第二部 エピローグ
エピローグ
公立図書館の匂いは、率直に言ってカビ臭い。酷く鼻をついて、耐え難いという程ではないのだが……
埃なども相まって鼻を微かにくすぐって、むず痒くなる。
ここの管理をしているナーサ・ミ=ショーオによると、革と羊皮紙のすごく芳しい匂いだとの事。
彼女はきっと、すごく本を愛しているのだろう。
「えぇと……昨日の続きは、どこだっけなぁ……」
目の前にある、大きな書架から昨日まで読んだ本の続きを探す。
「昨日の続きなら、そこのテーブルに栞を挟んで置いておいたよ。忘却のアルル君」
声のする方を振り返ると、そこにナーサが立っていた。
部屋の中央のテーブルに目を遣ると、確かに本が置いてある。
ナーサは、五冊ほどの重そうな本を抱えて。にやにやと、こちらを見ている。
ーー忘却のアルル……。
自分があまりにも、本の場所や続きの部分。ましてやここに至るまでの道順すら、覚えられないので。呆れられた彼女に、そう名付けられてしまったのだ。
「ナーサさん、その忘却というの……やめて下さい。」
「ふふっ、嫌かい? ーー僕は気に入っているのだけどね」
ナーサは何かの作業の途中なのだろう、両手で重そうな本ばかり持っている為。大きな丸眼鏡が、若干傾いているのを直せないままにしている。
「テーブルの……ありがとう御座います。そのー、持っている本を何処かに運ぶなら、手伝いますよ?」
「ん? ……いいのかい? 昨日の続きを読まなくて」
「あ、いえ。別に急いでないので……持ちますよ」
ナーサの腕の中にあった本を、片手で下から支えながら持ち上げる。
「うん、君は本当に力持ちだね。ありがとう、助かるよ」
「いえ、これ位。いつもお世話になってますから」
ナーサは、眉上に綺麗に切り揃えられた前髪を揺らし。腰まで届くポニーテールに気を付けながら、小さく微笑み上品に会釈した。
きっと喋らなければ、気品も器量もあるナーサの事だ。すぐに何処ぞの貴族なり、上流階級の人と結婚をしていただろう。
喋らなければ。
「ナーサさんて……その、なんて言うか……」
「ふふっ、変な奴かい?」
「あ、いえ……何というか、その。……はい」
つい直接的に言ってしまった。会ってまだ一週間ぐらいなのに……
「あっはっはっは、正直でいいね。そういう所が君を好いている所でもあるんだ、僕は。ーー次は、こっち」
自分を先導する為、前を歩くナーサは大きく笑って指示をくれる。
好いている事を隠さないのも、十分正直な気がするけどなぁ。
着いた先は図書館の二階の最奥で、ナーサの実務室を兼ねた研究室だという話だ。
部屋の中には、ただただ本が山の様に積まれている。
「ナーサさんは、ここで何を研究してるんです?」
指示された所(本の上に本を置いただけだ)に運んだものを置き、気になったので聞いてみる。
「うん、そうだねぇ……。一言で言えば、大いなる根元への探求。と、なるんだが……意味は分かるかい?」
「あ、その……全然分かりません」
「あっはっはっは、そうだろうね。ーーうん、僕みたいな偏屈者がついつい考えてしまう、実にくだらない妄想の類さ……」
何とも言えずに、ナーサを見てしまう。
「まぁ、なんだろう……そうだなぁ。謎の扉の向こう側には、何があるのかを探し続けている。と、言う所かな」
「ん? な、なるほど……ナーサさんは、何かを探してるんですね」
「そう……実際的な意味合いに置いても、そして暗喩的な意味合いに置いても……ね」
片目を瞑り、人差し指を立てて口元に持っていくナーサ。すごく、意味有りげな視線を送ってくる。
「しょ、しょうですか。……あの、大変ですね」
噛んでしまった。この話題は、もう出さない方が良さそうだ。
「そ、それじゃあ。ーーボクは戻りますね、部屋に」
「うん、分かった。本を運んでくれてありがとう、忘却のアルル君。ふふっ……案内は必要かな?」
「いや、流石に……大丈夫ですよ」
ナーサは意地悪そうに微笑んで、手を振った。
「じゃ、じゃあこれで……」
「あ、そういえば。君は今日はどの位、ここに居るつもりかな?」
「あぁー、そうですね……昼を過ぎたら、南区の方に復興の手伝いに行こうと思ってます」
「ああ、なるほど……分かった。それじゃあ、昼ご飯は一緒に食べよう。いいかな?」
「あ、はい。もちろん」
手を振って答える。
そして。
ちゃんと道に迷ってしまった……
はっと振り返ると、隠れて付いてきたらしい、ナーサを発見してしまう。
暗がりに、大きな丸眼鏡がきらりと光って丸わかりだ。
くつくつと体を震わせて、笑いを堪えているように見える。
「くっ……あ、その。ーーもし良ければなんですが……部屋に案内、を……して貰えないでしょうか……ナーサさん」
「ぷふっ、……や! また会ったね。もちろんだとも。くふっ……君の頼み事なら、お安い御用さ」
めちゃくちゃ笑いを堪えている。
この人は、本当に……たまに意地悪だ。
部屋に戻って、ナーサが置いてくれてた書物を読む。
どの位の時間が経ったのだろうか。
ちらりとすぐそばの柱時計に目を向ける。
もう、お昼か……
目頭の上らへんを、指で摘んで揉みほぐす。
そろそろ、昼ごはんでも食べるかな……
「やあ、どうだろう捗っているかな?」
タイミングを測ったように、ナーサが部屋に入って来た。
「うーん、捗っているのかいないのか……でも、丁度昼ごはんを食べようと思ってた所なので」
「うんうん、まぁ焦らずに読むといい。ーーでは、僕もお昼にするから一緒に食べようじゃないか」
「はい、ナーサさん」
ナーサに連れられて、図書館の中庭に移動する。
そこには長椅子が置かれていて、ささやかながら庭園にもなっているようだ。
そこに二人で腰を掛けて、ナーサは自作の弁当を広げた。
自分も、アイーニャに作ってもらった弁当を広げる。
「はは、相変わらず君のお弁当はいつも豪勢だねぇ……それも君が言っていた、エルフの子の作品かい?」
「あ、そうです。普通でいいと言ってるんですが、結構頑張ってくれるんです。アイーニャっていいます」
「ふふ、愛されてるねぇ忘却のアルル君は」
「ナーサさん、やめて下さい。そんなんじゃないですよ……アイーニャが良い子なだけですよ」
忘却については、もう否定のしようも無い。
庭園の中央に、小さな噴水があって、水をちょろちょろと出し続けている。
中庭は吹き抜けにもなっているので、陽の光が水に反射して、きらきらと綺麗だ。
「そうかい? ……まぁいいさ。いつかその子にも会ってみたいな。エルフなんて見た事がないからね。ーーあぁ、あと赤い髪の友人もいるのだろう? そして、猫も居ると……」
「それでは今度、連れて来ますよ。アイーニャが良ければですけど。あと、マーコも。ーー赤い髪の方は、あまりおすすめはしませんけどね……多分うるさく思いますよ」
「ふふ、そうかい。まぁ、楽しみにしとくよ」
ナーサはフォークを使って、レタスとハムを刺して口に運ぶ。
自分も、アイーニャお手製の肉まきにフォークを突き刺して、それを頬張る。
口の中で、肉汁が弾け。旨みが、口の中に広がった。
冷めてもこの味って、……改めてアイーニャの料理の腕はすごいな……。電子レンジなんてないから、温めない事が前提なのに……冷めても美味い。
「そういえば、どうだい? 南区の復興の方は……。君は兎に角、有能だと聞き及んでいるよ?」
「ああ、いえそんな……。ボクにできるのは、指示に従って物を運んだり、片付けたりですから」
一体、誰から聞き及んでいるのだろう……。友達いなさそうなのにな……
「いや、大したものだよ君は。僕の生家は、南区よりでね……何人かの知人は今回のことで死んでしまったんだ。そう報告を受けている」
「えっ…………? あの……す、すみません」
「なんで君が謝るんだい? ふふっ、あれは天災だよ。突然降って湧いた……ね。ーーだから君が謝る事なんかないんだよ。むしろ、復興に尽力してくれているだけでも、僕は君になんてお礼をしたらいいか……」
「いえ、そんな……」
なんとなく心が痛い。おじいさんが脳裏に蘇る。エルフの国の惨状も。
心臓がびくんと跳ねた気がした。
実際に、南区の瓦礫の山を見た時には変な汗が出てきて。その場で、何か手伝えないかと方々回って聞いた。
手に、じっとりとした冷たい汗が滲む。
あの時の様な、変な汗だ。
何となく、寒くなってきたような気がしてきた。
と、思っていたら。
ふわりと自分の頭に温かい何かが覆い被さる。
ナーサだ。
ナーサが、何故か自分の体を包むように、抱きしめて来たのだ。
いや、自分がそっちに倒れたのか……?
「ナーサ……さん?」
「君が何か重いものを、抱えながら生きているのは……見ていれば何となくわかる。それを僕は、どうにもできないし。もしかしたら、誰にも出来ないのかもしれない。でもね……僕の育った街を、頑張って救おうとした君に、僕は心からお礼を言いたいんだ。ありがとうアルル。君は間違っていないよ」
ナーサの心臓の音が聞こえる。
どくどくと脈を打って、頭の奥の方に響く。
女性に頭を抱かれている事に、かなりの気恥ずかしさは感じる。
感じるが、体の寒気は何処かに去っていた。
「すみませんナーサさん……なんか、ぼーっとして体がそっちに倒れちゃいました」
ナーサの腕から離れて、残りの弁当を勢いよく喉にかき込んだ。
「……君ってやつは、全く。カツの言う通りなのかな……ふふっ」
「えっ? ……カツさんですか?」
「ああ、すまない。敢えて、黙っていたのだけれど。ーー僕の所属する組織は、カツサム・イトゥヌの所属する組織と、大元は一緒なんだ。彼の方が、僕よりは先輩なのだけれどね」
「え……あ、そう……なんですね」
なんだ!? どういう事なんだ……?
「まぁ、だから君が実は、この街。ひいては、この国を救った英雄なのは知っていたんだ。ごめんね、黙っていて。何となく言い出せないままに、君を見てるのが楽しくなってしまってね」
考えがうまく纏まらない……
「あ、いえ。……ただ驚きました。カツさんと、知り合いだったんですね」
「まぁ、そうだね。ああ、でも。ーー安心して欲しいのは、図書士というのも、ここで仕事をしているのも嘘ではないよ。もちろん……君に心より感謝をしてる事もね」
何と言って良いかがわからないから、言葉に詰まってしまう。
「さて……僕は仕事に戻るとするかな。君は……どうする?」
「あ、はい……南区に行きます」
ナーサは前髪を揺らせて、微笑む。
「ふふ……君は本当に。ーーいや、何でもない。そうだ、キスをさせてくれ」
「えっ、なんでですか!? 急に……」
「何となく……かな」
「いや……流石に悪戯が過ぎますよ、ナーサさん」
「ちぇっ……」
ちぇっ!?
ナーサ・ミ=ショーオという女性は、本当に何を考えているのか分からない。
次もまたよろしくお願いしますと、ナーサに挨拶をして図書館を後にした。
大体の方角を見て、南区を目指すべく足を前に出す。
今日は、ちゃんと早めに着けるといいな……
踏み出す。
昼下がりの街並みは、食後の休憩の為か人もまばらだ。
「……」
特に、独り言を言う癖は無い。
「……」
黙々と、目的地に向かっている。はずだよなぁ……迷ったら、迷ったらだ。
流れる雲に沿って、何の鳥なのか。気持ちよさそうに、一羽、二羽と、遠くに見える。
右に左に、寄っては返す波の様だ。
一つ、気になっている事がある。
もし……もしも、だけれど。
もし、自分がいるだけで厄災に繋がっているのだとしたら?
そういう運を、自分が引き寄せているのだとしたら?
もしそうなら……オレはどうしたらいいのだろうか。
寒くも無いはずなのに、身震いがして。
両手で自分の肩を抱く。
あの丸眼鏡の女性の体温は、現実感を伴って確かに感じる事ができるのに。
彼女の体温が思い出せない。
彼女と重ねた、唇の熱さが思い出せない。
彼女と過ごした、ひだまりの様なはずの景色が思い出せない。
ふと気付くと、また見た事が無い場所に出てしまった。
オレは一体、何処にいるんだ?
何処に向おうとしているんだ?
今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪える。
すると不思議な事に、ルビーやアイーニャやマーコ達が、脳裏に浮かんで来るのだ。
溜まった涙は、少し引いて。
体も若干、暖まった様な気がした。




