9歳の少年の初仕事
由緒正しい陰陽師の家に生まれた少年、晴藤霞。
彼は今日まで、たった一度しか霊を見たことがない。
そんな彼が、始めて陰陽師の仕事をするお話。
その日は、数日ぶりに快晴であった。
陽光が眩しく降り注ぎ、昨晩まで降り積もっていた雪は空気の緩やかな暖かさに誘われるように、ゆっくりと溶け始めていた。
足元に薄く残った雪には、二組の大小異なる足跡が続いている。
川岸の大きな岩々にはまだしっかりと雪が乗り、陽を受けて微かにきらめく。
周囲の木々は溶け始めた雪が水滴となって艷やかに緑を際立たせていた。
川面は激しく波打っている。切り立った崖の上から落ちる滝は豪快に白銀の飛沫を上げ水面を打ち付けていた。
そんな滝壺に一人の少年が立っている。
全身を強く滝に打たれ、白い装束を重くびっしょり濡らしながら二本足で力強く川底を踏みしめている。
水深は子どもにとっては深く、股下まで水に浸かっている。
凍りつくような水温に唇は真紫に変色し、青白い肌は鳥のように粟立っている。
ガチガチと歯を鳴らし、目を固く閉じながら一心不乱に経を唱える。
「そこまで。」
少年より五メートル程川下に立つ男は告げた。
少年はザブザブと水をかき分けながら男の元まで歩む。
その途中、一度くるりと滝に向き直り、手を合わせて九十度の角度で腰を折る。
風上からふわりと風が吹き、水面が揺れる。
少年はその僅かな風にもブルブルと体を震わせ、再び男の元まで歩み始める。
「寒い!寒い!寒い!!!!」
少年は叫んだ。
「なんだ、昨日よりずっと元気がありそうだな。」男はニヤリと口角を上げた。「もう少しやるか?」
「ふざけんなクソ親父!」
少年は男……父に背を向け川岸に向かう。
ゴツゴツとした岩の多い足場を何のためらいもなく突き進んだ時、突然足の裏にチクリと痛みが走った。
「痛っ、」
少年は足を止めた。そよそよとした風が彼を包み込むように吹いた。
「その先は水深が深くなっているそうだ。
進路を左手の方に変えろ。」
父は少年の横を通り過ぎ、軽い足取りで川岸に上がる。
「何も聞こえないんだけど。」
少年はボソリと言った。
先程父が進んだ道順通りに川岸に上がり、そこに置いていた草履を履き大判のタオルに包まる。
父は少年の頭に手を乗せる。何も言葉は無かった。ただ温かく柔らかい眼差しを向け、少年の心にチクリと小さな針を刺した。
少年の名は晴藤霞。
平安の世より続く、由緒正しい陰陽師の家系に生まれたひとりの男児である。
しかし、彼は生まれた時からお化けの類は見えなかった。
つい一年前の夏、彼はただ一度だけお化けなるものを視認することに成功した。
森の奥で、黒髪を垂らした女の霊が、ぬらりと笑って彼を見下ろしていた。
霞はその姿を、確かにこの目で捉え、討伐した。
「ついに才が芽吹いた」と、一族は喜び、霞自身も胸を躍らせた。
しかし、あの日を境に──
霞が再び“彼ら”を視ることは、ついぞなかった。
霞は父と共に家に帰った。
濡れた服を着替え、台所の母と少しの会話をし、縁側に出る。
縁側には一人の老人が腰を下ろしていた。霞の祖父だ。
晴れやかな空を見上げ、ぷかぷかとたばこの煙を空に昇らせる。足元に集まっていた小さな鳥は霞の姿を見るなり慌てて飛び立っていった。
「霞や、ここへおいで。」
霞はパタパタと駆け寄って祖父の隣に座る。庭に両足を投げ出し、屈託のない笑顔を向けると、祖父は柔らかく口角を上げた。
「修行はどうだい?」
「寒いし、痛いし、成果は出ないし……。」
もううんざりだ、とは言わなかった。
祖父は何もかも見透かしたように頷き言った。
「成果というのは、なにも見える形で現れるとは限らない。
ほら、これを使ってごらん。」
祖父が差し出したのは一枚の白い折り紙だ。
霞はそれを受け取ると、くしゃくしゃと丸めて手の中に包み込み、ふうっと息を吹き込む。そして、そっと宙に浮かべるように手を広げると、丸めた紙は鳥の姿となりパタパタと空へ飛び立っていった。
「わしは、1年じゃ出来なかった。お前は出来て当然だと思うかもしれんが、紛れもなくお前の才能と修行の成果だ。」
祖父はクスリと笑みを浮かべたばこを蒸す。
「でもおじいちゃんは、生まれた時からお化けが見えるんでしょ?」
霞はつんと唇を尖らせる。祖父はぼんやりと空を見上げ、そして懐から一つの封筒を出した。
「霞や、これを読んでごらん。」
霞は封筒を受け取り、中の紙を取り出す。
「依頼書。村長から?」
「そうだ。晴藤家に頼みたいとな。」
ふぅん、と霞は手紙を読み進める。
「で?これが何なの?」
霞は意味ありげに笑みを浮かべる祖父に尋ねた。
「その仕事をお前に任せる。」
「は?」
霞はポロッと手紙を地べたに落とした。
晴藤の家から少し山道を下ったところにその村があった。
人口およそ800人。都市部からは遠く遠く離れた山間部に位置し、お年寄りから赤子まで幅広い年代の人間が皆顔見知りで、皆が皆この村で生まれ、この村で働き、この村で生を終える。旅行で他の都市を訪れることも少なく、移住することもなければ移住者が現れることもない。小さいながらも暮らしやすく、山の幸や川の幸に恵まれた良き村だった。
霞は茶畑に囲まれたくねくねとした道を下る。いつもであれば青々とした畑は、もう何ヶ月も前に収穫を終え、ふかふかの土が次のシーズンを迎えるまで眠りについている。
この畑で働くおじさんとおばさんはこの時期になると肩の力を抜いて穏やかな日々を送っている。霞が家の前を通りかかると決まっていつも玄関を広く開けてお茶でもどうかと誘ってくれるのだ。
今日もそれは例外ではなく、霞は元気に「お邪魔します。」と玄関の戸をくぐった。
入ってすぐの畳に座布団が一式置かれ、小さなちゃぶ台に湯飲みが置かれる。そのちゃぶ台を囲うようにおじさんとおばさんは腰を下ろし、大福やお団子を次々と机に並べ始める。
「霞ちゃん、今日の修行はおしまいかい?」
「うん。今日は朝から滝に行ってた。」
霞は出された大福を頬張り、熱い茶をぐびぐびと飲む。
「こんな寒いのに霞ちゃんはえらいねぇ。
これから村で遊ぶのかい?」
「おじいちゃんに仕事頼まれたんだよ。
これ知ってる?村で人が行方不明になるってやつ。」
懐から出した手紙をおばさんに差し出した。
おばさんは手紙を広げ、おじさんは横から手紙をのぞき込む。
「あらあら、これ吉川さんのところの息子さんよ。
ほらこの間、何日も行方不明になったって大騒ぎで。」
おばさんは丸い目を更に丸くしておじさんの肩を叩く。
「はぁ。これが菊司さんに依頼されるってことは、霊の仕業って事かね。」
菊司とは霞の祖父の名だ。霞は、団子を噛み締めながら肩をすくめた。
「さあ。おじいちゃんはまだ何も。
僕に調査してこいって。
その吉川さんが行方不明って話をもっと教えてよ。」
「うーん、そうねぇ。あれは4日前の夜だったかしら。」
おばさんは腕を組み、記憶を絞り起こすように眉間にしわを寄せ天井を見つめる。
「その日は肉じゃがを作っていたのよ。
それから、お醤油を切らしてたんだわ。それで慌ててマルナカさんの所に買いに出たのよ。
霞ちゃんも行ったことあるわよね?マルナカさん。」
霞はコクリと頷いた。丸中という老夫婦が営む、村で一番大きな商店だ。村の外の食材はすべてここに集まる。霞も母に連れられ何度も訪れたことがある。
おばさんは、話しているうちに記憶を呼び起こすことに成功したのか「そうそう!」と顔を明るくし、ペラペラと饒舌に早口に話し始めた。
「その途中ねぇ、住宅地に入った少し先の交差点にお地蔵さんがいらっしゃるの分かる?そこの角から突然人が飛び出してきて、真っ暗だったから私も思わず『ギャッ!』って叫んじゃったんだけど、その子ったら私に目もくれずスタスタ銀行とかある方面に歩いて行っちゃって。
今思えばあの子は聡くんだったわ。吉川聡くん。」
「そのまま聡さんは行方不明に?」
おばさんは神妙な顔で頷いた。
「えぇ。朝になったら吉川さんの奥さんが青い顔をして色んな人のところに聞き込みしていてね。
私もそこで初めて聞いたんだけど、聡くんは昨晩家に帰っていないって。学校のお友達からは、間違いなく部活に来ていたと聞いたそうなんだけど、それを最後にパッタリと行方が分からなくなってね。
私ももうビックリして……、ほら私聡くんに会ってるでしょ?あの時どうして声をかけなかったんだろう、吉川さんの家に行かなかったんだろう、って気になっちゃって。
それからは私、吉川さん夫妻と、お巡りさんと、例の交差点に行って、聡くんが歩いていった方を探して回ったんだけど、結局見つからなかった。」
「それでどうなったの?」
霞は団子の刺さっていた串を皿の片隅に置き、別の串に手を伸ばす。
「見つかったのよ、昨晩急にね。
場所は林さんの家の裏よ。あそこの細い道、知ってる? 」
「林さんって、村のはずれにある家だよね?
あの山道の入り口近くにあって犬がいる……。」
「そうそう!その林さん。
林さんの所のあの大きくて真っ黒で賢い犬だけどね、あの子、あの日の晩急に吠え始めて。最初は鳥か何かがいるんだろうと思ったらしいんだけど、あまりにも鳴き止まないから見に行ったら、倒れてたのよ。聡くんが。
お医者様がね、何日も飲まず食わずだったんだろうって。酷い栄養失調と脱水で、頬も酷く痩せこけていたそうよ。」
「聡さんはもう目は覚めたの?
何日もどこに行っていたのか分かったの?」
霞は串に刺さった団子を二つ口の中に入れた。
「もう意識も戻って、今朝退院したと聞いたわ。
でもねぇ、行方不明の間の足取りは分からないままなんですって。
警察はどこかに監禁されていたんじゃないかと考えているそうだけど、それにしては傷もないし。
ほら、監禁なんてされたら暴れたりしそうじゃない?
捕まるときに抵抗したりね。でも何もないんですって。」
霞はしばらく何も言わなかった。
最後の団子を頬張り、もぐもぐと噛み締め嚥下する。
手紙を畳んで懐にしまい、ふぅと静かに息を吐く。
「吉川さんに話を聞いてみるよ。」
おばさんは頷いた。
「そうね。それが良いわ。
あと、村長さんの話も聞いてみなさい。」
「うん。お手紙くれた人だからね。」
「それだけじゃないのよ。」
おばさんは暗い顔で首を横に振った。
「他にも、行方不明になって数日後に帰ってきたって人が何人もいるのよ。
その最初の一人が、村長さんの娘さんなのよ。」
霞は、「ふぅん。」と返事をした。
霞が窓の外に目をやれば、閉め切られた窓がカタカタと震えている。木々がざわめき、カラスが三羽、円を描くように空を飛んでいる。
霞は、それが意味することを何も感じ取れてはいない。風が強くて外は寒そうだと、憂鬱な気分で立ち上がる。
「お茶とお菓子ありがとう。」
ニパッと懐っこい笑顔でおじさんとおばさんに別れを告げた。
村長宅は、村の北側に位置する高台にあり、昔ながらの重厚な門構えに、手入れの行き届いた庭が広がる。
門をくぐると、奥から村長夫人らしき女性が出てきて、霞を中に招き入れた。
客間には、村長が難しい顔をして座っていた。茶を勧められ、霞は神妙な面持ちで口を開いた。
「村長さん、貰ったお手紙の事で話を聞きに来たんだけど。何人も行方不明になったり、突然戻ってきたり、娘さんも居なくなったって……。」
村長は大きくため息をつき、重い口を開いた。
「うむ。あれは、今から二月ほど前のことだったか……。」
村長は、憔悴した様子で語り始めた。
娘が夜遅くまで帰らず、村中を探し回ったこと。数日後、村の外れにある畑の真ん中で発見されたこと。聡さんと同じく、意識は戻ったものの、その間の記憶が一切ないこと。
「一体、何が起きているのか……。」村長は頭を抱えた。「村では神隠しだと大騒ぎだ。菊司さんはなんと言っている?」
「まだ何も。僕に話を聞いてこいって。」
「菊司さんにくれぐれもよろしく頼むと伝えてくれるかい。」
霞はゆっくり頷いた。
「うん、分かった。」
村長は、すがるような目で霞を見つめた。
すると、閉め切られた部屋の空気が薄く揺らいだ。
風もないのに、壁にかけられた屏風が微かに震え、たばこの甘やかな香りが、どこからともなく室内に満ちていく。
村長はハッと息を呑んだ。彼の視線は霞の背中に向けられていた。彼の背後から微かに、しかし確かに、懐かしくも清らかな気配のようなものを感じ取ったのだ。
その気配に導かれるように、村長は深々と頭を下げた。
「頼む、どうかこの村を救ってくれ。」
まるで霞の向こうに立つ誰かに訴えかけるかのような姿に、霞は違和感を覚えながら無言で会釈した。
その後、いくつかの家を訪問するうちに天高く上がった太陽は山の向こうにすっぽり沈んでしまっていた。
月明かりで照らされる道を歩み、その突き当たりにある家の門を開ける。
「ただいまぁ」
家の敷居をまたぐと、霞の背から一羽の小さな鳥が飛び出した。
鳥はチュンチュンさえずりながらまっすぐ中庭の方へ消えていく。
霞はポリポリと首の後ろを掻きながら、何事も無い様子で石畳を真っ直ぐ歩み玄関の戸を開ける。
「ただいまぁ」と霞はもう一度声を出す。
家の奥から「おかえりなさい」と母親の声が聞こえる。
おそらく台所で料理をしているのだろう。
「霞や。」
続いて祖父である菊司の声がした。
土間を上がって、左手の角を曲がった方から聞こえる。
「霞や。私のところへ来なさい。」
菊司の姿は見えなかった。
靴を脱ぎ、土間の隅に揃えて寄せ、声のした方に向かう。
「おじいちゃん?」
霞はパタパタと廊下を走り、キョロキョロ辺りを見渡しながら中庭に向かう。
菊司はいつもと同じように縁側に腰掛け、たばこを吸っている。肩には一羽の小さな白い鳥が止まっており、霞が近寄るとパタパタと空へ消えていった。
「霞や。ここにお座り。」
霞は菊司の隣に腰を下ろし外に足を投げ出す。
「仕事はどうだった?」
「んー、手紙に書いてあった通りだよ。
村人が何人も行方不明になって、みんなすごく弱った姿で見つかっていて、みんなその間のことは覚えていないんだって。」
「そうかい。」
菊司はふうっと煙を吐き出した。
「あとは、みんな夜に居なくなっているとか、みんな村のはずれで見つかったとかかな。」
「そうかい。きっと出られなくなっているんだね。」
「出られなくなってるって?」
霞は首を傾げた。
「村で、なにか変わったことはなかったかい?
お化けの気配がしたり、動物たちの挙動や村の人の様子はおかしくなかったかい?」
「お化けは僕には見えないよ。でもおじいちゃんが調べたらすぐに見つかるんじゃないの?」
そう言うと、菊司は緩やかに笑みを浮かべた。
「わしは、そうは思わんよ。ほかに異変はなかったかい?」
「動物といえば、吉川聡さんが見つかる時、犬が吠えたって。全然鳴き止まなくて林さんが様子を見に行ったら聡さんが倒れてたって言ってたよ。」
「そうかい。」
菊司は頷いてたばこを口にくわえた。
何も言わず、彼は瞬きを三度した。ゆっくりと時間をかけて瞼を閉じては開く。一度たばこをしわくちゃの指で取り、またゆっくりと煙を吐き出した。
「ほうら、霞。空をよく見なさい。」
霞はぱちくりと瞬きして、視線を菊司から空へ移した。
「分かるかい?風が変わった。
これからぐっと冷え込む。村へ行く前に暖かい羽織を着なさい。」
「村?村に行くの?おじいちゃんも?」
「いいや。これは霞の仕事だ。
行くのはお前一人だよ。」
菊司はクスクスと笑う。
すると、廊下の奥でバタバタと慌ただしい足音がし始めた。
「お義父さん。お客さまです。」
霞の父が廊下の奥から現れ、菊司の後ろで膝をつき淡々と告げた。
霞は一度父の方を振り返り、再び菊司を見つめる。
「霞の客だ。行きなさい。
芙蓉さん、霞を連れていきなさい。」
父……芙蓉は短く返事をして、頭を下げ立ち上がる。
霞も立ち上がり、とことこ父の後ろをついていく。
時折菊司を振り返るが、彼は真っすぐ中庭の池を見つめ、たばこの煙を吐き出すだけだった。
「霞、困った事があれば私に言いなさい。
菊司さんは厳しすぎる。まだ修行を始めたばかりのお前にさせることではない。」
「うん。危ないの?このお仕事。」
「いいや。仕事そのものに問題はない。
だがここ数日、村の様子は妙だ。気をつけるに越したことはない。」
霞はぼんやりと村で見た人や景色等を思い起こす。
いつもと変わらぬ優しい人たち。雪をかぶった木々や、濡れた大地。日向ぼっこをする猫や、霞が通る度にギャンギャン鳴く林さん家の犬。
一体、芙蓉が何を不安に思っているのか、霞にはよく分からなかった。
そのうち芙蓉は、客間の前で足を止めた。
膝を折って襖を開け、部屋に入る。
霞がその後に続いて部屋に入ると、村長が座布団に座って茶を飲んでいた。
先ほど、村長宅で会った時のような憔悴した様子は一切なく、どこか焦っているかのように眉間にシワを刻み、忙しなく視線を動かしている。
霞の後ろで芙蓉は再び膝を折って襖を閉じ、村長の正面に移動して座布団に腰を下ろした。
「霞、ここにお座り。」
芙蓉は自身の隣の座布団を指す。霞はその通りに腰を下ろした。
「芙蓉さん、菊司さんは?」
村長は前のめりになって訊ねた。
「この仕事は、ここに居ります霞がお受けいたします。」
「何でだい。今はそんな悠長なことを言ってる場合ではない!
いつもなら菊司さんがパパッと片付けてくれるではないか、なぜ今日に限って……。」
村長は苛立ち交じりに言うと、すぐに視線を霞に移す。
「霞ちゃんには悪いけどね、今回は訳が違うのよ。
もうお使いを頼むような時間は無いんだ。
分かるね?まだ君には、あまりにも荷が重すぎるんだよ。本番の方を任せるわけにはいかないんだ。」
「勿論、霞には私か菊司が常に側に付いております。
霞の手に負えないような何かがあれば、私どもが代わります。
それより、うちに来た用件を早くお伺いした方が良いように思いますが。」
芙蓉の言葉に村長は出かかった言葉を飲み込み、頬をブルブル震わせながら唸るようにため息をついた。
「なら霞ちゃん、貴方に出来るのならやってごらん。
今、大河内さんのお父さんが行方不明になった。
山菜を採りに行ったきり戻ってこない。
今、村の人たちで山狩をしているところだ。
私はね、これも一連の事件と関係しているものだと考えている。ただし、今までと違って大河内さんのお父さんは九十歳を超える高齢者だ。何日も行方不明となっては命に関わる。
今すぐ、大河内さんを見つけておくれ。」
村長の鬼気迫る様子に霞はたじろいだ。
今までの聞き込み調査のように誰でもできる仕事ではない。
霞は恐る恐る、芙蓉の顔色を窺った。
「やりなさい。」
芙蓉はピシャリと告げた。
「わ、分かりました。」
霞は小さく返事した。
「あ、あの……。大河内さんの身につけていたものとか、大切にしていたものとか、何かありますか?」
「ああ。寝巻きの帯を持ってきたよ。
菊司さんはいつも、こういう物から見つけてくれるからね。」
村長は刺々しく言い放つと、机にその帯を置いた。
「お借りします。」
霞の手は震えていた。
壊れ物を扱うように帯を手に取り、窓際まで行くと帯を置き窓を開ける。たちまち凍り付くような冷気が室内に流れ込んだ。
帯と向かい合うように霞は正座し、懐から1枚の紙切れを取り出した。しかし、つるりと指先から抜けて紙は落ち、風に吹かれて部屋の反対端に飛んだ。
「あっ。」
「霞」
立ち上がろうとする霞を芙蓉が制した。
芙蓉は立ち上がり、霞の少し後ろに腰を下ろすと、自身の懐から紙を取り出し霞の手に握らせた。
「あ、ありがとう。」
芙蓉は何も言わなかった。腕を組み、まるで今から霞の術を品評するかのような、鋭い視線のみを向ける。
霞は一度救いを求めるように父を見つめ、その後渋々と帯に向き直った。
紙を人差し指と中指で挟み、小さく術を唱える。
その瞬間、部屋の中に突風が吹き込んだ。帯は瞬く間に飛び、髪や着物の袖がバサバサと揺れる。
霞はそれを意に介さず術を唱え続ける。そして、紙を風に乗せるようにそっと解き放つ。
「お行き。」
霞は言った。その声に、紙を操る手に震えはもう無い。
目を据え、低く静かに唱えた合図とともに紙はバチンと弾けて鳥の姿を形どり、軽やかに翼を広げて真っ暗な空へ飛び立った。
「行ってきます。」
霞は立ち上がった。村長に一度頭を下げ、父の姿など目もくれずパタパタと客間を飛び出した。
「ふ、芙蓉さん。霞ちゃんはどこに?」
村長は慌てて部屋の隅っこにクシャクシャに丸まった帯を拾い上げ尋ねる。
「ええ、大河内さんのお父さんのところに行ったのでしょう。もう心配はいりません。」
芙蓉は緩やかに口角を上げ、立ち上がった。
「それではこれで。」
芙蓉はペコリと頭を下げ、静かに客間をあとにした。
霞は部屋から暖かな羽織を1枚引っ掴み、大慌てで玄関を飛び出した。
霞が放った鳥は家の門に止まっていた。霞が門の取っ手を掴むと、再び鳥は天高く上がり、村をめがけて飛び始めた。
霞は鳥を追いかける。
真っ暗な空には銀色に輝く月と、月明かりで霞んでしまった星が薄くポツポツと散らばっている。
道の脇には林があり、林の闇の中で時折四つ足の影が駆けている。ワサワサと風が吹く度に枝が揺れる音がした。
林のエリアはすぐに終わり、視界はぐっと開けて茶畑が見え始める。昼間にお茶とお菓子をご馳走してくれたおじさんとおばさんの家は煌々と明かりが点いている。
鳥は真っすぐ真っすぐ道を下っていく。
霞はただ鳥だけを見つめ走った。
畑を抜ければ家が増えてくる。
晩御飯時なのか、あちこちの家から食欲をそそる匂いが漂ってくる。あの左手の水車のある家からはカレーの匂いがした。
鳥はその匂いに誘われるように一目散に飛んでいき、その家の角を曲がっていった。霞はヨダレを飲み込みながらその家の脇を通り抜けた。
鳥は再び真っすぐ突き進む。徐々に人の声も増えてきた。松明を手にあちらこちらへ行ったり来たり、彼らも大河内さんを探す村人なのだろう。村長は山狩をしていると言っていたが、村の中も虱潰しに探し回っているのだろう。
右に向かった緩やかなカーブを軽やかに飛び、村の中央の広場に差し掛かる。鳥は羽を休めることなくさらに進む。橋を渡って、肉の焼けるいい匂いを嗅ぎながらまた角を曲がった。
だんだんと家の数が減り始め、人の気配も食べ物の気配も薄れてきた。霞はここで一度足を止め、脇に転がる大きめの石に腰を下ろした。
こんなに厳しい寒さの中、霞はビッショリと汗をかき、羽織を脱いだ。大きく胸を上下させ、凍るような冷気を胸いっぱいに吸い込む。
鳥は今も道を示すようにその辺りを飛び回っている。右へ、左へ、大きく空に円を描く。そこで突然、鳥はスーっと高度を下げた。家の屋根よりも低いところでパタパタと羽ばたき、徐々に徐々に、こちらに向かう。
風が止む。月はいつの間にかすっぽりと雲の中に隠れ、家の窓から溢れる僅かな明かりのみが辺りを照らし出している。
サク、サク、と妙な音がした。
なんだろうと霞は耳をそばだてた。
鳥の羽ばたきの中に微かに聞こえるそれは、確かにここへ近づいてくる。
「大河内さん?」
霞は問いかける。誰も居ない。
真っ暗な闇の中で鳥が一羽だけ飛んでいる。
鳥は人が歩く速度で霞のもとまでやって来て、そのままスッと霞の脇を過ぎていく。
サク、サク、とすぐ目の前で音がしている。
「大河内さん!!!」
霞は大声を出した。
霞が放った鳥は大河内さんの居所を示すはず。であれば鳥の真下に彼がいるに違いないのだ。
しかし、待てど暮らせど彼は姿を現さない。
そうだ。見えないのだ。霞は霊が見えない。
「大河内さん!!!大河内さん!!!!」
必死に霞は大河内さんを呼ぶ。
なぜ見えないのか、そこにいるはずなのに、なぜ見えないのか。
それが示す意味を霞は否定したかった。
霞が見えないのは、大河内さんが霊になったからなのではないだろうか。
サク、サク、と音が聞こえる。だんたんと遠ざかる。
霞にはどうすることも出来なかった。
菊司や芙蓉から教わった術があれど、霊の姿を視認できなければ使えない。いや、必ずしも視認する必要はない。確かにそこに霊がいるのだと、姿形をはっきりイメージすることができれば、彼を捕らえることは出来る。
ただ霞にはそれが出来ないのだ。
生まれてこの方、霊なるものを見たことがない。
ただ一度きりしか見たことがない。
見たことがないものを正確にイメージすることは困難だ。見えないのだと思いきっている相手を祓うことなど出来ないのだ。
霞は呆然と立ち尽くす他無かった。
「どうしよう、おじいちゃん。」
霞は無意識にうなじに指を伸ばす。
汗がしっとり滲んだそこは、体温以上に熱を帯びている。
ふわりと、ほのかに風が吹いた。ホッとするような甘いたばこの匂いがする。
霞はハッと顔を上げた。道の向こうから突然人の気配を感じ取ったのだ。
「誰!?」霞は叫んだ。
すると突然、向こうから大きな影が現れた。
「ワン!ワンワンワン!!!」
犬だ。大きい犬が道の向こうから突然現れた。
「待て、待て!源五郎!!!」
その次に現れたのは一人の男性。リードを握りしめながらも、引きずられるようにやって来た。
源五郎と呼ばれた犬はひっきりなしに鳴き叫ぶ。
ガウガウバウバウ吠え喚き、霞は情けなく悲鳴を上げながら地面に転がった。
「源五郎!待て!待てったら!!!」
男性は源五郎の首輪を鷲掴みにし、霞の体にのしかかろうとするのを何とか制止した。
「そこにいるのは霞ちゃんかい?
コイツ、また霞ちゃんにばっか吠えて……!
ほら、抑えてる間に逃げな!」
「は、林さん……」
霞は全力で源五郎を抑え込む林さんに申し訳なさでいっぱいになりながらも、それ以上に犬への恐怖で完全に腰を抜かし立ち上がることが出来ない。
その間もずっと源五郎は吠えていた。
林さんの体の脇から頭を出して、霞の方を目がけてギャンギャン吠える。
霞は震えながら源五郎を見つめた。するとなぜか、源五郎と視線が合わない事に気がついた。
霞は首を傾げながら、恐る恐る四つん這いになって道の脇に動いた。
源五郎は霞を見なかった。さっきまで霞が転がっていた方角を見つめ、ずっとずっと吠えている。
「お前どうしたんだ!本当に!!」
「あの、林さん」
困り果てた様子の林さんに霞は告げた。
「源五郎を離してください。」
「は!?」
霞は立ち上がる。源五郎の視線の先を見つめ、そしてもう一度林さんに向き直った。
「源五郎は僕じゃない何かを見ている。そして僕は大河内のおじいちゃんを探してここに来た。僕が放った式はずっと何かを見つけたようにああして飛んでいる。」
霞が指さす鳥は、今現在も人の頭くらいの高さでパタパタとゆっくり飛んでいる。源五郎は鳥の足元をただただ見つめ、唸り吠える。
このただならぬ状況に、林さんは困惑した面持ちで霞に再び問いかける。
「本当なんだな?本当に源五郎は、大河内さんを見つけたんだな?」
「はい。」
霞は覚悟を決めて頷いた。
大河内さんが居ると思わしき場所に、人差し指と中指を揃えて向ける。
「やってください!」
霞は叫んだ。林さんは意を決して源五郎の首輪を掴むその手を離した。
「ガウ!!ガウガウ!!!」
源五郎が走り出す。霞は静かに目を閉じた。
霊はいつも、どこにでもいる。
いつも見ている世界から、布を1枚ペロリとめくればそこにいる。
霞は目を開けた。
そこにはゆっくりと羽ばたき続ける鳥と源五郎しかいない。
源五郎は何かに飛びかかった。
何かは源五郎にのしかかられ、その場で転倒した。
分かった。そこに確かに大河内さんは存在する。
そして確かに源五郎が彼を視認している。
霞は差し向けた指で空を切った。
源五郎の足元で何かが動いた。
飛び出したそれは頭上で羽ばたく鳥に向かう。鳥に入った。
鳥は霞の制御から離れ、パタパタと村の外に向かって飛んでいった。
その瞬間、源五郎の足の下に一つの大きな塊が現れた。人だ。間違いなくあれは一人の人間だ。
「大河内さん!!!」
「源五郎!座れ!」
霞と林さんは源五郎のもとに走る。
源五郎は命令に従いその場にちょこんと座った。
舌を出してハッハッと機嫌よく息を吐きながら尻尾を大きく激しく振る。
林さんは地べたに寝そべる大河内さんの体を叩く。
「大河内さん!大丈夫ですか!!」
大河内さんは静かにうめき声を上げ、その後噎せたように激しく咳をした。
「霞ちゃん、大人を呼んできてくれるかい?」
「分かった!」
霞はすぐそばにある家の戸を叩く。
戸を開けた住人は事情を聞くなり大慌てで一度は家の奥に引っ込み、毛布を抱えて家の外に飛び出した。
そのうち、騒ぎを聞きつけた近隣住民が次々と集まり、大河内さんの無事を喜んだ。
大河内さんは間もなく、大きなバンに乗せられて病院に運ばれていった。
林さんは、心配そうに大河内さんの搬送を見送ると、霞の元に歩み寄った。
「霞ちゃん、本当にありがとうな。
源五郎も、お前がいなけりゃ見つけられなかった。」
林さんはそう言って、源五郎の頭を優しく撫でた。
源五郎は、小さく「クン」と鳴いて林さんの手に頬を擦りつける。
霞は、にこりと笑って林さんと源五郎に深く頭を下げた。
「僕こそありがとうございました。
源五郎も、ありがとう。」
源五郎はハッハッと舌を出して霞を見つめる。
霞は恐る恐る源五郎の頭に手を伸ばす。源五郎はその手にそっと頭を擦り付けた。そして手をベロリと舐め上げれば霞は全身に鳥肌を立て、飛び上がるように源五郎から離れた。
ゲラゲラ大声で笑う林さんに霞は慌てて別れを告げ、来た道を戻り始めた。
道を下り、橋を渡って広場を抜ける。
住宅地を抜けると茶畑が見え始める。
真っ暗だ。
いつもなら、あのおじさんとおばさんの家から明かりが溢れているのだが、今あの家には明かりはない。
もしかすると、大河内さんが無事だったと聞きつけ、村の方に行ってしまったのかもしれない。
ほんの目印程度に点けられた僅かな街灯を頼りに、霞は家までの坂道を登る。
静かだ。鳥は寝静まり、寒さゆえに虫の声もしない。
徐々に、霞の体温は下がっていた。思い出したように羽織に袖を通す。
茶畑を過ぎ、林に差し掛かる。
明かりがない。
ほんのささやかな星あかりで道を進む。
霞はこんな時間に家の外に出たことは、今日まで一度もなかった。
心細かった。
林の中に何かがいる。何かが走ってどこかに行った。
ガサガサと遠ざかる音。
それすらも霞はビビって飛び上がった。
ドキドキと心拍数が上がる。
また静かになった。
風もなく、木や葉が揺れる音さえしない。
霞が地面を踏みしめる音がやたら大きく聞こえる。
家があまりにも遠く思えた。
あまりの心細さに、そろそろ泣いてもいいんじゃないかと思い始めた時、道の向こうに何かがいる気配を感じた。
「お母さん!!」
霞は確信していた。
こんな時間に外を出歩いたりしたら、普通であれば母は怒る。これが祖父と父に言いつけられた仕事なのだとすれば、母は二人を叱り霞を温かく抱きしめてくれるはずだ。
霞は母の元へ一生懸命走る。
しかし、霞は足を止めた。
母ではなかった。
母ではない何者かがぬらりと立っている。
女だ。黒い髪の女だ。サラサラと絹糸のような髪が風もないのに生き物のように揺れ動いている。
この寒空には合わない薄い着物姿で、柄はなく、まっさらな白色は雪の白や肌の白とは異なり、鈍く艶々と光を帯びているようだ。
女がこちらに向かってくる。ゆっくり、ゆっくり、歩いてくる。
着物の丈が合っておらず、ズルズルと裾を引きずっており、女が歩を進める度にチラチラと白い素足が見えた。
髪が揺れる。静電気でも浴びたように一本一本逆立てながら、ゆらりゆらりと髪を揺らす。
髪の隙間から目が見えた。
イカズチのように鋭く鮮烈な赤い瞳だ。赤く、赤く、眩い赤が霞を突き刺す。
霞はここではじめて気が付いた。
あれは人間ではない。霊だ、霊なのだ。
一年前に見たあの女だろうか。いや違う。アレはもっと綺麗だった。
霞はグッと奥歯を噛み締め、懐から紙を出し構える。
ついさっき、大河内さんに取り憑いた何かを祓ったし、一年前も出来た。なら今度も出来るはずだと、霞は強く自分に言い聞かせた。
霞は走った。その瞬間、ぐいっと腕を引かれた。霞はパッと振り返る。菊司だ、菊司が霞の腕を掴み立っている。
「…………。」
無言。痛みを覚えるほどの静寂が続く。
菊司は真っすぐ女を見つめる。表情にいつもの柔らかさはなく、ただただ無感情に女を見つめていると、女は菊司を睨み返し、凍てつくように冷ややかな赤い瞳をバチバチと光らせる。
静寂は続き、女はゆっくりと視線を霞に向けた。赤い光が明滅するたび、霞は背筋にゾワリとした何かが走る感覚を覚えた。耳が鳴り、口の中が酷く乾いてしまった。
極度の緊張状態の中、霞は黙って菊司を見上げた。菊司は霞を見ず、ただただ女に無感情で視線を送り続けている。
そのうち、女はフラリと向きを変えた。アッサリと、何事もなかったかのように、スタスタと林の奥に引っ込んでいく。女の影は消え、草木を踏む音もジワジワと薄れ消えた。
「お、おじいちゃん……アレは何!?」
霞は全身にびっしょり汗をかきながら菊司に尋ねる。
「霞、家まで走りなさい。さあ早く!」
菊司は霞の背を押した。その瞬間、ビリビリと菊司が紙切れのように縦に裂けた。
「ふへあ!??」
菊司の姿はもう無い。菊司だったものは霞の足元でただの小さな紙切れとなり二度と動く様子はなかった。
霞はすぐに走り出した。明るい。歩くべき道がはっきりと見えた。いつの間にか空高くにある月が、再び煌々と辺りを照らし出していた。
間もなく家が見えた。家の門がひとりでに開く。霞が通り抜ければすぐにガチャンと閉じられカンヌキがかけられる。庭に敷き詰められた石につまずきそうになりながら突っ走り、家の戸に手を伸ばす。戸も同じようにして勝手に開いた。玄関に飛び込むと、すぐに戸はピシャンと閉じられた。そして、玄関に立っていた芙蓉に勢いよく抱きとめられた。
「霞、無事か!?」
「お父さん……?」
芙蓉は力強く霞の体を抱いていた。霞は少しずつ現実を取り戻したかのようにワナワナと体を震わせた。足から力が抜け落ち、ぷらんと芙蓉の腕にぶら下がった。
「お父さんも見た?あの女の人。」
霞はガチガチと歯を鳴らし、声を震わせた。
「ああ、ずっと見ていた。お前が無事でよかった。」
「霞!帰ったの!?」
奥からドタバタと音がする。母がすぐに廊下の奥から玄関に飛び込んできた。
「どうしたの?顔が真っ青よ。
芙蓉さん、霞になにかあったのね?」
母は膝を折り、霞の頬を両手で包み込む。
体が酷く冷たく、顔も唇も青かった。
「いいや、霞は無事だ。生きているのが何よりの証拠だ。」
温かく、柔らかな声が聞こえる。静かに軽い足取りで菊司が玄関にやって来た。
口にたばこをくわえ、母の隣に立つ。
「薊、芙蓉さん、霞をこちらへ。」
芙蓉はすぐに霞を手放し、母はしばらくぎゅっと霞の肩を抱き、菊司に引き渡した。
「おじいちゃん、アレはなんだったの?
おじいちゃんが祓ったの?」
「あれはこの世のモノではない。
魔から生まれしケダモノ。我々はそれを妖怪と呼ぶ。
奴を祓うことは難しい。少なくとも式を通し、お前を守りながらでは不可能だ。」
芙蓉は膝を折り、霞の瞳を覗き込む。
「案ずることはない。お前が奴らに心を許さぬ限り、お前の身が侵されることはない。
お前の瞳は奴と対峙したにも関わらず曇り一つない。わしらが喉から手が出るほどに、それはそれは綺麗な眼だ。」
「それは、どういう意味?」
「わしや芙蓉さんには無いものをお前は持っている。」
菊司は笑った。雪原に差し込む陽光のような温かな眼差しで霞を柔らかく包み込む。大きな手で霞の頭をわしわしと撫でた。
「今日はご苦労だった。はやくお休み。」
菊司は立ち上がり、廊下の奥に消えていった。
「妖怪がどうしてこの村に?」
母は怯えた眼差しを芙蓉に向ける。
「外部から何者かが村に侵入した。
妖怪も奴らが招き入れたのだろう。」
芙蓉は一度母の肩を叩き、霞の背の高さまで体を小さく丸めて向き合った。
「今日はよくやった。あとの事は父さんに任せなさい。いいね。」
霞は芙蓉の瞳を見つめ、小さく頷いた。
そして、芙蓉は菊司のあとを追うように廊下の向こうへ去った。
霞は、ぼんやりと廊下を見つめながら考えた。あの女はいったい何だったのか……と。妖怪とは何なのか。
もしあの時、菊司が霞を止めなければどうなっていたのだろうか。考えたところで答えは出なかった。
ただ漠然と、霞の中で不安というモヤが大きく広がるだけだった。
別シリーズにて続いています。
「人外の式神は、人間の陰陽師に叶わぬ恋をする」
この中の「慟哭の彼方」が、霞の幼少期の続きの話です。
よろしくお願いします。