ツァーリアの黒梟
全知全能の大神オルノスが全知であるのは、知の女神ツァーリアが常に其の傍に侍っているからである。
ツァーリアには星と同数の純白の梟が仕えていて、女神の目となり耳となり世の中を飛び廻り、絶えず新たな知識を届けていた。
その一羽の白梟が木陰で休んでいる。
その日は、昼間とても暑い日で、夕暮れの少し前の時間に一息入れることにしたのだ。
「いやー、不味いものを見てしまった。」
そろそろ女神ツァーリア様の元へ戻ろうと思っていると、木の下から声が聞こえてきた。
どうやら男が木の下に座り、なにやら呟いている。
「まさか靴屋の女房が太陽神と・・・。」
聞き耳を立てたが、うまく聞こえない。ただ興味を惹かれる話であることは間違いない。
神々は人間と交わることを固く禁じられている。
「大神オルノス様に御知らせすべきか、でも太陽神に恨まれても困るし、どうしたら良いか、さっぱり分からぬ。」
男は頭を抱えて動かなくなった。
「何か、お困りですか?」
突然、頭上からした声に、男は『ひぃ!』と飛退いた。
「怖がらなくてもよいぞ、吾は美しき博識の女神ツァーリア様の眷属である。お前が見聞きしたものを教えよ。太陽神に恐れることは無い。ツァーリア様の庇護の下、暮らせるように取り成してやるから安心いたせ。」
男が座った木の一番低い枝に、突如現れた白梟が優しく言いました。
「この地上で暮らす身では、太陽神から逃れることは出来ません。姿が見えなくなれば良いかもしれないが、その様なことは有り得ないし・・・。」
男は両手を白梟へ伸ばし、見上げながら訴えた。
「大丈夫ですよ。太陽神はツァーリア様の弟神で、ツァーリア様には絶対に逆らいません。」
「いいや、貴方達は、翼もあり、姿も消せ、直接ツァーリア様ともお話が出来る。太陽神に掴まる恐れを理解できないのさ。私に貴方の能力の一つでもあれば話は別ですが。」
その様なやり取りを二度、三度繰り返すが、男はなかなか喋ってくれない。
「お前は、何が言いたいのだ?」
とうとう白梟は声を荒げてしまった。
「せめて太陽神の目に留まらぬ様に、私に何か頂けないでしょうか。」
そう答えると、男は白梟の首に掛かっている銀のネックレスを見つめた。
「よし分かった。では、太陽神が大神オルノス様に裁かれ、お前に手を出させぬ様に取計らって頂くまで、このモンドの首飾りを貸してやろう。」
首から器用に首飾りを外すと、嘴で銜え、男の頭の上に音も無く停まった。
「では、話を聞こう。お前が話し終わると、この首飾りはお前の姿を消し去る。誰もお前を捕まえることが出来なくなる。これで良いな。」
コク、コクと男は二度頷き、喋りだした。
『海と大地が交わる園に、靴屋の若い未亡人が一人、転寝をしていたところ、一頭の獅子がやってきて、添い寝を始めた。しばらくすると奥方は寝乱れ、呼吸が荒くなった。獅子はいつの間にか、若い美しい青年に姿を変え、目を閉じたままの奥方と交わっておった。其の腕には、太陽神がしている黄金の獅子頭のブレスレットがされていました。私は恐ろしくなり、息を殺し、後退りしてここまで逃げてきました。』
「ほーう、それは大変なものを観てしまわれたな・・・でも吾が悪いようにはせん、しばらくは其の首飾りで姿を隠しておれ」
白梟の嘴よりするりと滑り落ちた首飾りは、男の首に掛かっていた。
一瞬、後頭部に重みを感じ、その重みがふっと消えた。
小さいと思われた首飾りは、不思議とぴったり男の首に収まっている。
燻し銀の、短い円柱を軽く潰した形状の物に、ジェルマ文字が刻まれた26のピースを繋ぎ合わせたシンプルな物だ。
「お主、名は何と申す。」
「蕎麦引きのゲアンと申します。」
「うむ、ゲアンや、『ミナーク』そう呟けばその首飾りをした者の姿と気配は完全に消える。三日後の晩、又この木の下へ戻ってこい、大神オルノス様よりの褒美と自由を持ってまいる。」
「ありがとう御座います。」
「では三日後にこの木の下で会おうぞ。」
「三日後に。」
そういうと白梟は元の木の枝に止まった。
「ミナーク」
ゲアンが唱えると、体が霞のように霧散して静寂だけがその場に残った。
大神オルノスの住む虚空の白亜宮『オルタニス』に白梟が戻ると、すぐさま大神オルノスの傍らの知の女神ツァーリアの許へ向かった。
そして、蕎麦引きのゲアンに聞いた事を、自分が見たかの様に話し始めた。
女神ツァーリアは白梟の話を聞き終わると、目を伏せ首を二度ほど振って直ちに弟神を『オルタニス』へ呼付けた。
「吾が弟神にして太陽神アキゼムよ、吾が眷属がお前と人間の女が交わったと証言している。申し開きがあればしてみよ。」
女神ツァーリアの冷たい眼差しが太陽神を捉えている。
神々と人間の交わりを禁ずる前までは、神々と人間の間に仔が出来ることが在った。
しかし、その混血児は親神の巨大な能力と、人間の弱心とでバランスを保つことが出来ず、度々大事件を引き起こしていた。
その為、大神オルノスは、知の女神ツァーリア・太陽神アキゼム・大地神グリウス・海神プリマル・暗黒神ゼクターン・月の女神ハールル・竜神グレンの七主神と、愛・戦・火・風・水・雷・土の七元神と、人間の王エルノス=フォーンを虚空の白亜宮『オルタニス』に招き、七日間の話し合いの下、神々と人間の交わりを禁じた。
これがかの有名な不文律=グスワークの語源、『ゲイン・ソムエル・ワーキ・シーム』(神人分交七夜会談)である。
「聡明なる知の女神、姉神ツァーリアよ。私が人間と仔を生し、悲劇が起きたのをお忘れか?二度と人と交わることを拒む為、この身を絶えず燃やし続けている私が、何故疑われているのか?返答次第では、姉神といえども覚悟めされよ。」
太陽神アキゼムは、深い失望と言い知れぬ憤怒の感情を姉神に向けた。
これには女神ツァーリアも目を開き、視線を同席した白梟へ向け発言を促した。
太陽神アキゼムの迫力と、自身の後ろめたさに耐えきれず、白梟は早々に白状した。
「実は・・・、蕎麦引きのゲアンという人間の男に聞いたことでして、実際に私が見たことでは無いのです。」
「何という事を・・・。あれほど、自分で見聞きした事だけを正確に伝えよと、お前達に常に申しつけていたではないか!」
女神の吊り上った眼が白梟を貫いた。
「太陽神アキゼムよ、吾が弟神アキゼムよ、申し訳ない。愚かな姉神を許しておくれ。詫びとしてこれを貰っておくれ。」
そう言うと、おもむろに知の女神ツァーリアは、自らの右目をえぐり差し出した。
「真実を見抜く瞳も、驕り慢心した者には、使いこなせなくなる物であった。お前の炎で灰燼とかせ、さすれば吾も、戒めとし、この身に刻まれよう。」
右目より滴り落ちる鮮血は、床に落ちる寸前に、ジェルマ文字の形をした真紅の宝石となり、まるで床が高貴な楽器の様に快音を奏でた。
ジェルマ文字は、哀しみと後悔、失望と憤怒を謳う詩を形成していた。
「姉神ツァーリアよ、もう十分である。疑いが晴れたのだ、それでよい。過去を考えれば、過ちを犯したことのある身、疑われもしよう。」
太陽神アキゼムは姉神ツァーリアの右手を取り、その手に握られた目玉をそっと右目に近づけ、優しくふっと息吹をかけた。
すると、目玉は元の場所に戻り、鮮血は透きとおった涙へと変わった。
しかし太陽神アキゼムの怒りが消えたわけではない。
「姉神ツァーリアを傷つけた報いは請けてもらうぞ。」
太陽神アキゼムがそう吐き捨てると、白梟を燃え盛る腕で鷲掴み、モンドの首飾りを虚空より取り出しその首に巻きつけた。小さな声で呪を唱えると、虚空の白亜宮『オルタニス』の外へ投げ放した。
目覚めた白梟は、太陽神アギゼムの炎に身を焼かれ、体全身が卸し金で擂られたようにヒリヒリと痛む。
命があっただけましかと、思いつつ、自らの巣へ戻った。
巣の前では一族が出迎えている。なんとも情けない姿を晒してしまう事か、仕方が無い、慾をかいた己が馬鹿であった。
しかし、一族は目の前まで来ている自分が見えていないように振舞っている。
「あいつも馬鹿な事をしたもんだ、一族の恥じゃ。」
「我等にもお咎めは有るのかねぇ。」
「分からぬ、我等の主神ツァーリア様を騙し、汚し、太陽神様を辱め、人間にモンドの首飾りを騙し取られたとあっては、奴一羽の命では到底償いきれぬだろう。」
「どうなるのやら・・・。」
「太陽神様からの伝令で、一族総出で出迎えろとあるが、いつまで待てばよいのやら。」
白梟はそこで気が付いたのだ、自らは太陽神に付けられたモンドの首飾りで、姿、気配が消え去っているようだ。
暫くすると日が暮れだした。すると幼馴染の者と目が合うようになった。
そいつは嘴をパクパクさせて、羽をこちらに突き出しながら、卒倒した。
「何じゃ、どうした。」
「いきなり倒れてしまった。…こいつ死んでいるぞ!」
一族はざわめきだした。一羽、又一羽と倒れ、死んで逝く。
「くそ、あいつの所為だ、トー…、何だっけ、あいつの名前。」
「ト・・・だろ!あれ、何だっけ?」
自分と目が合った者が次々と死んで逝く。恐ろしくなり、物陰に身を潜めた。
又、自分の名前が忘れられてゆく事態を頭の中で反芻すると、ある答えが導かれた。
ゾッとする。
自分の存在が完全に抹消され始めている。
カタン、焼け焦げた翼が何かに当たり音を発した。
一族の目が音のした場所に集まる。
バタバタバタ、と倒れ、死んで逝く。
薄暗闇に何かが居る。
絶対的な恐怖。
一族は数羽を残し息絶えてしまった。
自分の記憶を無くし、自分を見ていない者のみが生存している。
この死を撒き散らす恐怖の存在が、自分自身だと気付くのに一体何羽の白梟が犠牲になったのだろう。 呆然と立ちすくんだ梟は、すっかり闇が支配する空を見上げた。
「この償いは、あいつにも負ってもらはねば、一族の魂も浮かばれぬ。」
そう呟くと、痛む羽を伸ばし、暗闇へ飛び立った。
蕎麦引きのゲアンは、モンドの首飾りで思いつく限りの自分の欲望を満たしていた。
肉屋に忍び込み、上質のハムを頂き、酒屋では樽に寝かせてある五十年物の酒を煽り、靴屋の未亡人の湯浴みを覗き、長老会に無断出席し、王宮の寝所で昼寝をした。
暫くし、起き上がり、王族御用達の葉巻に火をつけながら、さてお次は何をしようかな、と思案をしていると、ゲアンは背後に気配を感じた。
「振り向けば、お前は死ぬぞ。」
首筋に鋭い何かが当たっているのを感じている。
「よくも騙してくれたな…。おかげで一族は皆殺しの憂き目にあい、吾は呪われた存在となった。」
あの白梟の声だ。
「待ってくれ、本当に見たんだよ。獅子の腕輪の男が靴屋の未亡人と…。」
「黙れ、お前が靴屋の未亡人に恋焦がれているのは判っておる。しかし相手にされず憂さ晴らしをかねた嘘である事は、既に知の女神ツァーリア様に知られておるわ!」
白梟の語気に力が入ったと思ったら、ゲアンの両目に、焼けるような痛みが走った。
涙があふれる前に、黒い羽が見えた気がした。
「昨夜、お前の息子は高熱にうなされ亡くなった。馬鹿な親父の嘘の代償に、その心臓を太陽神に焼かれてな!又、愛想を尽かして出て行った嫁は、心不全で急死したぞ。お前のような奴には勿体無いほどの器量良しだったが、致し方あるまい。」
ゲアンは梟の言うことが、よく呑み込めていなかった。
「まだだ、お前の両親と兄弟は、朝日が昇ると家ごと焼失した。他の親族も陽が昇る毎に焼け死ぬだろう。」
人影の無い煌びやかな寝所に、静寂が一瞬戻り、弾けた。
「嘘だ。ただの嘘なんだよ。嘘には嘘のお返しというわけですか?あんたも嘘をついてるじゃないか、この首飾りをしていれば、誰にも見つからないって言ったのに、なんであんたは俺を見つけられるんだよ・・・。おい!嘘だといってくれ!俺はただ嘘を言っただけじゃないか!毎日、毎日、粉まみれになって一生懸命働いて、もらえる給金が僅かだからって、嫁にも馬鹿にされ、挙句、一人息子を連れて出て行かれた男が、気晴らしに吐いた嘘じゃないか!ああ、靴屋の未亡人に現を抜かしたさ!嫁に相手にされなくなったとき、初恋の相手が未亡人と知ったら、誰でも気にするだろう?大体お前も気付けよ、ツァーリヤ様の白梟が、人間の嘘も見破れず、どーすんだ!職務怠慢じゃないか!何で俺だけ、嘘だろ・・・。」
ガクリと膝を突き、うな垂れ、開かない両目からぼろぼろと涙が溢れていた。
「お前だけではない、責は吾も受けている。これから我々は辛く苦しい長い時間が待っている。モンドの首飾りは、三日以上姿を消していると、体が霧と化し、二度と戻れなくなる。そうなってしまっては、物を掴む事も、喋る事も出来ず、ただ寿命を待つ思念体として浮遊するのみ、食べたり飲んだり出来ず、一生空腹と渇きが続く。眠ることも出来ない。眼も潰したので、見ることも儘ならず、物の気配に脅え、移動は風任せ。下手をすれば、かび臭い忘れ去られた部屋に、自分の時間が終わるのを待つ事だってありえる。今日中に首輪を外せなければ、お前はそうなる。でも吾は絶対に、お前に解除の呪文は教えない。」
ゲアンは初めて恐ろしくなった。
そして気付いた。自分は、してはならないことをした事に。
「分かった、悪かった、許してくれ。お前の言うとおり何でもする。だから教えてくれ、首輪を外してくれ。」
手探りで声の主を探す。
「駄目だ!一生恐怖と、絶望を味わえ。お前が苦しんでいると思えば、今しばらくは、死神と化した吾を慰めれよう。」
立ち去ろうとした気配が、一瞬止まった。
「吾はお前には嘘を申しておらん。お前は見えておらぬよ。ただ其の方の行動は読める。この様な場所の中空より吐き出される煙は、浅ましいその方しか居まい。」
そう吐き捨てると羽音も無く気配が消えた。
ゲアンは一人取り残された。
暫くすると、巷でこんな噂話が広まった。
「黒梟を見てはならぬ。見たものは数日中に命を落とす。」
「死神が梟の形を成し、徘徊している。」
「どうやらツァーリア様を裏切った梟が、暗黒を纏い、死を撒き散らしているようだ。」
「黒梟の名を言うだけで、死者の帳簿に名が書かれる。」
黒梟は何処にいるのか?度々未開の地や、遺跡に踏み入った者達が不可解な死に遭ってはいないか?彼は人が来ない忘れ去られた場所にこそ安住の地を求め彷徨っている。