「亡国の英雄」003
「霊峰シヴィルオの謎の災害から、もう三年か……」
ふぅ、とキコの葉で歯を磨きながら、老人はひとりごちる。
「早いのか、早くないのか……。っがららら、んくっ――ぺっへっ」
歯磨きを終えた老人は、頭髪にわしわしと手櫛を入れた。
前は年相応に少し後退しているが、後ろ髪は肩まで長い白髪だ。それを、後ろで結ってから、顎髭をわしわしと手で触り汲んである水で顔を洗う。
そこから体を伸ばす日課の体操に移行して日光を十分に浴びる。
老人の名はハロック=エルセフォイ。この極寒の地域、アルゼリア公国に席を置く仙人である。
あの日。三年前の霊峰の災害時に、異変をいち早く察知したハロック。(たまたま近場に居たのもある)
早馬で国に伝令を出すやいなや自ら単身、霊峰シヴィルオに向かったのだった。長年のカンが、早急に対応しなくてはいけないと。警鐘を鳴らしていたからに他ならない。
そこは見るも無惨な有様で、ハロックは絶句する。
山の形は辛うじて保たれているが、地面は抉れ木々はなぎ倒されて燃えていた。
なにより霊峰シヴィルオの、一種の神聖ささえ感じるあの真っ白な雪がどこにも見当たらない。
代わりに地面は、所々火を宿し、空にあるはずの雷がそこら中に奔っていた。山肌を迸っている。
そして、命の気配が何一つ感じられない。
否。一つしか感知できなかった。
「この有様は一体何だというのじゃ!」
ハロックは驚愕と共に、感知した唯一の生命反応に向かっていく。
まだぐつぐつ煮えた様な地面に裸の赤子を見つける。
この現状を生き延び、眠っている赤ん坊に驚愕し、とにかく保護を優先した。
その赤子を自らの養子にして、三年の月日が経つ。
「おじいさん、おはようございます」
「おお、アルルや。おはよう」
アルルと呼ばれたのは、三年前に保護し、養子縁組をした赤子であった。
アルルは、決してたどたどしくは無い口調でハロックに朝の挨拶をした。
「今日は何を学びたいんじゃ?」
「今日は近隣の国についての歴史を学べたらと思っています」
すごく流暢にアルルはそう言った。
「む――。そ、そうか……では、書架の二番を見ると良いぞ」
「ありがとうございます。おじいさん」
丁寧に頭を下げて感謝を述べるアルル。
――二歳ごろから普通に喋っていたが……未だに慣れんのぅ。
子供が居たことのないハロックは、いまいち分からない領域ではあると、認識はしている。
しかし、子供たちとの交流の場は、友人知人を通してそれなりに多いと自負があった。あったが、この低年齢でこんなに喋れるものなのか。
――こんな感じではなかったはずじゃよなぁ……。
アルルが話し始めたのは、二歳になったばかりの頃。その時は子育てに四苦八苦していたハロックが、なんとか子供をあやすのに慣れてきて、頭をよしよし撫でていた時である。
「あ、ああ……あ。ぁ……ん。いけそう。――あの、ちょっとよろしいですかおじいさん?」
「……へ?」
ハロックの齢60年の人生で。
あんなに間抜けな返答は無かった。
驚かせてすみませんとアルルは続けて、ここは二ホンではないのですかと聞いてきたが、ここは二ホンではない。と、返すのが精々のハロックであった。
それからしばらくは、アルルは嘘みたいに口を噤んだが、程なくして毎日の食事をハロックに感謝してこう続けた。
「おじいさんは二ホンって国を知っていますか?」
「そんな国は知らんなぁ……」
――二ホンって国の名前だったんじゃな。なんて思ったハロックは一応聞いてみた。
「霊峰シヴィルオの災害は何ぞおぬしと関係あるのかのぉ?」
「霊峰シヴィルオ……ですか。その……何ですそれ?」
一応の会話にはなってハロックはちょっと安堵した。なぜなら自分の幻聴なのかと。もしくは自分はもうとっくに痴呆にでもなったのかと思っていたからだ。
そしてぽつぽつ話すアルルの言葉を要約すると。
どうやらアルルはアルルではなく、違う人間で。
二ホンという国のトーキョウという所から来たので、そこに帰りたいという事であった。
正直よくわからないと言ったハロックに、未満児は目に見えて落胆した。
――た、ため息ついてる。はぁってあからさまに落胆しておるっ……。
ちょっと涙目にハロックはなったが、なんとか持ち直し。
明日は何が食べたいか聞いてみた。
「ではアルルや。霊威浄化に行ってくるよ」
「はい、おじいさん。気をつけて行ってきて来てください」
「うむ。昼食は――」
「大丈夫です。自分でできますので」
――食い気味に言われた。三歳の子供に食い気味に言われてしまった。
「う……うむ。では」なんとなく悲しい気持ちになりつつハロックは霊威浄化に向かう。
霊威浄化――これはハロックが三年前からの毎日の日課であり。
公国からのれっきとした仕事として請け負っている。
霊峰シヴィルオのあらゆる命が滅した災害。その二次被害を食い止めるための霊威浄化。
災害などの理不尽に晒された魂は、怨念を伴いやすく悪霊や悪魔。アンデッドが生まれやすくなる。
それが人を襲うのを食い止めるためには、浄化をしなくてはならない。
しかも山全部の命であるから、その二次被害は想像を絶するものになるとの予測は容易であった。
その為、ハロックは霊峰シヴィルオの麓に簡易的な神殿を立てて、そこを事務所兼自宅にアルルと暮らしている。
公国側からの勅命として、そこに常駐し事態にあたっているのだ。毎日。
仙人とは敬称としてのもので実際の肩書は、アルゼリア公国の第一神官局局長である。
「では、かかるか……」
ハロックは麓の神殿兼自宅より霊峰を三合目まで来た所で足を止め、アルルに作ってもらったお弁当。
未満児に作ってもらったお弁当に若干の複雑さを覚えながら、ちょっと幸せな気持ちにもなって微笑むハロック。
むき出しになった、ちょうど良さげな岩に置いて仕事を始めた。
「子がいる。……というのは良いものなのじゃな……」
そうひとりごちて浄化の呪文の詠唱に入った。
アルルが六歳になった頃、ハロックに相談があると言ってきた。
「ここの書架で色々勉強させて貰ったのですが。どうやらオレの……いえ、僕の知りたい情報はなさそうだと判断しました」
――目上に対する気遣いでオレを僕に切り替えた……。できる子じゃなぁ……。寂しいなぁ。
「なので日本に戻る方法を探しに旅に出ようと思うのですがよろしいでしょうか?」
――もっと寂しい事を言ってきおったぁ。
「ま、待つのじゃアルル。お前はまだ六歳じゃぞ!旅などとはとても看過できん」
「僕は一刻も早く帰らないといけないのです」
「お前がずっと二ホンなる国に帰りたいのはもちろん知っておるが、何をそんなに急くことがあるんじゃ?」
「えっ……」言い淀むアルル。
「え?」
「あの……その。……愛。……愛する人がいるのです」
――愛する人がいた。六歳の子に愛する人がいた。
「愛する……人がおるのか……。う、うむ。そうか……その人はいったい誰なのじゃ?」
「オレのっ。……ぼ、僕の妻なのですが」
――六歳の子に妻がおるの!?ワシにもいないのに!?というかいつ結婚したんじゃ!?
ハロックはアルルの話すことは、一応信じようという気持ちを持ってこの数年を過ごしてきた。解らないなりに。アルルが嘘を言うような子では無いと、曲がりなりにも一緒に暮らしていて十分承知しているからだ。
なのできっと頭のいいアルルは、生まれた直後からあの霊峰に行き着く間の何処かで結婚したのだろう。と、そう結論づけることにした。無理やりに。そう思うことにした。
「う、うむ。そのー……なんじゃ。妻がいるのはわかった。だがやはり看過できん」
「おじいさんっ」
右手で制してハロックは続ける。
「いいかアルルよ。妻がおってもそれは急ぐ理由にはならんぞ。アルルはやはりまだ子供じゃ。多少腕力や頭が良くても生きてく術には程遠い」
アルルは腕力が並では無かった。肉体の強度でいえば、育て親の欲目を抜いても、ハロックが見た事もないほどで。伝説の英雄譚に聞く、英雄そのもののような肉体強度であると感じていた。
実際アルルは、大の大人の倍はあろうかという木桶を持って、ハロックの為によく水を汲みに行った。それも一刻を待たず持って帰ってくる。普通であれば屈強な大人でも、この麓から公国管理の近場の水場までは、往復で四から五刻半はかかるだろう道のりだ。
「しかしっ」
「待つんじゃアルル。決して出てはならんと言っておるわけではない。条件を付けたいのじゃ」
「……条件……ですか」
「まず剣を覚えよ。そして魔法も覚えるのじゃ。生きていくのに腕力では無理なのじゃよこの世の中は……聡明なお前ならワシの言わんとしておることは分かるな?」
「それは……。はい」
神殿の自宅部分の居間の机に対面して座っている。アルルは膝の上の拳をさらにぎゅっと握ってうつむき加減にうなずいた。
「もう一度聞く。そんなに急ぐ理由が他にあるのか?」
「……いえ。実は分かりません。正直よく分からないのです。自分の状況が。妻に会いたい気持ちも、何も分からないもどかしさも。全てが。こうしている今も常に焦ってしまって……っく」
初めて見たアルルの涙に、ハロックも少し泣きそうになってしまった。
――そうか……。超然として見えたのはこの子なりに気を張っていたのかもしれんな。そして初めてアルルの事が、少し分かったような気がするハロック。
「アルルよ。急ぐ理由が焦っているだけと言うならば……。わかるな?」
「はい……。急ぐ理由は。……特になかった。……です。」
「ならばワシの全てでお前に生きる術を教える。正直六歳にはとても無茶な話なのじゃがな。本来なら……しかし、お前ならできるじゃろう」
「はい。お願い致します。……そして、ありがとうございます。おじいさんの優しさはとても深く感じております。……まるで自分の子供の様に思っていることも。ほんとは僕に出て行って欲しくないけど、僕をちゃんと尊重するならワケの分からない事を言ってもちゃんと聞いてあげようと。ずっと葛藤しててくれた事も。……ありがとうございます。僕も……ほんとの親の様に思っています」
ハロックは無言で上を見つめていた。溢れそうな何かが、上を向いていないと零れてしまいそうになったからだ。
――ちゃんと見てんじゃん息子よー!……幸せじゃ。
ここよりハロックはまだまだ終わらない霊峰の浄化の合間に、自分の生きてきた知識や技術を、アルルに教えるようになる。
しかしハロックは知っているが、アルルが知らない事が一つ。
ハロックの寿命は、もうそんなに長くはないという事だ。
浄化するべき山は、今や属性が変わってしまって帯電する山になっている。雷属性の山へと。
その属性の耐性を持つものは、それこそ英雄か勇者。一部の伝説級の魔物や魔族にしかいない。
雷属性のその山は徐々に。ゆっくりとだが確実にハロックの体を蝕んでいた。
四年か五年。悪ければ二年。
ハロックはそもそも、六年前にこの仕事は自身の命を縮めてしまうだろう事を知っていた。
否、長年のカンで何となくわかったのだ。
そして覚悟もその時に決めている。命を賭してもここの浄化はするのだという覚悟を。
なのでそもそもアルルには自身の全てを教えて、生きる術を身に着けさせようとは思っていた。
考えたよりもいささか早かったが。
終わりに近づいている自分の人生だが。悪くない。
実に悪くない。――そう思える自分に自然に笑みがこぼれた。