春
アイゼン『春』
1800年代のベルギーに桜はあるんだろうか。僕は日本人だ。大半の日本人は春イコール桜を思いつく。
桜だっていろいろだ。満開だったりツボミだったり、花びらがヒラヒラと散り始めてたり。しだれてるかもしれない、元気いっぱいかもしれない。時間帯は昼間? 夜? もしかしたら、桜の木の下で酔っ払ったおじさんが、頭にネクタイを巻いて笑いに囲まれてるなんて想像は、日本人ならすぐに思いつく。
歌だってそうだ。冬の寒さを耐え忍んだ僕らに、ご褒美のように暖かな日差しに包まれていくその切り替わり、そこに桜が存在している。春の玄関、歌手たちはそれに感銘を受けてたくさんの歌を残し、中には名曲と呼ばれるものもある。
シュヴァイン・カルツのピアノの音ーー。
ピアノの練習をしたことのない人は感動するだろう、ある程度の経験がある人なら驚くだろう。僕は、体のどこかを動かすのもためらうほど、彼が繰り出す音を全身で受け止めたいと思った。
シュバイン・カルツの演奏はだれでもできるよ
だれでも?
そう、だれでも。基礎だけを徹底的に、何年も続ければいいんだ
それだけ?
そう、それだけ。例えばさ、ゲームで訪れた最初の街で、スライムだけ倒して自分のレベルをMAXにする感じ
それって、異世界の話しをしてる?
途方もない時間をかけて、築き上げてきたその基礎は、彼のもの。だれも寄せ付けない、だれもマネをすることが出来ない、全ては彼だけのもの。
演奏順の最初のころに、カルツと同じような演奏をしていた奏者を思い出した。同じドイツ代表の、名前は確かゲイツ・シュナイダー。
カルツを小さくしたら彼になると思う。逆に、彼の数年後はカルツに限りなく近くなっているだろう。もしかしたらカルツを超える逸材かもしれない。
師弟、そう言われたら納得する。
ああ、僕はわたしは、彼のようなピアニストになりたい、彼のような演奏をしたい。
でもそれは、スプーンで琵琶湖の水を全部抜くような苦行、足で蹴飛ばして富士山を平らにするような無謀、手で押してハワイを千葉県の隣りに持ってくるような絶望。
感動は心を動かして目から涙を流す。
僕は初めて人を尊敬した。見えないところにある努力に、未だに信じられない彼の演奏を、だれかに伝えたい、今すぐ伝えたい、もし気づいていない人がいるなら彼だって、指差して伝えたい。
涙が止まらない。
彼はわざわざおれ凄いんだぜなんて口に出さなくて、ただ聴いてくれればいいって、そう言っている。音に乗る感情、それが正しいなら、僕はドイツで学びたいとすら思う。
人間がない頭振り絞って考え出すつまらない小細工は、彼の前では通用しない。半べそかいて走って逃るしかない。
制御出来ないほどに冴えていく聴覚、視覚、嗅覚、触覚、味覚も多分そう。
涙はいつまで流れるんだろう。口をへの字にしたらまた溢れた。鼻水は恥ずかしいから音鳴らさないように、ティッシュないからハンカチで拭いた。
なあ、これ超えれるのか?
ヴァルハラ? 神の領域? これこそが人間が成せる神技だぞ!
客席で控えてるガブリエウはこれより上手いらしいぞ!
それにもう1人いるらしいぞ!
18になったばっかの僕がそんなので勝ったら、彼に対してそれはただの失礼だよ。挫折? 彼が作り上げた牙城は、浜辺で作った砂の城じゃないんだ。高すぎる壁は登る気すら起きないんだ。
とりあえずジャンプして、意味もなく爪立てて、なんとなくロープ投げてみて、使ったことないピッケル使って、あとどうすればいい? 2メートルくらい登れたら落ちてもケガするだけ。もし、仮に10メートルとか登れたら、落ちたらどうなるってそんなの……。
なんかのキャッチフレーズであった、どう足掻いても絶望ってやつだ。
僕の汗はこんなにも冷たかったかな?
僕の歯はこんな音立てたかな?
僕の爪はこんなに白かったかな?
指ってどうやって動かすんだっけ。
腕って関節いくつあるんだっけ。
首って1回転するんだっけ。
脳の思考は、止まらないね
呼吸は、勝手に止まらないよね?
心臓と肺は、なにもしなくても勝手に動くはずだよね?
いいんだよね?
頭の中で警報のサイレンが鳴り始めたーー。




