第三部 1章 されど、きらめきは己の中に 006
猫を思わせるような、その鋭敏で俊敏な躍動の凶爪は。一足飛びに、アイーニャとの距離を詰めて。
すぐさま肉薄する。
アイーニャを切り裂かんが為に。
が、すんでの所でその爪は止められる。
「に“ゃっ!?」
ルビーによって腕を掴まれ、その鋭利な爪はアイーニャの眼前で止められてしまったのだ。
ほんの数ミリまで眼球に迫った爪を、アイーニャは瞬きもできず。ただただ、そこに佇む。エルフと高位妖魔では、レベルに於いても戦闘経験に於いても、どうしようもない差はあった。
「アハー、それはダメだよマーコ。アイーにもマーコにも、傷ついて欲しく無いですヨーワタシは」
そして、ルビーとマーコ(エリス)でも彼我の戦力差は歴然だった。掴まれた腕を外そうにも、びくともしない。
「くっ、離せっ! 離せっ、このばかゾンビ! うに“ゃーー」
「アハー、落ち着いてヨー。悪い風にはしないからサー」
完璧に抑えられてしまって、踠くマーコ(エリス)だったが、ここでアイーニャは。
「ルビー様ぁ。離していいですよぉ。もしかしたら、私……やれるかもしれませんからぁ」
朗らかな言葉とは裏腹に、彼女は先ほどから微動だにせず。構えたままで、冷たい視線を眼前の爪に送る。
その瞳は、瞬きすらしていない。
できなかったのではなく、していなかったという事であれば。アイーニャは、マーコ(エリス)の攻撃が見えていたと判断する事も出来る。
そうルビーは、瞬時に考え。そして、明らかに集中力が研ぎ澄まされているアイーニャの目を見て、再度思案した。
「アハー、なるほどなぁ……わかったヨー、アイー。でも、怪我しそうになったら、ワタシは無理にでも止めますヨー?」
ルビーは、手を急に離す事はせず。マーコ(エリス)を軽く上へと放る。
そのまま空中で、二回三回身を捻って綺麗に着地をするマーコ。さながら猫そのものの様な柔軟さだ。
ルビーはアイーニャの為に、物理的に距離を取らせて仕切り直しの体を作ったのだ。
「にゃはっ、エルフ。大きく出たな……アタシをお前如きがどうにかするだと? にゃめてるのか?」
未だ微動だにしないアイーニャに向かって、マーコ(エリス)は四つん這いの態勢から、鋭くもまん丸の目を向けて言った。
しかし、そんな言葉を無視してアイーニャは構えたままに、マーコを見据え続ける。
「くっ……このっ。ーーわかったよ、お望みとあらば……八つ裂きにしてやるっ!」
その四つん這いの姿勢から、猫の様に素早くアイーニャとの間合いを詰め。尖った爪を顔面に目掛け放つ。
が、アイーニャは頭を下方向に少しずらす事で、紙一重でそれを躱した。
淡いグリーンの髪が数本切られて、夜の風に乗って舞っていく。
「にゃっ!?」
驚きを隠せないマーコ(エリス)は、反応が鈍ってしまう。
その機を逃さず、アイーニャは右手の出刃包丁を振り抜こうとするが。ほぼ密着状態の間合いでは、有効に作用しない。
逆手に持っている事も逆効果で。結果、握る柄の部分が先行し、裏拳の様な形になってしまう。
マーコは反応が遅れながらも、それには悠々と対応して、後方宙返りを決めて着地する。
やはり戦闘経験からくる、判断の良し悪しは如何ともし難い。
しかし、アイーニャは確かに攻撃が見えている。それは、密かに部分的な霧状になってアイーニャを守ろうとしたルビーが、少しだけ胸を撫で下ろした理由になるだろう。
「くそエルフぅ……」
すぐ様、攻撃に移るマーコ。
今度はアイーニャの眼前まで詰め寄り、低姿勢の状態から猫パンチの様な、引っ掻く動作で高速のジャブを放つ。
アイーニャは仰け反って躱そうとするが、間に合わない。
ぎゃい、という音と共に左手に持った牛刀が、柄の部分を残して弾け飛ぶ。
アイーニャは間に合わないと判断した瞬間に、左手の牛刀でその猫パンチを受けたのだ。
やはりレベル差もあるし、本来戦闘用の刃物で無い牛刀は、容易にバラバラになってしまう。
この時点で、仮にアイーニャがマーコを、包丁で斬りつけたとしてもダメージは通らない可能性が高い。
マーコは、すぐに反対の手で突きを繰り出す。
アイーニャは、左手の元牛刀だった柄だけの物を、マーコの視線を遮る様に顔に放る。
その隙に、前へ飛んで前転し距離を取った。
放った柄は素早く弾かれる。その勢いのまま追撃をかけるマーコは、短い距離を難なく詰めた。
が、アイーニャは右手の出刃包丁を、マーコ目掛けて投擲する。
「にゃんだ、こんな物っ!」
もちろん苦も無く叩き落とす。
その瞬間にアイーニャは、マーコの方へ詰め寄った。
お互いが顔を突き合わせる、超至近距離。
「くそエルフっ!」
挑発されたと見たマーコは、激昂して突きを連打する。
それを悉く紙一重で、アイーニャは躱せてしまう。
時には、意表をついて前後左右に転がり距離を取りつつ、回避に全力を尽くしていた。
時折、舌を出して挑発も織り交ぜるあたりは、流石と言うべきなのか。裏も表もあるアイーニャに、相応しいとも言える。
何が目的だったのか、もはや当事者二人は覚えていない。
怒った事で、確かに攻撃は単調になる。なるが、それでもエルフの少女が、高位妖魔の猛攻撃を躱しているという事実は、本来なら起こり得ない。
アイーニャはこの短時間で、急速に成長しているのだ。暗殺者としての才能が。
それが、動体視力や俊敏性を著しく押し上げているのだった。
あまりにも躱され続け、挑発され続ける事で、さらにマーコは加熱していく。
もう頭から生える猫耳が、真っ赤になってしまっていた。
「ハーイ、ストップー!」
ルビーは、部分的に霧状化していて、戦う二人の周囲に纏わり付かせて様子を見ていたが。ここまでだと判断し、霧を腕に生成してマーコを地面に抑えつけてしまう。
遠隔で操作された腕であるが、やはりマーコは身動きが取れない。
「に“ゃゃぁあ“あ“、くそっくそっくそぉーーーー! うぅ……くそぉ」
抑えられたマーコは、悔しさで声が滲んでいるかの様に見える。
だが、顔は地面に伏せられて、見る事はできない。
ルビーの腕が、マーコを地面に抑えたのと同時に、アイーニャもその場に座り込む。
否、へたり込んだ。短時間とはいえ、限界を超えた疲労は相当にあるのだった。
「アハー、もうエリスたんも、これ位にしてお終いにしましょうヨー」
ルビーの本体は離れた位置であったが、霧になってエリスに近づき。そして、その場に体を顕現させる。
地面に押さえ付けていた彼女を抱き上げて、両腕で再度拘束。見た目には、抱きしめている様に見える。
エリスの両目は少し赤い。
「ばかゾンビ……たんって言うな……」
もはやエリスは抵抗も無駄と悟って、特に暴れる様子を見せずに。ルビーのエリスたん呼びを、弱々しく非難するに留まった。
「アハー、エリスたんの目的は何かは知りませんが、もう止めませんカー? ワタシは先ほども言った様に、アイーにもエリスたんにも傷付いて欲しく無いんですヨー。みんなでキャッキャウフフ出来れば……あ、それはいいか。ーーマァ、エリスたんの悩みとか……どうです? ワタシ達で、もしかしたら解決できるかもしれませんヨー?」
ルビーは当てずっぽうで、エリスが何かしらの悩みを持っていると、敢えて断定し。若干カマを掛ける様にそう言った。
「そ、そんなのは、無理……だね。いくらお前や、アルルが強くても……。いや、忘れろ。お前らの望み通り、サイ・ダートに着いたらアタシは消えてやる。それまでアルルに近づかないし、そこのエルフとも絡まない。それでいいだろ?」
その後は、ルビーが何を聞いてもエリスは、無視を決め込むだけであった。
何故サイ・ダートまでなのか、とか。黒幕は誰なのか、とかだ。
だがルビーは、どうとでもなるかと楽観視をして追求を切り上げ。三人は、アルルが眠る部屋に戻って行ったのだった。
翌朝、アルルは大きく深呼吸をして、旅籠の広場の空気を吸う。
初日より早起きではないが、まだ陽が出て浅い。だからか、空気が清涼で美味しく感じられた。
「よし、それじゃ行こうか……」
と、アイーニャを見ると、あからさまに眠そうだ。
「アイーニャ……大丈夫?」
「あぁ、はーい。大丈夫ですぅ、アルル様ぁ」
明らかに大丈夫じゃなさそうに、アイーニャは返事をする。
「え……だい、じょうぶ……なの?」
「アハー、アイーはほんとに寝起きが駄目ダメなんですヨー。ワタシはいつも見てるので、これがアイーの通常なんですヨー」
ルビーはフォローを入れる。
ーーいや、確かに。いつも何だかんだ早くに宿を出てたしな……お弁当もいつも、所定の所に置いてあったし。朝のアイーニャってあんまり見てない、か?
一応の解決を内心で済まし、次は猫のマーコを見るアルル。
何故かマーコも、心なしか元気が無さそうにしていた。
いつもなら、自身の肩に乗って来るのに、今日は近づきすらして来ない。
「え、マーコも体調が悪いのかな? 元気が無い様に見えるけど……」
「アハー、猫は気まぐれですカラー。ねぇエリスたんー?」
「なんだよエリスたんって……」
「あ、間違えた。マーコちゃんー?」
そのやり取りを理解しているかの様に、猫のマーコはそっぽを向いて「にゃあ〜」と言った。
「ん? またなんかマーコの声が変だな……本当に大丈夫かな」
「にゃあにゃあ」
もはや、人の声の様にやる気無く、猫のマーコはアルルの言葉に反応する。
「え……まじで大丈夫か、マーコ?」
アルルはしゃがんで、手でおいでおいでをする。
が、マーコはそれを注視したと思ったら、またぷいっとそっぽを向いてしまう。
「アハー、まぁまぁ。もう馬車出るんじゃないですカー? さ、それではサイ・ダートに向けて、行きましょうカー、アハハー」
ルビーは半ば強引に、一行を馬車に誘導する。アルルも、何かが変だと感じながら、その答えは分からず。渋々、従うのだった。
馬車に揺られる最中、サイ・ダート国内に入ったと、御者から言われた時。
アルルは、ふと馬車内を見渡す。
トランプを、暇つぶしにルビーから借りて。思い出しながら、ソリティアをやっていた途中である。
アイーニャは、昨日と同じく毛布に包まって眠り続け。
ルビーは何故か、遠いを目をしながら喋りもせずに、黙々と馬車から見渡せる風景をじっと、鼻歌まじりに見ている。
それは、かなり珍しい事でアルルは少し首を傾げた。
猫のマーコは、時より身震いをして立ち上がり。その度に、馬車の隅から隅へと移動して、そこでまた猫らしく丸くなる。
今の所、アルルには近いてもこない。
「…………」
ーーなんとなく自分で決めた旅行だけど……やめた方が良かったのかな。なんか、なんか感じ悪くない?
釈然としない気持ちにさせられるアルル。
ソリティアは途中で集中力が散漫になってしまった様で、ぐしゃぐしゃにしてしまう。
してしまってから懲りもせずに、イチから始めるべく。再びカードを並べ始めた、成長しない英雄は。
そんな、うらぶれた気持ちのまま……
サイ・ダート共和国の首都、水溢れる美しい都に到着してしまうのであった。




