水したりの家
今回、初めて期間限定企画に参加させていただきます。
テーマはホラー、そして”水”。恐怖と水の組み合わせは鉄板ですよね。
ちょっとセンシティブな表現がありますけど……私の考えた怖い話を、楽しんでいただけたら幸いです。
「こ、ここですか?」
「そーだ。あ、荷物はまだ置くな。今カギ開けっからよ」
―― あー……と。どこだったかな
僕、“小鳥遊 実”は内心うんざりとした気持ちで此処に居る。
季節は夏の終わり。残暑は収まる所を知らず、階段を上ってきたせいで顔を伝う汗が鬱陶しい。
目の前に在る空き家にエアコンなど無いがわかっているので、なおさら汗のべたつきに嫌気がさす。メガネにも汗が伝ってるし、早くボディシートで体も拭きたい。
一緒に来た……と言うより半ば無理やり僕を引っ張ってきた、大学の先輩である“安藤友和”がやっと鍵を見つけたようだ。
彼が横開きのドアを開けると、奥に薄暗いフローリングの床が見える。
くすんだ白い壁、瓦の屋根。やや古そうだとはいえ、よくある造りの日本家屋。30年程前に立てられたらしい、2階建ての一軒家だ。
「行こうぜ実。出るっていう女の幽霊、ぜってーカメラで撮ってやる」
僕たちが此処に来たのは、安藤先輩の女好きが由来しての事だった。
どういうことか説明しよう。
きっかけは、先輩が狙ってる大学の後輩。
安藤先輩は数週間前から件の後輩、湯川陽菜に猛プッシュを掛けている。
先日もサークルの飲み会で酔った先輩に絡まれ、困った様子の湯川を気の毒に思い助け舟を出したのだ。決して下心からではなく、同じ中高の後輩である湯川が、3年の間で女癖が悪いと評判の安藤先輩に目を付けられたのを心配してのこと。
明らかにボディタッチの過ぎる先輩との間にやんわりと割って入ると、湯川がほっとした顔をしていたので、間違った心配では無かったと思う。
『なんだよぉ実ぅ。お前も俺が好きなのかぁ?』
『酔いすぎですよ先輩』
『俺は陽菜ちゃんをデートに誘うので忙しーの。邪魔すんじゃねぇよ』
その後も湯川を諦めない先輩とすったもんだしていたら、当の湯川から思いもかけない提案があったのだ。
『う~ん……じゃあひとつ、私の悩みを解決してくれれば、安藤先輩とデートしてもいい、かな』
『お、マジ!?』
湯川の思わせぶりな態度に、先輩は目を輝かせ食いついた。湯川も慣れた様子で、ふわりと髪の香りを広げるように首を傾げてはにかむ。
……僕は、湯川のこういった所が少し苦手だった。嫌いなのではない。苦手なのだ。
それは湯川のせいでなく、僕の女性経験の無さが原因。
彼女は高校の時から人気者だった。一年下の、学校のアイドルと言われた女子。湯川はそれこそ、大勢の男子にモテていた。
一緒の中学だった頃の、“ある事情から腫物扱いされていた”彼女を、忘れてしまいそうになるくらいの人気。
だからなのか、それとも彼女の元の性質によるものか、はたまた中学の時に聞いた噂の内容が原因なのか。
彼女の女らしい大人びたしぐさに、恐ろしく冷めた雰囲気を感じるのは。
もっとも女の子の事なんてわからない僕の、勘違いの線が濃厚だが。
『で、悩みってナニ? 俺が全部聞いてあげちゃうよ~』
『実はねー、私が昔住んでた家の事なの』
彼女の、昔住んでた家。
僕は飲みかけたお茶に小さく咽せ込む。それは僕が今思い出していた、彼女に対する噂の原因に他ならないからだ。
『うわっ小鳥遊先輩だいじょうぶ?』
『コイツの事はいいから。ほら、そんで?』
『うん、でね。私の家って今は誰も住んでないんだけど、今度親戚の子が私の通ってた高校に進学する事になったんだ。でもその子の家が高校からだいぶ離れてるから、私の家を使って1人暮らししたらどうかって話しててね。どっか部屋借りたらお金かかるし』
なるほど、確かにそれなら部屋代も浮くし、一軒家を丸々使えるなら親戚の子は喜ぶだろう。あの噂が無ければ……。
『それで俺はナニすればいいわけ? 言っとくけど俺、カテキョは向いてないぜ。あ、いや陽菜ちゃんがどうしてもって言うなら』
『違う違う。その家に何日か泊まって……できればカメラとかで中の動画を撮ってほしいの』
『あ? カメラで撮る?』
『 え˝ あの幽霊屋敷をっ――あ』
まずい、口がすべった。噂のことを考えてたから、つい……。
『あー、小鳥遊先輩もそう思ってたんだー。まあしょうがないけど』
『あ、いや……』
『なんだよ、幽霊って』
僕の失言に湯川は怒ると思ったが、予想に反し彼女は淡々と実家の事を話し出した。
先ほどの柔らかい笑顔を、張り付けた様な笑いに変えて。
『家ね、地元で有名な“出る”家なんだ。それもとびっきり不名誉なカンジの』
僕も覚えている。
湯川の家は幽霊が出る。しかもその幽霊は女の幽霊で、その……ヤってる音とか声が聞こえる……らしい。
ヤッてるってのは、まあ、アレ。エロいアレの事。
中学の時の僕はあんまりわかって無かったけど、柄が悪めの子達が口傘も無く話してた。
エロ幽霊の家。湯川はエロ幽霊と一緒に住んでる、と。
噂の発端は、彼女の家に遊びに来た友達らしい。誰も居ない部屋でヘンな動きをする影を見たり、切羽詰まった女の人の声を聞いたという子が何人も居るのだ。
したたる水の音と一緒に。
思春期を過ぎ20歳を超えれば、水音っていうのも妄想に拍車をかける原因なのがわかる。主に動画の知識だけども。
『……ごく、っ……じゃあ、陽菜ちゃんも住んでるとき見た事あんだ。その幽霊』
湯川は答えない。グラスのリキュールをひと口飲んで笑うだけ。
『そんなんだから、親戚の子もその話聞いちゃったみたいで……。オバケが出るなら住みたくないって言うんだけど、親の叔父さん達は信じてないの。叔父さんは家賃が掛からないように、私の家を使ってもらいたい。そこで妥協案っていうのかな……オバケが居ないって証明できれば、親戚の子も私の家に住むって話になったわけですっ』
おちゃらけて話す湯川は、もう張り付けた様な笑顔ではない。酔いの回り始めた、普通の美人大学生の顔に戻っていた。
対して安藤先輩の鼻息は荒い。すでに勝利を確信したような顔だ。
『わぁーかった! 俺がその家に泊まって録画してやるよ。ちなみに幽霊が出ても出なくても、録画出来てればデートOKってことだよな!?』
『う~ん……ホントは出ない方がうれしいんだけど……ま、いっか』
『おいおい湯川……大丈夫か?』
気軽にOKなんて出して、後で面倒なことになっても知らないぞ。
『よっし実、機材の準備頼んだ!』
え……はい? なんて?
『ぼ、僕が用意するんですか!?』
『お前GoPro持ってたろ? 俺動画撮れるのスマホしか無ぇんだよ』
『スマホでいいじゃないですか』
『泊まんのは2泊3日くらいで。駅に現地集合な』
『人の話聞いてくださいよっ』
『じゃ後で鍵渡して……家の中は電気が通ってないけど、水道は使えるから。なんか山の地下水引いてるらしくて、昔から使い放題なの』
――そんなわけで、撮影お願いしまーす
湯川の軽い調子が、嫌に印象に残った。
「――い。おい、実。聞いてんのかよっ」
「え、は、はい」
「入ろうぜ。荷物はそこの部屋に置いときゃいいだろ」
先輩の声に我に返り、開いた玄関を潜る。家の中は結構埃っぽい。随分長い間、人が住んでいないのだから当然だ。
玄関を上がった廊下の、すぐ左の襖を空けれと殺風景な和室があった。窓からの光で明かりには困らない。でも夜になれば持ってきた電気ランタンの出番だろう。
重みを感じる荷物を畳へ置き、やっとひとごこち着く。
「結構坂上ったな。周りも林ばっかだし、殆ど山ん中なんじゃねぇの?」
「僕も初めて来ましたよ……疲れた」
「腹も減ったな。カップ麺でも食おうぜ。えーと、ボンベボンベ……」
先輩が持ってきたガスコンロをバックから取り出す間、僕は部屋にもっと光を入れたくて、色あせたカーテンを開けた。
窓からは雑草だらけの庭が見えて、草の間に乾いたハチの巣の残骸が転がっている。
「(……虫が多そうだなぁ)」
湯川の家は、川を辿った先にある斜面に建っている。同じ地元とはいえ、僕の家からは離れていて馴染みのない景色だ。
―― おっ、確かに水は出るな
水道の音が聞こえる。いつの間にかキッチンを見つけた先輩が、持参したヤカンへ水を入れているらしい。
よかった、これで水の心配はしなくていいぞ。一応持ってきたペットボトルの水を、節約して使う必要はなさそうだ。
少しした後、先輩と一緒にカップラーメンをすすりながら部屋の中を見渡す。
物が何もない。気になるのは壁の上の方に在る、掛けたままの額縁だけ。
「しっかし、攻めたかいがあったぜ。今日入れて2日ここに居れば、陽菜ちゃんとデート。あわよくばそのまま――くっくく」
「そんなうまくいきますかね」
「んだよ、妬むなって」
「いや僕は湯川と同じ高校でしたけど、アイツ誰かと付き合ったとかは聞いたこと無いですよ」
「じゃなおさら勝ったも同然じゃねぇか。くぅ~楽しみだな」
下品に笑う先輩に内心呆れつつ、先日の湯川の態度を思い出す。
湯川はそういったことには冷めてる印象なんだよな……いや、アイツももう僕と同じ大学生だ。心境に変化があったのかもしれない。
じゃなきゃ多少お願いの内容が面倒とはいえ、デートをすることになるだろう条件は出さないだろう。
先輩もそこまで悪い人じゃないんだ。女の子の事になると見境がなくなるだけで。
「しかも万が一“出て”もよ、ヤッてるのが見れるワケだろ?」
「いやあ……それはホントかどうかわからないですし……」
そんなうまい話があるだろうか。ここに住んでたはずの湯川が、詳しいことは何も話さなかった事も気になる。
まあ内容が内容だけに、話したくなかったというのも分かるけど。
「おい汚ぇな、こぼすなよ」
「 ? こぼしてませんよ」
「 汁を畳に垂らしただろ。びちゃって音が……――?」
僕と先輩は畳をよく見るが、染みは無い。
怪訝な顔の先輩と、無言で数秒見つめ合う。音を立てずに耳を澄ます。
―― …………
少し、ほんの少しだけ、水っぽい音が聞こえた気がした。
それはまだ見ていない家の奥、水道から水滴が垂れたぐらいの微かなモノ。なにもおかしなことは無い。
でも、僕の腕には鳥肌が立っている。
「……悪ぃ、気のせいだな」
「……そうですね。……この後、家の中を一通り確認しときますか。動画撮る場所も考えなきゃ」
「そ、そだな。頼むぜ、実。幽霊のエロ動画なんて撮れたら、金んなるかもしんねぇぞ」
「嫌ですよ、そんな動画……」
気づけば夕暮れが近い。さっさとカップ麺のゴミを片付けた僕らは、懐中電灯を持って家の中を散策する。GoProの録画も始めた。
あくまでここは湯川の家。他人の家を物色するようで気が引けたが、物が何もないので窃盗を疑われることは無いだろう。一応、来る途中に会った近所の人にも挨拶は済ませた。不法侵入の通報をされないように。
―― あんたら、水ん家行くんかぁ?
……この家に泊まるって言った時にすごく心配そうな顔をされたけど。
此処の“いわく”は近所にも知れ渡っているらしい。エロうんぬんはともかく、何かが居ることは間違いないのかもしれない。
「2階もスッカラカンだな」
「1階のほうは仕切りとか襖が多くて、なんか迷いそうですね」
「今日は荷物置いた部屋で寝るか。てか、この家んなか妙に涼しくね?」
「下の街と比べて結構上に昇ってきましたし、周りが森みたいで日陰になってるからかも」
エアコンが無いので熱帯夜を覚悟してたが、思いのほか快適に眠れそうだ。
陽が落ちた後、電気ランプの明かりで夕食を済まし、雑談して時間を潰していたが、22時頃になると眠気に襲われる。
今日はなんだかんだ体を動かしたし、思ったより疲れているのかもしれない。
先輩も同じような様子……というかもう寝てる。いびきうるせぇ。
「(僕も寝るか。録画は……一応しておこう。GoProだから1時間もしないで勝手に切れるけど、証拠動画は多い方がいいだろ。替えのバッテリーもあるし、スマホの方はモバイル充電できる)」
ランプを消して、畳に寝転がり目を閉じる。幽霊が出るという心霊スポットに来ているはずなのだが、不思議と怖さは薄い。隣に先輩が居るからだろうな。
「(案外、先輩も1人で来るのが怖くて僕を連れてきたのかも)」
そんな事を思いながら、だんだんと眠りに落ちていく。季節柄うるさく感じる虫の声も全く聞こえず、快適な夜であった。
……先輩のいびき以外は。うるさい。ほんとうるさい。
…………。
……。
ぴちゃ、ぐちゅ。
―― う、ん?
ぼやけた視界は暗いままの部屋を映す。誰かが、僕の上に乗っている。覆いかぶさっている。
女の人だ。長い髪が見える。頭のつむじが、丁度僕の腹の上にある。
―― 湯川……?
何とはなしにそう思った。髪型とか雰囲気が、彼女に似てる気がしたのだ。
―― な、なにして
「小鳥遊先輩も、私をそんな風に思ってたの?」
顔を上げないまま、彼女は僕に聞いてくる。あたまがぼんやりして、うまく答えられない。
ぐちゅり。
腹の上が生暖かい。濡れている感じがする。
―― ほんとに、なにして?
体を起こそうとした時、彼女も顔を上げた。
ご ぽ ごぽぽぽぽぶぽぽぽぽぽぽぽぽ
誰とも知らない萎びた女が、口から水のあぶくを吐いている。垂れた水は冷たくなって、あぶくもだんだん赤へと変わり――。
女の瞳孔が、“ぐるん”とあちこちに散った。
湯川じゃない。
「ひィッッ!!」
跳ねるように飛び起きる。引きつった僕の悲鳴が、部屋中に木霊しているような……いや耳鳴りかもしれない。
どちらにせよ、眠気が綺麗に吹き飛んでいることは確かだ。
「な、なん――? ……せ、先輩?」
隣に寝ているはずの先輩が居ない。置いてあったはずのランプも無い。訳が分からなくなり、ふらつきながら廊下に出る。
鳥肌が止まらない。暗闇の中見るもの全部が怖くてたまらない。
「へ、へんな夢見た……夢?……なんだっけ?……何を、見たんだっけ」
はっきりしない記憶に首を傾げた時、先輩を見つけた。廊下の先、突き当りの部屋の襖の前で、四つん這いに屈んでいる。
妙に滑稽な姿勢だった。
「安藤先輩……?」
「――」
先輩は答えない。襖の隙間を覗いて、微動だにしない。
「?」
気になって、先輩と同じように隙間を覗く。途端に違和感があった。
臭う。なにか臭う。湿っぽい……これは汗の臭いだ。
「(何か動いている……? 動物? 人?)」
部屋の中、畳の上で黒い塊が蠢いている。よく見れば、それは人影。
女の人だ。仰向けに横たわった女性の上に、黒い影が覆いかぶさる。上になっている影はぼやけてよくわからない。
―― ひいぃぃ……ううぅぅ……
女の人が声をあげる。苦しそうな、顔を顰めたくなる声色だ。
「(これが、噂の元凶……?)」
あまりに現実離れした光景に、頭の一部が冷静になる。
恐怖より不可解、奇怪といった感情が勝った。
「(ヤってる、の、か。上に乗ってる影は、男?)」
確かに、そんな風に見えないことも無い。先輩も同じものを見てるのだろうか。
だとしたら先輩が食い入って見るのも分かる。
視線を襖から先輩の顔に戻すと
「ガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチ」
先輩は震えていた。眼を極限まで見開いて、歯を打ち鳴らしている。その顔を見た途端、体中からぶわっと汗が滲み、忘れていた恐怖がぶり返す。
僕は先輩を見ていられず、自然と襖の隙間へ顔を戻した。
女の人と目が合う。首を捻じ曲げ、血走った目で僕を見ている。
口から噴き出す血のあぶく。
―― か ん˝に˝んしでええ これ あ˝んたの子ぉぉぉぉぉ
口から溢れる血が、粘つく水音と共に畳へ広がり、同時に声もハッキリと聞こえた。
途端に暗闇で行われていることを理解する。
覆いかぶさった人影が、女の腹を腕で押しているのだ。手がめり込むほどに激しく、強く。
女は足をやたらめったらにばたつかせ、吐き出す血の量を増やす。
「うあ˝ああああああああっっ!!」
限界だった。行われる惨たらしい所業に、ついに耐えきれず逃げ出す。
どうにか寝ていた部屋まで戻るが、心臓がバクついてうるさい。眩暈が酷い。
とにかく何も見たくなくて、耳を塞ぎながら蹲る。
夜の記憶はそこまでだった。
気づいた時には、部屋の窓から日光が差し込んでいる。
眠ったというより、気を失っていたらしい。
同じように廊下で気を失っていた先輩を起こし、帰ろうと提案する。こんなところに、もう居たくない。
「ダメだ。俺は、撮るんだ」
先輩は青白い顔で、信じられないことを言った。残ると言うのだ。もう一泊して、動画を撮ると。
そこまで湯川とのデートを……と、半ば先輩の正気を疑った時、僕は察した。
目つきがおかしい。いつもの先輩じゃない。
「(本当に、正気じゃないのかも)」
昨日と変わらない、薄暗い家の中から音がする。何処からではなく、そこら中から水の滴る音がする。
恐怖の最高潮に達した僕は、あわてて荷物をまとめ、逃げるように湯川の家をあとにした。
・
・
・
一週間後。
僕はアパートへの帰り道を歩いていた。項垂れて見る手には、GoProの機器がまとめてしまわれたリュック。
これは、先輩の家族から返してもらったのだ。
あの後、湯川には事の顛末を説明し謝った。僕たちには、あそこへ泊まるのはもう無理だと。
恐怖でうまくしゃべれなかったが、あそこに何かが居た事も伝える。
――そっか
湯川は冷たく笑うだけだった。
その後、ある事に気付く。GoProを入れた荷物が無いのだ。
湯川の家から飛び出す時に、片方の荷物を先輩が持っていた記憶がある。気が動転して、返してもらうのを忘れていたのだ。
急いで大学内を探すと、なんと安藤先輩は大学を休んでいるのだと聞く。
彼のアパートを教えてもらい、見舞いの品を持ってインターホンを押すと、出てきたのは先輩の母親。
先輩から妙な電話があったとかで、心配になって見に来たらしい。表情が硬い。なにかに怯えているような様子だ。
事情を説明すると、母親は例の荷物を探してくれた。
だが先輩の様子を尋ねると口をつぐむ。困ったように俯き、“会わせられないから帰ってほしい”とも言った。
なので見舞いの品だけ渡し、こうして帰路に着いているのである。
「……動画のファイル……見てみる、か」
先輩の体調も気になるが、目下悩むのはその事。念のため確認して、湯川に報告をした方がいいのかもしれない。
でも見る勇気がない。
そんな堂々巡りの思考に囚われながら、いつの間にか自宅アパートに。
ボロい階段を上がった先の、僕の部屋のドアの前に、思いがけない人が立つ。
「小鳥遊先輩」
小首をかしげて笑う、湯川陽菜だった。
・
・
・
「おじゃましま~す」
「う、うん」
湯川は遠慮する様子もなく、僕が暮らすアパートへ上がり込んだ。
どうして湯川が此処に居るのか。なんで僕のアパートを知っているのか。
聞きたいことが沢山あるけど――
「じゃあ小鳥遊先輩、撮ったヤツ見せて。撮れたんでしょ?」
その一言で固まる。まるで初めから知っていたかのような言い方だ。
「いや……なんで」
「なんでって、そういう約束で家の鍵を貸したんだから、あたりまえだよ」
有無を言わせない雰囲気。困惑しつつ、観念してGoProのSDカードをノートパソコンで読み込む。
画面に表示されるいくつかのファイル。
「なあ……湯川は、知ってたのか。自分家だもんな、湯川も見た事あるんだろ? アレ、なに?」
「はやくはやく」
僕の質問には答えず、湯川は動画ファイルを開けとせっつく。
諦めて最初のファイルをクリックする。
始まる映像と音声。これは最初に家の中を調べた時の動画だ。
「――」
まず困惑した。映っているものがよくわからなくて。
一度画面から顔を離し、再度近づいて目を凝らして見る。
吐き気がした。
「なん、っ、だよこれっなんだこれっっなんだこれぇ!!」
天井、床、壁……映っていたのは、あらゆるところから流れ落ちる赤い水。
水滴が滴り落ちる音まではっきりと聞こえる。
「わー懐かしい。先輩達、入ってすぐ水の音聞こえなかったの?」
「え、は、な、なん――」
「聞こえなかったんだ。じゃなきゃ普通に入っていかないもんね」
動じた様子はなく、湯川が次のファイルをクリックした。
映ったのは真っ暗の部屋。先輩のいびきが聞こえるから、これは寝る前に録画しておいた映像。
違和感はすぐに起こった。
いつの間にか開いてる襖。そこから横向きに男の顔が伸びている。
「ひっ」
思わず口を押えて息を呑む。男の顔は細長で、ぎょろぎょろと目玉だけを動かして部屋の中を嘗め回して見ているようだ。
そこで急に安藤先輩が立ち上がる。男の顔は消えていて、空いた襖から部屋を出ていった。そこで映像はクラッシュしたように停まる。
「う、う」
「あれ? 最後のファイル……今日の日付だよ」
何事も無いように映像を見続ける湯川が、不気味に感じて仕方ない。
これを見て何も思わないのかっ? 本当に同じモノが見えているのか!?
―― あー……じゃな、い
画面から声が聞こえ、視線を戻す。
画面いっぱいに顔が映っていた。安藤先輩だ。
目は虚ろで、忙しなく唇を動かしているのがわかる。
「安藤せんぱい……なにして……」
たぶん、寝転びながらGoProで自分の顔を撮ってる。
なんでそんな事を……。
「おしえたいんだよ」
「教える?」
「小鳥遊先輩――っていうか、誰でもいいって感じなんだよ」
安藤先輩の声に耳を澄ます。
――おれの子じゃないおれの子じゃないオレのこじゃ、ないなにあにあないに
全身に寒気が走る。湯川の家で感じた悪寒と同じだ。
「安藤先輩、なに言って」
「あそこね、むかーし別の家が建ってたんだって」
湯川は画面を見たまま語り始める。
私も子供の頃から同じのが見えて、家族もだんだんおかしくなって、親も離婚した後消えちゃった。
今はもう死んじゃったけど、近所のおじいちゃんが言うには、子供の頃に心中事件があったって。
奥さんが浮気したって思いこんだ旦那さんが、奥さんのお腹を潰して殺したって。ひどい有様だったのを覚えてるって言ってた。
旦那さんは山の奥の方の沢で沈んで死んでたんだけど、溺れる程の深さじゃなかったらしいよ。
そこからおかしなことが起こるようになったみたい。事件が起こった古い家は、急に腐って倒れて、後から建つ家建つ家みんな住んでる人がおかしくなって、家もその都度壊された。
「そうとも知らずにまた家を建てて、そこを買ったのがうちってわけね」
湯川は笑う。心の底から楽し気に。
「私ね。‘やりやすそう’って顔で私に近づいてくる男が嫌い。勝手にエロ幽霊の家の子なんて噂を広めて、見下してくる人が全部嫌い。だから親戚の子の為なんて嘘ついて、安藤先輩を家に入れたの。こうなるって、わかってたから」
湯川は、中学の時の事を言っている。
あの頃の湯川は、遠巻きに笑われても何も言わず、俯いているだけだった。
だから――。
「小鳥遊先輩は、そんな私を助けてくれた。馬鹿にしないでくれた」
違う。ちょっと庇っただけだ。結局助けてなんてやれてない。
「高校まで追いかけたのに、今度はなかなか話せなくて」
湯川は綺麗になって、違う世界の人間だと思うようになったから。
「小鳥遊先輩は優しいから――、こんな私を見捨てないでくれるよね?」
湯川に手を握られ、冷たい瞳に見つめられ、僕は何も考えれずただ頷く。
寄りかかる湯川の香りは、柔らかくて
どこか湿った水の臭いがした。
ごぽごぽごぽごぽ。
「小鳥遊先輩が”みんな”みたいにおかしくなっても、ちゃんと面倒みてあげるから」
流れ続ける動画の奥で、あぶくの噴き出る音がする。
読んでいただき、ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけましたら、
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