愛内麻美
金曜日の放課後、久しぶりに協会の支部長に会うことになった。
日本ピアノ協会茨城支部
支部長 白河貴正
両親のいないおれに勝手に親代わりになって、小5の頃からいろいろと世話を焼いてくれる。おれから頼まれたって言ってるけど、そこまで頼んだ記憶はない。
「葉山に会いたいって人がいる」
「だれですか?」
「内緒だ」
めんどくさ! スマホ越しで白髪オヤジの声のトーンが上擦ってる、なんかめんどくさ!
学校帰り、歩いて帰れる距離、最近出来たデパートの向かいにその事務所はある。
「こんにちは」
事務所に顔を出す。なぜだか前来た時と空気が違う。事務員さんも妙にウキウキした感じだ。白河さんはすぐにおれを見つけて、満面の笑みでこっちに走ってきた。
「いやあ葉山、待ってたぞ、さあ応接室へ」
「あの……」
「いいからいいから」
やっぱめんどくさ! そう思いながらも開けられる応接室の扉の向こう、そこに彼女はいた。
歌姫、愛内麻美ーー。
息を飲むって、本当に飲んだ。ゴクッて喉鳴ったけどどうでもよくて、顔小さくてドールみたいでただただ可愛い。
「マジっすか! 大ファンっていうか大好きです!」
天使。自然と声も大きくなっている。大きな瞳、薄い唇、流れる髪、発せられる後光、その可愛いさに圧倒され涙さえ溢れてくる程。え、写真とかサインとか貰って家宝にしたい!
「紹介しますね、こちらが先程話してた……」
「葉山一志です!」
白髪オヤジは少し黙っててほしい。ヤバイヤバイ、月曜日に朝一で竹内にスゲー自慢したい。
促され愛内麻美の正面のソファーに座る。釣られて彼女の身体のいろいろ角度がこっちに向く。動いてる、所作とかもうなんか全部がいい。
歌姫の微笑みは、カンタンにおれを貫く。
なんか匂いとか深呼吸して全部吸いたい、変態だって罵られようが構わない、今この目で見ている愛内麻美の記憶を未来永劫、子孫末代、いやそんなん無理だけど残したい。
「はじめまして、葉山一志くんだね。僕は愛内麻美のマネージャーです」」
「あ、はじめまして」
マネージャーっていうなんかカッコいい響きの細メガネの男性が、名刺をおれに差し出した。
「彼女、愛内麻美さんが君に会いたがっていてね」
「愛内麻美が、おれに」
「愛内麻美さんね」
「あ、すいません」
愛内麻美さんが君に会いたがっていてね? 愛内麻美さんが君に会いたがっていてね? 愛内麻美さんが君に会いたがっていてね? 恋か、まさかこれが恋の始まりなのか?
それ以前にやっちまった、おれは歌姫を呼び捨てにしてしまった。名前なんだから考えなくてもそうで、メディアの中じゃなくて目の前にいる訳で、でも愛内麻美さんは気にする気配もなく天使のよう。
「とりあえず説明するね」
「はい!」
・1ヵ月後、テレビで生放送の番組がある。
・愛内麻美さんはそこで新曲を披露する。
・おれにはピアノの伴奏をお願いしたい。
・世界大会に出場する高校生のピアニストなら話題になる。
・演奏自体はそんなに難しくない。
・当然ギャラも払う。
とまあ、細メガネは丁寧につらつらと、1つずつ説明してくれた。
「……はあ」
「葉山くんは彼女のファンなんだよね、うちの愛内麻美さんと演奏できる機会なんてもう2度とないよ」
笑顔の歌姫に視線を送る。そういえば歌姫、一言もしゃべってなくね?
「クラシックっていう比較的マイナーなジャンルも、まあそれはそれでいいけどね、テレビ出れたら女の子にもモテるよ」
「まあ」
感情が爆発したからかなんなのか、なんか急に冷静になった。今なら崖から崖へ、長い棒持って綱渡りしたとしても冷静でいられると思う。
「わざわざ茨城まで来たんだし、どうかな?」
どうかな、そう答えを聞かれて冷静に? 冷めた? 感情で愛内麻美さんを視界に入れた。
「お断りします。白河さん、帰っていいですか?」
「ああ、悪かったね気をつけて」
「え、あ、ちょ……」
「じゃあそういうことなので」
応接室から出る際に、失礼しますって言いながら最後にもう1回だけ愛内麻美を見る。
笑みが消えたその顔にお辞儀してそのまま部屋を出た。




