第四部 2章 魔王の蠢動…… 012
「おーい、アイーニャ! 待ってっ、どうしたんだ?」
アルル達は、風が止まったとうわごとの様に繰り返し、宿屋の外へ飛び出すアイーニャを追う。
アルルの治療の為に、相当な体力を使った筈の彼女は、ふらつきながらも広間の扉を開ける。
外の雨が、一気に吹き込んだ。
真夏の湿った空気が、大広間の玄関の広範囲を、一瞬で濡らしてしまう。
建物や道を打つ雨音が、殊更によく聞こえる。
耳にうるさい程だ。
雨の勢いは増すばかりで、跳ね返った雨水が舞い上がり。そして、後続の雨粒とぶつかり、また小さい水の粒となり、霧ほども細かく分裂する。
この街一帯で、それが無限に繰り返されているのだ。
十数メートル先が、霧でけぶって見えない。
「風が……風が、無い……ですぅ……」
アイーニャは何度もそう呟き、打ち付ける雨水に自身の体を晒す。
風は、吹いている。
それに舞って、水の粒がけぶっているのだから。
「アイーニャ! どうしたの?」
追い付いたアルルが、アイーニャの肩に手を当て聞くが。そこでアイーニャは、力が抜けた様に倒れる。
それを間髪入れず支えて、危なげなく抱き止めた。
「ア、ルル、様ぁ……風が、なくなりましたぁ」
「アイーニャ、何を言って……」
風は確かに、この激しい雨にあって若干弱いとは感じる。が、無くはないのだ。
アルルは、何が言いたいのか分からずに、困惑の表情を出してしまう。
弱った視力では、アイーニャの表情を完璧に読み取る事は出来ないので。追いついて来たルビーに、視線を送る。
「アハー、どうしたのさアイー。風? 風はあるヨー?」
「ルビー、様ぁ……違うん、ですぅ。風の……こ、声が……聞こえ、ないんですぅ」
後から続くカツミカ夫妻に、エリスまでもその場で一様に首を傾げる。
「吹き荒ぶ……元型、その溢れる自然力が、聴こえないん……ですぅ」
アルルに支えられ、もたれ掛かるアイーニャ。苦しそうな声を振り絞る様に、皆は一様に推し黙る。
「ありえないん、ですぅ……風の声が、聴こえないというのはぁ。今、ここは……閉じ込められて。何者かに、よって……」
「アイーニャ、もういいから。とにかく、今は休もう? ね?」
吹き荒ぶ元型。エルフの国の妖精王と呼ばれた、羽を生やした幼女を思い出すアルル。
それが、何を意味するのかは分からないが。アルルは、エルフの少女の体の方が心配になってしまう。
「アハー、アイー。シルフィーだよネー、風の……声、か。閉じ込められてる? 結界……フムムム」
ルビーは、何か思案に耽る様に、顎に手を当てている。
「お。おい、アルル」
「ちょ、ちょっと。アルル……?」
「ゾンビ、そんな事より早くアイーニャを。ああ、カツさん、ミカさん。ボクがアイーニャを運ぶんで、広間で毛布と暖かいお茶を用意してもらっても、いいですか?」
アルルは、アイーニャを抱き抱えようと、肩と足に手を伸ばす。
「にゃ? にゃ……おい、アルル……アルル」
「うん? エリス……ちょっと、ごめん。その、アイーニャを早く寝かせたいんだ」
カツサムにミカ、エリスは。揃って同じ方向を見ている。
「ん? アハー、アルルさん……」
遅れて、思案中だったルビーも気付く。
「おい、ゾンビ……ん?」
アイーニャを早く、に続く言葉を発しようとした時。皆が、同じ方向に視線を送っているのに、ようやく気付くアルル。
ソレは、激しい雨の中。真夜中の闇に乗じて、音もなく現れた。
薄い緑に青を足した様な、ひどく病的な色合いの肌。
馬、そのものの様な相貌に。鈍く赤黒い瞳が、何処を見ているのか、ギョロギョロと動く。
前足までは馬のそれだが。下半身は、内臓らしき長い管を集めて、渦を巻いて後方に伸びて浮いている。
そして、全長は建物の三階相当に達するかという程だ。
そんな巨体で、寸前まで誰にも気取られずに、街中を闊歩してきたというのだろうか。
雨音はうるさいし、真夜中でそもそも視認性は悪い。だとしても、その大きさで、誰にも気付かれずに、そこに存在できるものなのか。
そんな疑問と驚愕が一同を支配して、各々が言葉に詰まる。
「にゃ……に、まさか。ケ、水妖魔っ!?」
エリスが何とか絞り出した言葉は、アルルには到底聞き覚えの無いものだった。
「えっ、エリス……? け、ケルピー? って、なに?」
アイーニャを抱えたまま、さらに困惑の表情を作る。
「水妖魔……あれが? 初めて見るぞ、おいおいおい」
「えぇ〜!? アレが、おとぎ話に出てくるケルピーちゃんなのっ、カツ君! えぇ〜、グロい〜! おぇっ、やだった〜」
カツサムとミカは多少の知識はある様だが、実物は初めての様で。思い思いの驚きの顔を表現している。
ミカに至っては、心底気持ち悪そうに顔をしかめた。
多少は知っている者が、驚くのは当たり前だろう。
伝承やおとぎ話で聞く 水妖魔は、川や湖に出てくると相場は決まっているのだから。
それが、街中に現れるなど。どのおとぎ話を紐解いても、見当たらない。
そしてその大きさも、およそ想像していたより、遥かに大きいのだ。
人間よりかは水妖魔に近いであろう、エリスに言わせても。自身が知っているモノとの相違に、戸惑いを隠せていない。
「そんにゃ……ありえにゃい。にゃんだ、この魔力量……」
エリスのそんな呟きなど、意に介さず。
水妖魔は、大の大人三人分ほどの、大きな頭をぶるぶると振って、嘶く。まるで、馬の様に。
そして、その赤黒い瞳をアルル達に向けるのだ。明らかな、敵意の灯火を宿らせて。
「ぎゃぐワァーーーー!」
歪で耳障りな咆哮を放ち、水妖魔の口周りに水の球が集まってくる。
と、その瞬間。
口元から、線状に圧縮された水の刃が放たれたのだ。
それは、地面に突き刺さったかと思うと、勢いそのままに。石畳を綺麗に切断しながら、アルル達目掛けて襲いかかる。
アルルは、アイーニャを抱え。迫りくる水の刃を、右方向に躱した。
ルビーはカツサムとミカを庇いながら、その反対側に飛ぶ。
後方に居たエリスとノイも、水の刃の線上からは逃れた様だ。
水の刃は、誰にも当たる事なく。そのまま地面から、空中に向けて一直線に切り裂いて途切れる。
しかし、アルル達の後方にあった宿屋は、真っ二つにされてしまった。
派手な音を立てて、崩れる宿屋。
「うおぉ、やばかった。助かった、ルビー!」
「ルビーありがと〜! やば〜、何アレ!」
「アハー、水圧カッターですかネー。いわゆルー。アルルさーん?」
反対方向に飛んだ為、アルルとアイーニャは、ルビー達から少し離れてしまう。
「ああ、ゾンビー! こっちは大丈夫!」
アルルは、抱えたエルフの少女の容体を気にしながら、ルビーに視線を投げる。
それに応え、手を大仰に広げて、ルビーはカツサム達の安否を伝えた。
「くそっ、何だあれは……」
真っ二つにされて倒壊した宿屋に、アルルは視線を送る。
ーーくそっ、まだ中に居た人達は、どうなった?
気にはなるが、眼前に立ちはだかる明らかな敵。それが悠長に、アルルが救出するのを見ていてはくれないだろう。
「アイーニャ、大丈夫?」
「アルル、様ぁ……」
未だ勢いよく降っている雨に、全身がずぶ濡れのアイーニャ。ずぶ濡れは、この場にいる全員がそうではあるが。
夏場とは言え、弱った体のアイーニャには毒だろう。
アルルは、自身にかかっている毒の方が、遥かに体に悪い事を忘れて。アイーニャをただただ、心配した。
「アイーニャ、暫くここで。ごめん、すぐに片付けるから」
「そ、そんな……私の事、なんてぇ」
アルルは、アイーニャを優しく、その場に置く。そして、アイーニャと敵の射線上に、自らの体を重ねる様にして、敵の攻撃から彼女を隠すのだ。
数メートル向こうのルビーに、首を傾けて合図を送る。
「アハー、ラジャー。カツミカ、エリスにノイは少し離れててヨー。さっと片付けるからサー」
ルビーもまた、カツサム達と敵との射線上に、自らを盾とする様に前に出た。
「ええ〜、ルビー。そんな、お前一人で……」
「アハー、まぁまぁ。任せてよカツー」
「ルビー、かっこヨー」
「アハハー、ミカはマジで下がっててネー。危ないかラー。エリスも……ネー?」
「にゃ、ふんっ。自分の身くらい、自分で守れるにゃ」
ルビーは、アルルと自分以外では、目の前の馬面の相手は出来ない事を感じている。
赤髪の吸血姫ゾンビは、この世界に来てから結構な年月を重ねているのだ。その位ならば、経験から何となくは察せるのだろう。
水妖魔と相対する、アルルとルビー。守らねばいけない存在を背にして、馬面の妖魔との距離を、じりじりと詰め寄って行く。
と、その時。
『我は魔王……死した月光に、告げる。策は変わった。戻ってこい……』
本日二度目の、魔王の声が街中に響く。もしくは、頭の中に直接に響くのだった。
低く、唸るような圧のある声色ではあるが。まるで、何かの定時連絡か何かだ。
そんな、不思議な呼びかけだった。
つい、辺りを見回してしまうアルル。カツサムやミカ達も、それは同じ様でキョロキョロと頭を動かす。
「死した月光?」
アルルは、自然とそこに引っかかる。
「アハー、何だこれ。なんのやり取り……う、ん?」
ルビーは、訝しむ表情で首を傾げた。
アルルと同じ所で、引っ掛かっているのだろう。
「おい、ミカー。取り敢えず、俺の後ろに居るんだ。何だ? 何か変だぞ、これ……」
「ええ〜、カツ君。かっこ良すぎる〜、いや〜ん」
ミカは両手拳を顎に当てて、いやよいやよと頭を振る。
「おい、エリスも気をつけろ。何か、変だ。ノイ、お前も……ノイ、おい。ノ……イ……」
カツサムはここで、今まで一言も発していない者の存在に気付く。
その者が、口を開いた……
「あはは〜、カツ先輩。そうっすね、何か変……っすよねぇ〜」
連邦捜査官で、カツサムの後輩。ノイ・ジーが、歪んだ表情で、久方ぶりに言葉を吐く。
会話に参加するのは、実に数時間ぶりだろうか。
朗らかに、いつもと変わらない調子で。歪に喋るのだ。
「おい、ノイ……な、何を……やってる? おい……」
カツサムはゆっくりと振り返って、自身の後方に置いた筈の最愛の者を見る。
「かっ……カツ、君?……ごふっ」
ミカの口からは、大量の血が吹き出していて。そして……
腹からは、手が生えている。
否、ノイ・ジーの手で腹部を貫かれていた。
「あっはっはっは〜、何か……変。っすよね〜」
ノイは、貫いた腹部から自身の手を引き抜く。
大量の血が、雨に混じってどっと流れだす。
支えを失い、自立出来なくなったミカは。その場に、糸の切れた人形さながらに力無く倒れた。
全ての時間が、遅く。ゆっくりと。
激しく打ち付ける雨音が。
赤く染まって広がる雨水が。
全てが、ゆっくりと。流れる。
流れる様だった。
アルルは、数メートル先のその光景を、ただ目を見開くのみで。歩みを止めている。
「えっ……」
自身から漏れ出た声にも関わらず、認識は出来なかった。
未だ降り続く、無慈悲な驟雨にかき消されたからだ。
石畳が、少しずつ。
だが、確実に赤く染まっていく。
流れ出る命はもう、戻らない。
ミカ・イトゥヌは、今日。その短い二十年ちょっとの人生を、終える。




