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レファソ

 一日一日と近づいてくる本番、少しづつ高まってくる緊張。金賞での1位予想とか周囲からの期待とかはけっこうどうでもよくて、ただ曲を完成させるためだけに毎日を過ごしてる。

 高校生だから自由も効くし、リコルルと契約してるから今のこの生活も成り立ってる。特権だよな、恵まれてるってつくづく思う。


 気分転換に1階のピアノホールで練習。


 アベル・ガトー『英雄の帰還』、基礎をメインにさすがにこれだけ練習すればそれがどんなに難しい曲でも弾けるようにはなる。

 全ての音符には意味があって、1つ1つがつながって曲になる、はず、だと思う。


 第3楽章第3段落、そこに存在するレファソ。なんだこれ?


 英雄が戦いに負けて妻と再会するシーン。レファラならまだ分かる、レファソ? これになんの意味がある? 一体なにを表現したくてアベル・ガトーはレファソを入れた?

 アベル・ガトーがミスったか、後世に伝えられる間に印刷ミスとか間違えられたとか? いやそんなはずないだろ、ないんだろうけどこれのせいで、たったこれだけのせいで曲が完成しない。


 ふと気づくとソフィアとエマさんがいた。


「どうしたの?」

「カズシのピアノ聴きに来た」


 今日はここにだれがいるんだっけ、曲のことばっかり考えてたからあんまり話し聞いてないんだよな。


「ワタシ、歌、上手。アサミより」

「うん、そうだね」

「でも、カズシのピアノで歌ったアサミ、すごく上手だった」


 それはニューヨークでのCM撮影の時のことかな。ニコッて微笑むとソフィアに話した。


「麻美は子どもの頃から僕のピアノで歌うことだけを目標にして練習してきた。だからそういう歌い方でね、麻美の歌は僕のピアノで初めて完成するんだ」


 目を丸くしてるソフィア。


「単純に歌だけなら、麻美よりソフィアの方が上手だと思うよ」

「ワタシとカズシのピアノ、合わない?」

「美味しいラーメンと美味しいクレープを同時に食べても合わないとは思うけど」

「Oh! ラーメン! 栃木県でサノラーメン食べた! おいしかった!」

「……よかったね」


 話しは通じてるのか、まあいいけど。


「葉山一志さん」今度はエマさん。「明日、無事にチケット取れましたので伝えておきます」

「チケット?」

「やはり聞いてませんでしたね、話した時に水墨画のカエルみたいな表情をしてたのでそう思いました」


 ……カエル? あ、葉っぱ持ってるあれか。


「シャンゼリゼ劇場で行われるペネロペー・アレサンドロのピアノコンサート。会場の下見を兼ねて、スペインの皇女のお手並み拝見といったところです」


 もはや初耳。


「本番前に演奏する機会を持ちたかったのですが、ご用意できなくて申し訳ございません」

「全然ヘイキですよ」




◇◇◇




 曲の構成の1ヶ所、たった1ヶ所、それだけだ。鍵盤通りに弾けばなんてことはないしそういう楽譜なんだから問題もない。

 僕は学者じゃないんだし、そういうアベル・ガトーの研究とかはそういう専門の人がやればいい。僕はピアニスト、楽譜通りに弾けばいい。


 それでいいのか?


 だってさ、楽譜通りに弾いたってなんか違うんだよ。なにがってそれが分からないしどうしていいかさっぱり。音の強弱? 叩き方? 余韻? 前後の繋ぎ? いろいろ試した、試した結果がこれだ。


「一志、おかわりいる?」


 だって他にやりようがなくない? アベル・ガトーはポルトガルの元軍人、軍人にしか経験したことのない人間にしか分からないのか? 17歳の僕には到底理解できないんだとしたらどうしようもなくない?

 考え過ぎか? きっとそうだ。7分44秒のたった1ヶ所、そこにこれだけの時間を使うなら違うことにもっと、こうさ、いや、でもさ。


「一志、聞こえてる?」


 経験上、悩んで悩んでどうしようもなくなって、でもある時ポーンと出来ちゃう時ってあるぢゃん。今はそうなんだよ。いやいや、楽観すぎだろ。

 他にやってないことがきっとあるはずだ、何か抜けてることが絶対にあるはず、絶対に、きっと。


「一志?」

「ごちそうさま。練習に戻るね」




◇◇◇




 ゴボッ。


 ピアノに座ると同時に始まった咳、口を塞いだ手はまだ赤くない。汚すならせめて掃除しやすい床で。


 ムゴッ。


 何かが違う。鳥肌が全身に立つ、頭皮から汗が吹き出す。床に這いつくばって次のそれに構える。

 リーナ、呼びたいけどその余裕はない。気づいてくれたら嬉しいけど、あんまりこんな姿を見せたくない。


 来る!


 ゴッ、ウオッ、ボシュー、ボシュー……。


 喉に引っかかってる何か、それがじゃまして呼吸が苦しい、キツイ、これどうしたらいい、呼吸しないと呼吸しないと!

 床に溜まった血の溜まりの中で、手と足を動かしたって。


 ボトッ!


 口から吐き出されたそれは、3センチくらいの赤黒いゼリー状の、ピンポン玉みたいな球。


「……なん、だ、これ」


 フランスに滞在している間で、発作はこれが最後だった。ただ、それがあまりいいものじゃないってことは僕にも分かった。

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