☆ 新月に騒ぐな
ガラスが何枚も割れる音が暗くなっていく空に響いている。
「お行儀の悪い事」
石壁の上に立ったメドロアは、小さく呟いた。
あんな男が自分の義理の息子にならなくて、本当に良かったと思っていた。
確かに、剣の才能には光るものが有った。しかしそれだけでしか無かった愚か者。
そして、自分自身の力の足りなさには何となく解ってもいて、それを埋めるために聖女を欲した怠け者。
夕闇が迫る中、下で無様に走る騎士たちは、黒いマントで全身を覆ったメドロアに気付かない。
皇子のあの様子では、皇帝が最後の情けとして送った武具一式も、無駄になりそうであった。
まごう事無き一級品の剣であったが、今その剣先は立ち向かうべき魔獣ではなく、窓ガラスや調度品に向けられているのだ。
時折聞こえる名に、メドロアはフン、と意地悪く笑う。
そうこうするうちに陽は沈み切り、騎士が持つ松明以外が暗闇に飲み込まれる。
やがて暗闇に迂闊に動けなくなったのか、邸からの音が止んだ。
メドロアはそれをしばらく見てから、石壁の上から外側へと降りた。壁の外側には二人並んで歩けるほどの石段が設えてあるのだ。
そこから少し歩くと、灯りがともされた小さな館に辿り着く。関で任務にあたる兵士が使用する為と、非常事態用に作られた物であった。
「この館、作っておいて良かったわねえ」
石壁と館を見比べて、メドロアはにっこりと笑った。
その石壁の向こうでは。
帝都の騎士たちが初めて迎える、長い夜の始まりであった。
真っ暗だ。
月明りも無く、邸は闇に沈んでいく。
怒りに任せて室内を破壊していたラクアスも、何も見えなければ動けなくなり、熱くなっていた頭が冷えていった。
「嘘だろ、こんな」
袖口で汗を拭い、呆れたように天を仰ぐ。
真っ暗闇の中、急に心配になったのは母の事だった。
「母上」
目を眇め、ゆっくりとした足取りで移動を始める。
怒りに任せて歩き回ったために、ここがどこなのか全く判らなくなっていた。
恐る恐る歩くうち、思い出したのは、姿が見えないハルミナの事。
自分がこんなに困っているのに、どこへ行ったと言うのか。
魔法を使って何とかしろと思う。困っている皆のために、皇子妃として進んでそうするべきでは無いかと、怒りがまたも顔を出す。
ふと、倒れたハルミナを運んで行った騎士の事を思い出した。
運んだ先がここだと自分が思い込んでいたのかも知れない。と、気付いたラクアスは、少しだけ気が楽になっていた。
「とりあえず、戻ろう」
階段を見つけてゆっくりと下りていくうち、下の部屋がほの明るくなっているのに気が付いた。
「ああ、ラクアス」
足音に気付いたらしい母が、縋るような視線を向けてきた。
「灯りは付けて貰ったけれど、どうしましょうね」
側妃の前だというのに、騎士たちは床に座り込んでいた。
「お前たちに聞く。倒れたハルミナを運んで行ったのは誰だ?」
騎士達はほぼ全員いた。
その中の誰もが首を横に振る。
「あの時、副官と共に出た四名以外は、全員ここから出てはおりません」
「…間違いないのか」
「迂闊に動くなと副官からの命令がありましたので、私自身が扉前に立っておりました。間違いありません」
「なら、あれは誰だったんだ…」
ラクアスがぼそりと呟いた時、マクロミルとデラッシがのそりと姿を現した。
二人はこの状況の悪さに、こっそり逃げ出そうとしていた。けれど、騎士達でも難しい高さののっぺりとした壁である。名前ばかりで何の訓練もしていない貴族の男が、道具もなしに登れるはずは無かった。転がり落ちてはひじやひざを派手に泥で汚し、酷いうち身を増やしただけで、疲れた重い足を引き摺って戻ってきたところであった。
そこにいる全員、ただただ空腹が増しただけであった。
腹を満たすために向かった厨房は、確かに機能していた後はあった。けれど、鍋釜などの調理器具も、燃料となる薪も無く、ご丁寧に水がめにはひびが入っていて、床をわずかに濡らしていただけだったのだ。
奥にある食糧庫もきれいに掃除されていて、何一つ無かった。
「殿下。食糧庫は空っぽです。保存食のひとつもありません」
歓待の茶菓子以降、誰も何も口にしていない。
その言葉に重苦しい雰囲気が満ちる中、思い出したかのようにゼラが顔を上げた。
「向こう、向こうの館は調べたの?」
全員がハッとし、表へ飛び出していた。
「…嘘だろ」
それは全員の思いだった。カーテンの隙間から、チラチラと明かりが漏れている。
それも、複数の部屋からだ。
「…誰か居るんじゃないか?」
「む、向こうへ移動しよう」
誰が言うと無く、全員が馬を求めて走り出した。
薄暗いこの場所の、得体のしれない恐怖。光が灯るあそこには、人が居るかも知れないという希望が見えた。
騎士たちは弾かれるように立ち上がると、我先にと駆け出して行った。
「! 貴様ら!皇族を置いていくのか!」
ゼラを連れていたため、ラクアスは出遅れた。
それでも母を馬車に乗せて…そして…自らが御者をしなければならない。と気付いて呆然とした。
「あいつら…思い知らせてやるからな!」
その権力も、ここでは既に消え去っているとまだ気が付かないまま、ラクアスは御者として手綱を握った。
そして、もしかしたらハルミナは向こうに運ばれたのではないかと思う。
向こうに運ばれて気が付いた彼女が、もてなしの料理を用意していて、慣れないから連絡が遅くなったのでは…と。
「…そうだよな、ハルミナは私の事を愛しているのだから」
ランタンの無いままに、勢いだけで走り出した外は真っ暗闇だ。行く先の道など全く見えない。
それでも、用意されている料理を早く食べたいのと、ここに置いていかれる恐怖を拭い去りたくて、ラクアスは馬に鞭を入れた。
馬の群れに続くように、館の灯りを目指してスピードを上げる馬車は、時折大きく跳ねて、きしんだ音を立て続けた。




