☆ たんぽぽの綿毛
ふらつく足取りを心配して差し伸べられる何本もの手を、背中を小さくしながらやんわりと断り続け、しおれた背中を向け続けたコンネル卿は、乗ってきた馬車までやっとたどり着いた。
真っ黒な外装の、何の装飾も無い馬車であった。ここへ来る前から、爵位に繋がるものとは縁を切ってきたのである。
「お疲れ様でございました、旦那様」
「…ああ……ああ…」
自分よりも年上の使用人に支えられて、ふらふらと馬車に近寄る背中を、たくさんの人が気の毒そうに見ている。
それを気にする余裕も無いのか、元辺境伯はよたよたと乗り込んでいった。
心配気なたくさんの視線が見守る中、質素な馬車は車輪を軋ませると、ゆっくりと走り始めた。
やがて城の門を出て、街の大街道へと移動を始める。
石畳の音が変わったのと、周囲の景色をそっと確認してから、家令のベルノが主人に声を掛けた。
「…もう、宜しいかと。……いかがでございましたか旦那様」
「…ああ、もう……もう!」
コンネル辺境伯は、呻くようにうつ向いたまま大きく頭を振ると、大きく息を吐きながら叫んだ。
「これ以上は無いほどにさっぱりしたわ!」
コンネルは俯いていた頭を上げてにやっと笑った。その目は生き生きとして、横でひらひらなびかせる手の動きはしっかりしたものだ。
小さな窓から見える城は、もう遠い。
「……もう少しごねるかとも思ったが、な」
コンネルは、爵位返上の意志を帝都に着いたその日に決めていた。
こんなバカなことをされてまで、この国に寄り添う気など無かったからである。
対応次第では国が荒れるだろうが、今の所皇帝はこちらの意図を汲んだか、様子見に入ったと見て良いだろう。
その間に、引き返せぬ所まで進めてしまえばいい。
「で、ベルノ、領の方は?」
「はっきりとは申せませんが、領民には大まかには伝わった頃かと」
「分かった。事の次第はそれでいい。その後の対応に間違いが無いように」
「は、領の方にも再度確認を致します」
領で心配している妻には手紙を書いて、既に指示を飛ばしてあった。
ほぼ子飼いの兵士とその家族で成り立っている田舎の領である。さらに緊急時においての連絡や移動も、平民でも困る事が無いくらいには動けるように、普段から指示は徹底してあった。
「…兵が居るからこその生活だと、分かっているからな…金は全て吐き出して、民のために使ってくれ」
「仰せのままに」
領兵を養うための金銭ももう必要ない。
彼らならどこの兵士となっても、必ず生き残っていける強さがある。そうでなければ、辺境で領兵などやって生きてこられる筈がないからだ。
「王国の感触はどうか」
「中央には今日あたり報せが行く頃だと。ウエルト・チガラ公爵様が連絡を請け負って下さると、奥様から早々にご連絡が」
「それは助かる」
「…それと、こちら側は何だかきな臭くなっております」
「ああ、いい。もう、関係ないからやらせとけ。今回の事はあまりにも事が大きすぎる。責任の擦り付け合いが始まるんだろうからな…」
遠くかすむ城を一瞥して、コンネル卿は苦く笑った。もう二度と足を踏み入れたくない場所である。
もしも入る事があれば、鎧に身を固めて、武器を振り回している事だろう。
「…とは言え、我が家の守り人は護れよ」
「もちろんでございますとも…と言うか、我が家との関わりが薄すぎて、ノーマークでしょう」
「だろうなあ…」
あの、真っ黒な絶望に沈んだ夜。
己もすぐには信じられなかったことを思い出し、コンネル卿改め平民になったトルカナ・コンネルは、苦笑いを浮かべていた。
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絶望と血の匂いに何もかもが沈んでいく中、だからこそ真実を知りたいと、トルカナが父親として縋り付いた手は、とても小さかった。
部屋への案内を乞う娘に、慌ててベルノに案内をさせる。
そして、自分自身がどうやってそこまで行ったのか、トルカナは覚えてはいない。ただ、向かいのソファに座らせた娘の手が、小刻みに震えているな、と思った事は記憶にあった。
「…あの、部屋に防音魔法をお願いしたいのです」
家令に対して頼む声に、トルカナはさっさとやれと視線を飛ばす。
貴族の邸ではよくある魔法具であり、会談をするような部屋には大概設置してある。外に漏らしたくない内密な話は、どこの貴族でもやっている事だ。
「完了いたしました。お話をどうぞ、お嬢様」
ベルノに促されると、娘は徐に立ち上がった。そして右手で拳を握ると、胸の中央を三回叩く。
「カンバーニィの山、越えてゆく雪風に、冷たくとも我ら屈せず」
「…な」
領兵の中でも、コンネル家直属の者しか知らない言葉であり、仕草であった。何故それを知っているのかと思う間に、娘はポケットから一通の封書を取り出して、家令に渡した。
「先ほど私の手元に届きました。お知らせが遅くなり、申し訳ございません」
深く頭を垂れたまま、娘が謝ってくる。
ベルノから渡された封書を見ると、クルニ・ミニト男爵令嬢宛になっている。目の前の娘がそうなのだろう。
そして送ってきたのが、コナリ商会となっていた。最近帝都でも耳にするようになってきたあの商会だと思い出す。
「これは?あなたに宛てたものでは」
「開封して下さればわかります。もしお怒りであれば、ここで切り捨てられても文句は言いません」
娘からの緊張が伝わり、トルカナは封を開けて便箋を広げた。
「……え?」
思わずコンネル卿は立ち上がり、封筒と便箋を見比べる。
筆跡が違う。
そしてその便箋の筆跡が、わが愛する娘リオリーヌのものだと気付いた。
「嘘、では…」
読み返す。読み返す。
そして、ミニト男爵令嬢に疑いの視線を向けた。
「私を…からかっているのかい?」
「いいえ!」
目を見開くと、娘は大きくかぶりを振った。
「大恩ある辺境伯様とリオリーヌ様を、騙すことなどいたしません!」
強く握られた手が、色を変えている。
それを見て、トルカナはもう一度便箋に目を落とした。
お父様
私、リオリーヌ・コンネルは生きております。
たくさんの助けを受けて、命を繋ぎました。
お母さまにも心配は無いとご連絡下さい。
商会の名でお手紙を出します。
御会いできる日を楽しみにしています。
リオ
「………」
急いで書いたのが分かる字の乱れではあったが、命の危険からは遠ざかったらしいと分かる落ち着きは伝わって来る。
トルカナは指先でその字をそっと撫でて、目の前で頭を深く下げたままのミニト男爵令嬢を見遣った。
「あの、ラクアス殿下の計画に注意しろという手紙は…」
「はい。私です」
間髪を入れず自分だと認める。
「ご不快だとは思いましたが、どうしても…お知らせを。何もなければそれで良かったのです。内容を信じて欲しいというのも…殿下が本当に実行するかわかりませんでした、し…」
「……そうだな」
あの時、信じていたとしても手を打てたかは分からないと、トルカナは思い返した。 計画の変更や中止にできる余裕が、日時的にあったからこその迷いが有った事も。
「…とりあえず今は、リオリーヌは生きていると信じる事にしよう」
トルカナは、自分に言い聞かせるようにそう口にした。
目の前の貧相にも見える娘を信じ切った訳では無いが、それでも、わざわざ辺境伯の自分を騙す理由が見付けられない。
それにあの、領の兵士が出陣前にする儀礼を知っていることが不思議でもあった。恩があると言ってくれてはいるが、このような貴族令嬢に心当たりは全く無かった。
「……それで君は…何者なんだい?ミニト男爵令嬢」
「あ、慌てていて失礼致しました。申し訳ございません。…私は、コンネル辺境伯領内の孤児院育ちです。辺境伯様とリオリーヌ様のお力添えを得て、国立学園の奨学生として学ぶ機会を頂き、この度卒業致しました」
下げていた頭をゆっくりと上げて、恥ずかしそうにそう告げる。
その言葉にトルカナははっと顔を上げた。昔の事を…まだ幼かった娘と交わした会話を思い出した。
「まさか、君は…リオリーヌが言っていた、たんぽぽか」
こく、と、クルニが笑顔を浮かべて頷いた。




