最後の演奏
曲を始める。
変ホ長調のそれはリズム感がよく、ホールを一瞬にしてダンス会場に変えた。
横目で見るダンサーは軽快に、プロが思いつくかぎり遊んでる。靴がフロアを叩く無数の音、その音に規則性はない。
自由に。映像にしたら何秒か分からないけど、本当に自由に楽しく、でもさすがプロなんだろうダンスは、見てる余裕なんて一切ないけど最高級の物だろうって予測は付く。
加わるソフィアの歌声ーー。
麻美が音楽祭で歌ったとき、天使が空から大声で叫んでる、そう思った。その比じゃない。圧倒的な存在感に度肝を抜かれそう。
……なんだ、コレ?
正気を保ってないと気持ちが持ってかれて手が止まる。未来の世界の歌姫? 未来? 今じゃなくて?
華奢で可憐なソフィア、そのお腹から喉を通って発せられる7.5オクターブの声は、神が与えたグングニルの槍。
世界には、天才がゴロゴロいるらしい。
けれどソフィアはその才能に溺れず、毎日の努力によりそれをさらに磨いた。天才はいくらでもいるだろう、けれどそれを磨くかどうかでその後が決まる。
フランスの至宝、大天使ガブリエウは一切磨かない。天才、それだけで世界一。
麻美がガブリエウは僕に勝てない、そう言った理由はそこにある。与えられた能力に努力を重ねる。1分1秒の積み重ね、そこに深みが重なる。
ソフィア、君は凄いよ。声だけで分かるよ。僕もね、すっごい努力したんだ、だから分かるよ。
怖いけど、ここから僕も行くからさ、ちゃんと着いてきて!
右の耳で正確に叩く音を聞き分け、叩いて戻る指の速度を0.01秒単位か分からないけどズラして、音と音の間の音に変化を創り上げる。
怖い、ちょっとでもミスをしたら地面に叩きつけられるパラシュートのよう。使える神経を全部使って、先のことなんて一切考えないで今、この一瞬を最高の物にする!
ダンサーの息遣いが聞こえる、それを囲むスタッフや関係者の視線が聞こえる。音と、声と、ダンス、ホールはそれで満たされている。
正直なこと言っていい?
僕さ、今すっごく怖いんだ。走って逃げていいならそうしたいくらい。
多分、自分で納得が行くクラシックの演奏は、今が最後になると思うんだ。
ホントはさ、左の耳、もうほとんど聞こえてないんだ。
いつからかな、自覚したのは。麻美に耳掃除してもらった時?
最初は気のせいかなって思ってたけど、少しずつ聞こえづらくなってきて、それでも昨日のオペラは半分くらい聞こえて、でも朝起きたらもうダメだった。
料理の味もね、もう分からないんだ。
怖くて怖くてしょうがないんだけど、僕はいつまでピアニストって名乗っていいんだろうね。
左の耳、完全に聞こえなくなったら、僕はどうしたらいいんだろうね。
世界大会なんて、右耳だけで勝てるレベルじゃないんだろうね。
もしさ、限界来てどうしようもなくなったらさ、そしたら麻美、申し訳ないんだけど、僕と一緒に死んでくれないかな。
向こうで1人寂しいのはもう嫌だからさ。両親はいると思うんだけど、麻美がいいんだ。
わたしも死ぬって書いてくれたし、麻美なら、きっといいって言ってくれるよね。
ーーー
Lovin'
もしあたながいない世界なら
あなたを見つけられない世界なら
わたしも死ぬ
ーーー
麻美。
いいよね?
ねえ。
◇◇◇
数分間、僕は記憶が飛んでいた。ちゃんと演奏を終わりにしたと思うけど、どうやって終わりにしたっけ。
評価としては何も問題なく、想像以上の2人の演奏にダンサーたちはただ必死にダンスをし、終盤は狂喜乱舞、そんな感じだったらしい。
「一志、おつかれ。すごくよかったよ」
「あ、ありがとう」
「ん? どうかした?」
「なんか必死で覚えてない」
「あは、一志でもそんなことあるんだね」
麻美の笑顔に安心した。記憶がない時に僕がまたなにかしたかなって、少し怖かったから。
「カズシハヤマ」
「ソフィア」
「ワタシ、ワタシはずっと味方だゾ」
「ありがとう」
ソフィアはなにかを気づいた、そんな感じに見える。
【シーン5】
「葉山くん、フロアの羽を1枚拾い上げて、恍惚な笑みを浮かべてください」
「変なのまた来た」
「一志、拾ってみて」
麻美のアドバイスで拾ってみる。
「あ、言い忘れてたけど、一志が前に怒ってた盗撮しようとしてた人、またなにかやらかして退学になったって」
退学? へえ、ざまあみろ!
「はい、オッケーです」
「いや、今のなんか違うような……」
「オッケーだってさ」
まあやれって言われたって出来ないからいいけど、まあいいけどさ。
聞こえてくる歓声と拍手。なんだろうと思い視線を向けるとソフィアが中年の男性と女性に抱きついてた。
両親との再会。数年振りの3人の再会に、僕も拍手を送った。




