☆ 辺境の氷
辺境伯の妻であるメドロアは、不吉な報せを受けてから七日後に、やっとほっとする手紙を受け取り、肩の力を抜いた。
あと数日遅れたら、内戦へ向けての準備を始めた所である。
とはいえ、夫であるトルカナは基本平和主義であるため、その準備をしたとしても無駄になったであろうが。
しかし、メドロア自身は怒りに燃えていた。
一人娘が酷い冤罪を掛けられ、さらに婚約者でもある皇子の独断で、冗談のように国外追放という刑に処された…という最初の報せには、あまりに酷い内容と信じられなさに貧血を起こしてしまったが、落ち着けばそれも治まった。
今回の手紙で知ることが出来たのは真実。
夫の考えと今後についての示唆をそれとなく受け取り、メドロアは不敵な笑みを浮かべた。
「丸投げ…で、承りましてよ、あなた」
リオリーヌ直筆の手紙を抱き締めて、ふふふ、と声を上げて笑う。
「…お茶が入りました」
夫人に夫君からの手紙を手渡した後、そのままお茶を準備していた執事のカレッサが声を掛けた。
「カレッサ、良い報せだけど、忙しくなるわ」
辺境伯からの手紙だけをカレッサに手渡す。優雅に椅子に腰を下ろして、メドロアはそう言うと少し考えた。
「二か月かけずに、ここから引っ越さないといけないの」
「…確かに…これは一大事でございますね」
主人の手紙をざっと読み、カレッサは微かに眉を寄せた。
「そうなのよ。旦那様もベルノも帝都から動けない…いえ、動かないでしょうから、私たちでするしかないの」
にこ、と笑うメドロアに、カレッサもにこりと返した。
華麗な出で立ちのご婦人…薄い茶髪に青い目のメドロア夫人は、嫁ぐときに王国から待ったがかかったほどの女性である。
勿論、その人目を惹く華麗な出で立ちが原因の一つではあったが、本当の所は、魔法の力が他人より強かったからである。
『透氷姫』という名が広がるほど、水の魔法の上位である氷を操り、国境の山に分け入っては魔獣を倒し、時には味方を守り戦う…そんな侯爵令嬢だったのだ。
そんな彼女を帝国の辺境伯が求め、彼女自身がその話を承諾し、周囲が慌てる間にさっさと嫁いだのは今も語り草になっているという。
そして実家である王国のニウディ侯爵家とも、それがもとで関係が拗れるような事も無く、年に一回は必ず家族で行き来する仲である。
「それで、王国のお父様と密に連絡をしたいのよ」
「承りました。ハリーに走らせます」
「ああ、そうね。彼なら良いわ…探索者ギルドで護衛もつけてあげて。目くらましになるでしょ」
家族で行き来すると言っても、護衛は必ず付き従う。
国境を挟んで接するニウディ侯爵家に滞在する間、護衛の兵士には侯爵家子飼いの兵士たちとの訓練が義務付けてあった。
お互い国境を挟み、魔獣を相手にすることの多い立場である。力のバランスが崩れる事は、決して好ましいものでは無かったからだ。
そこにこちらから初めて参加したハリーという青年が、剣技はそこそこでしかないのに、侯爵と非常に親しくなっていたことを思い出す。あの人たらしっぷりは、いつか利用できるだろうと考えていたことが、今生きたようだとメドロアは笑った。
「それと、旦那様のお世話をする者をこちらから帝都に送り込んで。向こうの使用人は全員解雇の方針にしないとね……」
「直ぐに選び出して出発させます。連絡も取りやすいように宿場に馬と人を配置させましょう」
カレッサの提案にメドロアはその通りねと頷いた。
「それでは一時間後。領兵、騎士団、魔法士団のトップ、使用人全員玄関ホールに集合。その間に手紙を書くから、探索者ギルドへ依頼を。良い人材が捕まらなかったら、うちの人間で固めても良いけど、出来れば避けたいわ」
「では、すぐに」
優雅に退室していくカレッサを見送りつつ、不敵な笑みを浮かべながら、メドロアはお茶を口にした。
一時間後。
「急な事で、申し訳ないわ」
メドロアは玄関ホールに集めた人たちに、そこへ繋がる階段の上からまず頭を下げた。
そして、領主一家に起こった出来事を…次代辺境伯予定だった第三皇子によって、娘の被った被害とそれがなされた経緯を、誇張なく淡々と伝える。
不安と悲観にざわめくそれを手で制し、それにより、辺境伯は自ら領地と爵位を、帝国に返還した事を述べた。
「罪なき娘を、婚約者でもある娘をたった一人、魔獣が徘徊する森に置き去りにしたのです。ここにいる皆が日々必死になって守るこの領地を田舎だと笑い、そこを継ぐ娘は聖女以下だと切り捨てられたのです」
メイドたちからは悲鳴とすすり泣きが漏れ始め、騎士たちからは怒りのオーラが溢れ始める。
「国を守る貴族でありながらも、裁きを受ける機会を与えられることなく極刑にされました。このあまりの理不尽なやり方…。私達夫婦は……帝国に仕える意味を無くしました。二か月過ぎる前にここを離れなければなりません。そして私は、平民となった夫と共に王国へ行く事になるでしょう」
誰も声を発しない。
悲壮な視線だけがメドロアに向けられている。
「ここは、この土地は、旦那様のご先祖様が必死で守ってきた土地です。そして今は、ここに居る皆が命を懸けて守っている。その守りは此処のみならず、帝国の安寧も培ってきたと心から思っていました。…しかし、帝国はそうでは無かった」
悔しさに手を握りしめながら、メドロアは俯いた。
「とはいえ、こちらから戦を仕掛ける事は許しません」
どよ、と兵士のいる辺りからざわめきが起きる。
てっきり蜂起のために集められたと思っていた騎士や兵は、予想外の命令に疑問の視線をメドロアに向けた。
その視線を受け止め、メドロアは解っているという様に何度も頷いた。
「皆の思い、実に嬉しく思います。しかし、旦那様がまだ帝都に居られます。…その意味が解らぬ愚か者は、まさかここにはおりませんね?」
ピキ!っと甲高い音を立てたのは、ホールに置かれた大きな花瓶だった。そこに活けてある花が白い霜を吹き上げるように纏っている。
「私、こうして話してはおりますけれど、平静ではありませんのでね…少し加減が効きませんのよ……皆、宜しいか?旦那様の思いやりと命を軽んじると言うのであれば…今ここで前に出なさい」
花瓶がその花台ごと氷柱と化す。そして大きく音を立てて粉々に崩れ落ちた。
近くにいたものが顔を引きつらせて飛び退きはしたが、誰も声を発しなかった。
「では、騎兵は領民全員に領主が変わる事を触れて頂戴。もしも領から出たいと言う者がいたら早急に大まかな数の報告を。混乱しないように、兵団と騎士団で上手くまとめて頂戴。さ、すぐに」
了解いたしましたと団長クラスが頭を下げ、その場を去っていく。
「邸の使用人は荷造りと、周囲の後始末をお願いするわね。不必要な物から送り出してしまいましょう。侍女長は目端の利く子を数人選んで仕事を分担させて。あなた本人はカレッサのサポートを。…それから、あなたたちの身の振り方も考えておいてね。紹介状は用意いたします」
侍女やメイドたちが揃って頭を下げる。
「…そして魔法士団は、騎士団が手薄になる分、領民の安全確保をして頂戴。私の仕事が一段落したら、私と共に行動を」
「はっ」
「後は…何かあり次第伝えます。撤退戦が一番難しいのよ。よろしくお願いするわね」
「はっ」
深く一礼をしたのち、静かに立ち去る多くの背中を見送り、メドロアは大きく息を吐いた。
この領は日々、魔獣と顔を突き合わせている状況なため、土と共に生きる農民が少ないことが救いとも言えた。殆どが領兵の家族と、それを支える種々のギルドに所属する運営者、商人たちだ。
「領兵達がどれほどここに残るか…が、領民の行動の分かれ目でございましょうか」
傍らに立つカレッサの声に、メドロアは微笑んだ。
「その通りだと思うわ。…あとは旦那様がどうするか、なのだけれど」
恐らく、領兵はトルカナのいう事しか聞かないだろう。そういう信頼関係の上での、辺境暮らしを選んだ強者の集まりだ。
「兵の家族の暮らしを一番に整えれば、ニウディ侯爵家に良き戦力になりますでしょうが…」
「そうなのよ。持ちすぎて王家に睨まれても厄介ね」
とはいえ、コンネルが王国に行くとなれば、まず頼るべきは侯爵家という事になる。
「ウエルト・チガラ公爵様をとうに巻き込んでもいますしねえ」
最初の報せの後、飛び出して行ったコンネルと入れ違いに、詳細が記された手紙が届いたのだ。
それが事実と知って、メドロアは一人で帝国を出る事に決めていた。
領民の事がまず頭に浮かび、辺境伯であるコンネルを動かす事が直ぐに決められなかったからだ。
どうしたら上手く国家間を立ち回れるかと、父親と、王弟でもあるチガラ公爵に助力を願い出たのである。
父親と公爵は直ぐに会合を持ち、王国に報告すると共に、少し待つようにと連絡を寄こしてきた。
コンネル自身と、彼の持つその兵力を取り込む機会だと考えたのだ。
ならば、メドロアは待つしかなかった。
領兵はコンネルの命令しか聞かない。
自分が指揮をして王国へ連れて行ったとしても、自分を王国へ無事に届けたら、コンネルを探して消えてしまうに決まっているのだ。
「まあいいわ。今は引っ越しをしましょう。旦那様の動向がはっきりするまで、私もここを動きませんから」
「はっ」
ドレスを翻してメドロアは自室へ向かう。
その裾を捌きつつ、ドレスやアクセサリーは全て実家へ送ってしまおうと考えていた。
明日から身にまとうのは、乗馬服と埃除けのローブ。ペンを持つ仕事が一段落した後は、討伐の御供だった魔法書と杖を握るのだと。




