〈6〉花言巧語
なんだかすごい一日だった。
小学生みたいな感想だけど、纏めようとしても色々ありすぎて何が何だか、と混乱するんだからしょうがない。その上アズマは僕を置いて先に帰るし、ルナはルナで「女子会!」とだけ言って早々に姿を消した。お陰で僕は一人で帰宅することになった。思えば、一人で下校するのも随分と久しぶりだ。毎日のようにあの二人に絡まれるのは中々に疲れる。……けれども、その騒がしさの無い今に物足りなさ感じるのも事実。悔しいが、僕は二人と過ごす時間を憎からず思っているみたいだ。
よもや僕が、と感慨深くなるも、現在地は近所のスーパー、帰り道である。何故ここにいるのかも忘れているが、ここに来てやることなんてそう多くない。それに無理に思い出そうとせずとも僕には文明がついている。
「えーっと、確か冷蔵庫は空だったよな?」
スマホのカレンダーを確認すると、「買い出し」の文字が今日のマスに書き込まれている。あ、思い出した。今日は金曜、買い出し当番だ。毎週やっていることなのに頭から抜け落ちるとは、日中の諸々で余程の衝撃を受けたらしい。
自分のメンタルの弱さに呆れつつも、週明けまでの献立の思考に切り替える。野菜と肉に牛乳や食パン、兎にも角にも肉を決めないことには始まらない。肉じゃが、生姜焼き、それとも鍋か……。
「と、忘れてた」
念の為、先生にリクエストがないかを聞いておかなくては。この時間なら連絡は…………?
ポンと音がすると、書きかけの文章を押しのけて画面が動いた。
『ハンバーグがいいってさ』
「…………は?」
困惑、驚愕が思考の邪魔をする。僕が見た瞬間に文章が送られたこと、それは気持ち悪いけどいつものことだ。聞く前に内容を把握していること、これもまた気分は悪いがいつものことだ。
ここで一つ、前提知識を抑えておこう。サクラとマイは幼馴染であり、お隣さんでもある。そしてまた、サクラとその師──先生もお隣さんである。
これは三軒仲良く並んでいる……訳ではない。鶴見家が引っ越した後、先生が住み着いただけの話だ。そう、既に住人が存在している。では舞い戻った少女はどこで暮らすのか? 過保護気味な両親の援助を土台に一人暮らしを始めるのか? 否、否である。
答えは至って単純明快、
「どどっどどど、同居なの!?」
現在の家主は、少女その人であった。
〜〜〜〜〜〜〜
「お帰りなさいませ、お嬢様」
玄関を開けると、視界へ飛び込んでくるのはメイド姿……ではなく、部屋着の女だった。カーテシーの動作は空を切り、深く下げた頭には寝癖が残っている。挙句の果てには欠伸をし始め、声に釣られて自分まで口を大きく開けてしまった。
「ふぁ……ん、んゔ。何をしているんですか、風花さん」
「実は私はメイドでもあったのさ……君は忘れてしまったが、ね」
だらしがないと呆れた直後、発せられたのは聞き逃せない言葉だ。上げられた女の──風花の顔に眼差しに寂しげな色が宿るのを見て、改めて自分と言う存在の罪深さが嫌になる。これから毎日顔を合わせる人に対して、その度罪悪を感じるのだろうか。そうやって自分のことを棚に上げて、被害者ぶるこの心が、本当に、嫌になる。
「ごめんなさい。私、これから貴女と暮らすのに、」
無遠慮な発言を、と続けようとした口は風花の指に閉じられる。
「まぁ嘘なんだけどね」
…………訂正する。この人との会話こそが、本当に、嫌になる。
なんだろうか、こちらは冗談に応じる余裕なんて無いのに小馬鹿にしてくるこの態度は。先程までの申し訳なさと罪悪感が消えてしまった。今や胸中は呆れと軽蔑を抑え込むのに必死だ。
「おや、元気出てきたじゃないか。何があったか知らないが、君に不安な表情は似合わないよ」
蔑みの視線をものともせずに、風花はマイペースに話し続ける。私程度の意思では到底揺るがず、私を励まそうとわざと怒らせる。本当に、敵わなくて嫌になる。きっと、さっきまでの私は酷い顔をしていた。家に着いた安堵からか、それを取り繕う余裕すらなくなっていた。
「…………嫌いです」
「それでいいさ、"君が"そう感じたこと、その全てを大切にするといい。それに──」
風花は少し含んで、
「愛しの彼に逢ったというに、落ち込んでばかりじゃ勿体ないよ」
「違います!」
とんでもないことを口にした。恥ずかしさで赤くなる。気持ち悪さで気が沈む。煩わしさに棘が刺す。むず痒さに身を捩る。
勘違いも甚だしい、逢ったのだから落ち込むな? 逆、逆だ。逆でしかない。私が落ち込むのは彼を見たからで、他に要因など存在しない。
だからこの否定も照れ隠しではなく、真に拒絶の意であって、胸が苦しいのも単にストレスが掛かっているからで。
「サクラとはまだ話してもいません、私が見たサクラは気を失っていたので」
「ふ、語るに落ちたね。私は一言も通のことなんて言ってないのにねぇ」
「今の状況で思い浮かぶ男の子なんてサクラだけです、言いがかりですね」
「うぅんバレたか。思ったより冷静じゃないの」
悪質な誘導尋問を指摘するも、風花は悪びれる素振りもない。それどころか口笛を吹く始末だ。なんとも言えぬ空気と間の抜ける音は、ルミの集中を削り取る。脱いだ靴を揃えていると、いつの間にか風花は扉の奥へと姿を消していた。仕返しがてら、遠くから鳴る音への感想を投げつける。
「それ、向いてないですよ」
「練習中だから大目に見て欲しいな、こっちなら大得意だからさ!」
リビングの方から乾いた音が響く。パッチンパッチンと喧しく鳴るそれは、恐らく指を用いて鳴らしているのか。頼りになる、と言うより頼るしかない大人の行動の幼稚さにルミは頭を抱えた。
「どうしよう。私、これからこの人と暮らすの……?」
廊下を抜け、リビングに入ってきた後もしかめっ面を崩さないルミを見て風花は笑う。先程までの沈んだ表情とは似ても似つかない、ありふれた生活のワンシーンだ。
「あは、少し揶揄いすぎたかね。お詫びと言ってはなんだが、今日は好きなものを作ってあげよう」
あまりに唐突な提案にルミは混乱する。怒りと混乱と不安がないまぜになり、咄嗟に「はい」とだけ返してしまった。直後、今度は何の企みに引っ掛かったのではと、安易に返事をしたことを自省する。
一呼吸を置けば、次に浮かぶのは未知の感覚だ。好きなもの、好きな食べ物。果たして私の、鶴見舞の好物とは何なのか。封をした記憶を頼ることはしたくない、しかしせっかく食べるのなら好物を摂取したいとも思う。「したい」ではなく、「するべき」ではあるのだが。
目を細めて虫を捕まえる虫嫌いが如く、ルミは思考を浮かせながら過去を漁る。なるべく手短に済ませたい、その恐怖故に最初に見つかったソレを答えとする。最初に触れた記憶、浅瀬であっても強く己を主張するソレは、そのまま想いの強さに直結する。何かしらの思い出と密接な関係にあるのか、眩く輝くソレを拾い上げる。
「じゃあ、ハンバーグ。ハンバーグを、食べたいって」
ハンバーグ。記憶の海で真っ先に触れたモノ。どうしてソレに執着するのかはわからないが、随分子供っぽいと感じた。関連して、苦手なものはどうなのだろうと考える。もし苦みに弱い子供舌であった場合、自分は耐えられるのだろうか? 意識が受け付けないのか、それとも体が受け付けないのか。どちらにせよ、口にしないことには確認できないのだが。
「…………いや、オッケーオッケー。ぱぱっと作って進ぜよう」
自由に、と宣言したはずなのに、風花の返答には含みがあった。もしや、苦手なのでは? 先程拾った際についてきた記憶には、ハンバーグの作り方が細かく記されている。材料から時間、温度や形に至るまでが頭に叩き込まれる。いや、正しくは思い出したと言うべきなのだろう。
「不都合でしたら変えましょうか? それに私、なんだか作れるみたいで──」
「私が作るよ、その先は次回にとっておこう」
ルミの提案をぴしゃりと断り、風花はベランダへ向かう。手伝いの申し出を断られて不服……という態度をとる訳でもなく、ルミは先ほどの記憶について考えていた。自分は料理が得意であったのか、と。
無論これ以上を探る積もりは無く、あくまでこの一つの記憶について考えるのみだ。調理の工程がこと細やかに刻まれてる以上、料理をする人間であることは確か。が、それにしてはあまりにも輝きすぎだ。ただ料理が好きなだけであれば、他の記憶も同様に煌めいていたはずだ。そうでなければ、特別好きであるか、思い入れがあるかの二択になる。そこまで考えたところで、ようやくルミは己の失態に気づく。
なるべく好みのものを食べさせたい? 馬鹿を言うな、その感覚を味わうのはお前であって、彼女のための行動なんかじゃない。
「じゃあ、私が食べるなんて、出来ないよ」
口の中で小さく零した泣き言は誰の耳にも届かない。それでいい、自分が犯した過ちは自分だけが背負うべきだ。そもそも出されたものを食べないのは作り手に失礼であり、拒否なんて選べるはずもない。ただ、今この瞬間は独りでいたい。風花さんはそれを察して外へ行ったのだろうか? だとしても、この場所にすらいたくなかった。
「私、部屋に戻っていますね」
届ける気のない呼びかけは、窓にぶつかり消えていった。
飾っただけ、中身の無い言葉。
しかし、そこに意味を見出す人もいるのではないでしょうか?