あ?」


カウンターの奥で電卓を叩いていた蓮が、怪訝な顔で私を見る。

「『あの子』? またお前、変なこと……」

「いいから。一番奥の、日陰にいる子」


蓮は舌打ちしそうな顔で立ち上がり、バックヤードに消えた。


私は女性に向き直る。

「お客様。完璧なシンメトリーのアレンジメント、承知いたしました。最高の花材でお作りします。……ただ」

「ただ?」


彼女の眉が、警戒するようにピクリと動いた。

私は、彼女の鎧に触れるように、そっと言葉を続ける。


「ただ、もしよろしければ……その完璧なアレンジメントの『真ん中』に、一本だけ、違う花を加えてみませんか?」


「……意味が分かりません。私は完璧なものを、と」

「ええ。ですが、完璧なものの中に、たった一つだけ『遊び』がある。それこそが、見る人の心を最も強く惹きつける『余裕』になるんです」


蓮が、小さな鉢植えを無言でカウンターに置いた。

それは、まだ小さな苗木だった。名前も知らない、どこにでも生えているような雑草のようにも見える。だが、その細い茎は、上へ上へと、少し不格好に曲がりながらも、必死に光を求めようとしていた。


「この子は、他の花が売れ残った土に、勝手に生えてきたんです。誰も種を蒔いていないのに」


私はその鉢を手に取り、彼女の前に差し出した。


「完璧じゃないですよね。形も悪いし、見栄えもしない。……でも、私はこの子が店で一番、美しいと思っています。誰の期待にも応えず、ただ、自分の生きたいように生きているから」


相手を否定せず、しかし自分の意見(I=私)も誠実に伝える。

心理学で学んだ、アサーティブ(誠実な自己主張)と呼ばれる、最も難しい技術の一つだ。


「お客様のプレゼンが、完璧な理論武装で固められているのは、写真からでも分かります。ですが、その完璧なロジックの最後に、お客様ご自身の『言葉』――完璧ではないかもしれない、けれど、お客様だけの『本心』――を添えてみてはいかがでしょう」


彼女は、目をそらさない。私の言葉が、彼女の分厚い仮面ペルソナの、どの隙間を狙っているのかを値踏みするように。


「……あなたのキャリアは、完璧なだれかでなくても、揺らがない。私は、そう思います」


沈黙が、花の匂いと共に店内に満ちる。

蓮が、わざとらしく咳払いをした。


やがて、彼女は、磨き上げられたバッグを握りしめていた指から、ゆっくりと力を抜いた。


「……その、不格好な苗木。それも、入れてちょうだい」

「……!」

「ただし。プレゼンが失敗したら、あなたのせいだから」


それは、彼女が身につけた「仮面」が、ギリギリのところで発した、精一杯の強がりだと私には分かった。


「はい。喜んで」


彼女が店を出ていく。そのハイヒールの音は、来た時よりも、ほんの少しだけ。

ほんの少しだけ、不規則なリズムを刻んでいた。


「……おい」

カウンターの蓮が、伝票を突き刺しながら言う。

「また始まったな、お前の『臨床心理ごっこ』」

「ごっこじゃないわよ。花屋として、お客様のニーズに応えただけ」

「あれがニーズか? 俺にはただの押し売りに見えたが。あんな雑草同然の苗木まで使って」

「あの子は雑草じゃない。……それに、蓮」

「なんだ」

「彼女、ちゃんと代金、払っていったでしょ? ビジネスとして、何の問題もないわ」


私はエプロンを締め直し、カサブランカの水揚げを始めた。冷たい水が、火照った指先に心地よかった。


完璧でなくても、価値は変わらない。

それは、あのお客様に伝えたかった言葉であり、そして、今もなお、私自身が信じたいと願っている言葉でもあった。

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