プロローグ
俺は今から自殺する。いじめかって? いや、違う。俺はいじめに合うほど学校のやつらに興味を持たれていない。だが、別にそれはいい。だって俺も興味ないからな。
そもそも俺は学校のやつらだけじゃなく、人間そのものに興味がない。だってそうだろ? 醜い生き物に興味を持つことなんて無理だ。醜いっていうのは、抽象的な話をしているんじゃないぞ。人間は裏切るとか、自己中心的だとかそういうことじゃない。言葉通りそのまんま、見た目が醜いって話だ。
俺は、すべての人間が――醜く見える。学校でかっこいいやら可愛いやら言われてるような人間はもちろんのことテレビに出ているアイドルや女優、タレントも俺の目には醜く映る。
人生で一度も、美しいと思える人間を見たことがない。
だが、それでも、俺は16年なんとか生きてきた。人間に興味を持つことはなかったが、自然や動物は美しいと思えた。それになにより、俺には夢があった。
その夢さえあれば、俺は生きていける。そう思っていた。
しかし今日、それが潰えた。俺が人間に興味を持てない、という理由でだ。
夢を失った今、もう生きている意味はない。死のう、そう決めて今に至る。
目の前には天井の梁からぶら下がっているロープがある。俺の残りの仕事は、このロープで作られた輪っかに首を通して、椅子を蹴るだけ。簡単だ。
不思議なことに恐怖はあまりない。というより、絶望の方が大きい。
俺はまるで神聖な儀式をするように、ゆっくりとロープで作られた輪っかに首を通した。
願わくば――来世は、みんなと同じように……いや、だれよりも人間を美しいと思えるような人生を歩みたい。
「さよならだ」
俺は一言そういうと、今までの人生にケリをつけるように思いっきり椅子を蹴った。椅子は勢いよくドンッという音を立てて倒れた。
一気に首に全体重がかかる。ロープが喉に食いこみ、息ができない。想像以上の苦しみが、俺に襲い掛かる。苦しい……口が勝手にパクパクと開いて空気を求めている。
俺はもがくようにして、ロープに手をかける。なんとか逃げ出そうと必死にロープを掴み外そうとするが、当たり前だが抜け出せない。
あれほど死のうと絶望していたはずなのに、いざ死に直面してみると、本能的に必死に死抗している。さっきまでは死ぬのなんて怖くないと思っていたが、いざ死にそうになると、とにかく怖い。恐怖と苦しさで頭がいっぱいになる。
――死にたくないッ!
そう強く思ったその瞬間、
「お兄ちゃん? なんか変な音したけど……」
妹が俺の部屋の扉を開けた。
「……ッ!」
首をつって暴れている俺を見た瞬間、妹は完全に言葉を失って一瞬フリーズした。
「――嘘でしょ、待って待って」
完全に混乱した様子で「どうしよどうしよ、どうしたらいいの?」と周りをきょろきょろ見渡して、声は今にも泣き出しそうだ。
だが、妹は俺の机に目をやるとハッとして、机の方までダッシュした。慌てているのと動揺しているので、途中足がもつれてこけていた。それでもすぐに起き上がり机の上のカッターナイフを手に取ると、倒れた椅子をサッと起こし、素早くその上にのぼって俺のロープの縄を切った。
ロープが切られた瞬間、俺は勢いよく落下した。もちろん、すぐそばにいた妹も巻き込んでものすごい音を立てながらひっくり返った。俺はその拍子に思いっきり頭を床にぶつけてしまった。
倒れていた椅子を俺の足元に置いてくれればそれでよかったんだが、妹も混乱していたんだろう。そりゃそうだ。扉を開けたら自分の兄が首を吊っていたんだからな。むしろ、よくカッターナイフを見つけたよ。まあ、俺の机にはだいたいカッターナイフは出しっぱなしにされているから、それを覚えていたんだろうな。
「お、おにいちゃん! 大丈夫!?」
俺よりも早く身体を起こした妹が、ゆっさゆっさと俺の肩を揺さぶる。さっきぶつけた頭がその揺れに合わせてガンガンと傷むが、大したことはないだろう。
とにかく、俺は助けてくれた妹に感謝の言葉を述べようと思ったが口を開くとまずは「ゴホッゴホッ」と咳が出た。何やら目もかすんでいて、うまく妹の姿も見えない。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
妹の声が震えている。もしかしたら泣いているのかもしれない。
俺は早く大丈夫な姿を見せなければと、落ち着くために大きく深呼吸した。空気がうまい。空気が吸えるってただそれだけでこんなに素晴らしいのか。少し落ち着くと、かすんでいた目もはっきりと世界を映し出した。
目の前には、妹……。え? 妹? これ、妹か?
「か、可愛い……」
そう目の前には、めちゃくちゃ可愛い女の子がいた。その可愛い女の子が俺のことを心配そうにのぞき込んでいる。
「は!?」
「いや、可愛いだけじゃない。美しさも兼ね備えてるな。だけど、やっぱり可愛いって表現の方がぴったりだ」
「何言ってんの、お兄ちゃん」
目の前の可愛い生き物が俺のことをお兄ちゃんと呼んでいる。つまり、やっぱり俺の妹だということになる。確かにそういわれてみると、若干面影はあるな。
キャミソールと短パンから出たスラリとした手足に、小さな顔。目はぱちくり大きく、幼いながらもどこか凛とした表情。つやつやの黒髪を後ろでひとつにまとめている。
だが、これだけ可愛いというのに、なんというか性的魅力は感じない。それは、まぎれもなく俺の妹という証拠だとも言える。
「お前、由香だよな?」
「そうだよ、由香だよ? お兄ちゃん、おかしいよ。頭でも打った?」
「頭は打ったが、おかしくはない気がする」
「いや、おかしいって! あたしのこと、いっつもブスって言ってたじゃん! ちょっと自分の名前言ってみ?」
「泉 功基。16歳。血液型はA型。家族構成は父母妹ひとり。常盤高校に通う高校二年生。合ってるか?」
「……合ってる」
妹は不思議そうに茫然とした様子で俺のことを見ている。話しているうちに頭の痛みも取れてきたので、俺は身体をゆっくりと起こした。まだ少し頭はズキズキしているが、それ以外に痛むところはない。
ふと妹の方に目をやる。
「おい! お前怪我してるぞ!」
俺は慌てて妹の腕を取った。妹の細い二の腕あたりから、血が流れ出ている。
「え!? ほんと?」
妹はそれに今気づいたようで、自分の二の腕にちらりと目をやった。
「ああ、こんくらい大丈夫大丈夫。落ちたときに、カッターで切っちゃったんだね」
「大丈夫じゃないだろ! お前のこの白い美しい腕に傷が残るかもしれないんだぞ! とにかく、まずは洗って消毒するぞ!」
「あ、ちょっと、お兄ちゃん」
妹が怪我したのは紛れもなく俺のせいだ。もし傷が残ることにでもなったら……。
命の恩人に対して仇で返すことになる。
とにかく俺は急いで、洗面所に向かった。妹もとまどいながら付いてくる。
なぜ妹が突然可愛くなったとか、そういうこと考えるのは後回しだ。
洗面所に到着し、俺はすぐに水栓のレバーを少しだけ上げる。うちのは蛇口の部分がシャワーヘッドになっていて、そこを掴んで伸ばすことができるので、俺がそうすると妹は血を洗い流しやすいように、怪我をした二の腕を洗面台の上にすっと掲げた。
シャワーヘッドからはちょろちょろとした水が出てきて、血を洗い流している。あらかた綺麗になると傷が見えた。幅3センチぐらいの浅い傷で、もうとっくに血は止まっているようだった
俺は少しだけほっとする。
「ね? もう大丈夫だって言ったじゃん」
「……いや、でも一応病院行っとくか?」
「こんなので病院行くわけないでしょ! ていうか、病院に行かなきゃいけないのはお兄ちゃんなんじゃない? ほんとに大丈夫なの?」
「俺は大丈夫だ。とりあえず、消毒液持ってくるからちょっと待っとけ」
そういって、シャワーヘッドを蛇口に戻す。思ったよりも傷が浅いと分かって、少しだけ冷静になった。
……そういえば、まだ妹にお礼を言っていない。
本気で死ぬ気だったが、いざ死にかけるとマジで怖かったし苦しかった。死にたくない、と心の底から思った。
もし、妹が来てくれなければ……ゾッとした。そもそも、俺は妹とはここ数年まともに話していない。これだけ会話したのは久しぶりだ。小さいころなんて、妹に「ブス」と言っていた記憶しかない。
それなのに、何か変な音がしたから、という理由だけで様子を見に来てくれるなんて……。
俺はぐっと顔をあげて妹の顔を見ながら言った。
「由香、本当に助けてくれてありがとう。お前が部屋に様子を見にきてくれなかったら俺は……」
妹は照れたように少しだけ唇を尖らせると
「今日お兄ちゃん帰ってきたとき、死にそうな顔してたから。ほんとに死んじゃうじゃないかって心配だったんだ」
と言った。
はにかむような顔も可愛い。まさか、妹がこんなに可愛かったとは。それに、ずっと話さなかった兄を心配してくれたなんて、心も美しい。やさしさと美しさを兼ね備えた自慢の妹だ。今までずっと興味なかったから、こんなに素晴らしい妹をもっていることに気づけなかったよ。
「まさか妹が可愛いうえに優しい天使だったとはなあ。まいった」
「な、何言ってんの!? もういいから、ほら、さっさと消毒液取ってきて!」
「あ、ああ」
妹は焦ったような口ぶりで、俺の背中を押す。顔は少しだけ赤らんでいる。照れてるのか?
まあ、確かに消毒は早くした方がいいだろうから、俺は妹の言う通りさっさと消毒液を取りに行こうとした。
だが、礼も言ってやっと落ち着いたおかげか、ふと周りの景色が気になった。というより、正確には洗面台に付いている鏡。それに違和感を抱く。何かがおかしい。
何がおかしいかって? その鏡には当然だが人物が二人映されている。一人は可愛い妹。だが、もう一人は見知らぬ人物。そう、知らない人間がそこには映し出されていた。
「……このイケメン、誰だ?」