初海
「ごめん、また説明するの忘れてた」
車を降りてきた豊増さんがすまなそうに右手を顔の前で立て、謝ってきた。
「マサさん、意外にそそっかしいのよねぇ。まあ、いつものことなんだけど、照ちゃん、今、病院に行ってるの」
「病院ですか……」
二人の様子から、ばあちゃんに何かあったわけじゃなさそうで、ほっとする。
「え?病院?遠岳のばあちゃん、病気か怪我でもしたのか?」
荷物を運び終えた先輩たちが、病院という言葉に反応して気づかわしげな表情で戻ってきた。
「あら、洋ちゃんのお友達?こんにちは」
「「「こんにちは」」」
先輩たちと磯村のおばちゃんと豊増の息子のマサさんが改めて簡単に自己紹介をしあう。和やかな空気になったが、磯村のおばちゃんが笑顔を引っ込めて、ちょっと困ったように眉を寄せた。
「それでね。照ちゃんなんだけど。看護師の千春ちゃんがヤギと激突して崖下まで落ちちゃって。照ちゃんに病院からお呼びがかかっちゃったの」
「今、島にいるお医者さん、春に着任したばかりの若い先生だから、照子さん、今日一日は病院から戻ってこれないんじゃないかな」
マサさんも事情を知っているらしく補足の説明をしてくれた。
「そうなんですか。千春ちゃんは大丈夫なんですか?」
「あの千春ちゃんよぉ。大丈夫に決まってるじゃない。ヤギのほうが心配なくらいよ」
千春ちゃんは色んな意味で有名な看護師だ。崖から落ちたくらいでは心配するだけ野暮な人物だ。
「状況が分からねえんだけど……、照子さんっていうのは、遠岳のばあちゃんなんだよな?」
将さんが困惑した顔で尋ねてくる。
「はい、遠岳照子。ばあちゃんのことです。ばあちゃんは少し前まで看護師として働いてたので、病院で人手が足りないときには呼ばれるんです」
「看護師か!やっと事情が呑み込めた」
「遠岳のばあちゃん、看護師か。なんか大変そうだな」
伊与里先輩と宮さんもやっと状況が理解できたみたいで、ほっとした表情に変わった。
ばあちゃんの状況は分かったけど、病院にいるなら連絡を取るのも難しいな。今日は会うのは無理かなぁ。
「それじゃあ、僕は車を届けに行かないといけないから行くね。慌ただしくてごめんね。また、改めて」
「いえ、忙しいのにありがとうございました」
先輩たちとお礼を言うと、笑顔で車の中から手を振ってくれた。走り出す前に窓からマサさんが顔を出した。
「そうそう、父さんが洋太くんとお友達に用があるって言ってたから、一休みしたら会いに行ってやってくれないかな。ここから見える、ほら、あの海辺にあるモスグリーンの家にいるから」
そう言ってマサさんが指さした方向を見ると、他の建物から離れた場所にぽつんと建つ深緑色の建物があった。
詳しい話を聞く間もなく、マサさんは慌ただしく車を発進させて走り去っていった。
「マサさんはいつも忙しいわねぇ。働き者すぎて、ちょっと心配になるのよね。お父さんのシゲさんを見習って、もっとのんびりできないものかしら」
島の住人らしくのんびりとした気風の隣のおばちゃんには、あの慌ただしさは心配になるのだろう。
隣のおばちゃんも帰り、荷物を運び込んだら、特にやることもなくなる。
「昼、どうする?」
「遠岳、この近くに食堂みたいなのはないのか?」
「何件かありますよ。行きますか?」
島全体が観光地なので飲食店には困らない。
「その前にマサさんの親父さんに会ってこようぜ」
「そうだな。俺たちにまで用があるっていうのは気になる」
伊与里先輩の提案に全員が頷く。忘れないうちに用事は済ますに限る。
ばあちゃんちから坂を少し下ると、すぐに海に行きあたる。
「おおー!スゲー」
「海だぁぁ!」
明るい色の海が目の前に広がる。
「本当に、こんな色の海があるんだな」
波打ち際まで駆け寄っていく先輩たちの後を追う。本島の海ではありえないような鮮やかな海の色は、誰だって胸が弾むよなぁ。
「……水が透明だ。海の水とは思えねー」
「白い砂浜!まさに南の島の海って感じだな。すげえ、眩しい!」
「うおおぁぁぁー!泳ぎて~」
先輩たちが子供のようにはしゃいでる。波打ち際で楽しんでいる先輩たちに釣られて寅二郎まではしゃぎだす。
「うああぁああん」
寅二郎が伊与里先輩に飛びつこうとジャンプする。が、先輩が急にかがんだため、先輩を踏み台にして海へとダイブしてしまった。
先輩たちが海に飛び込んだ寅二郎を呆然と見つめている。
「寅二郎!お前、泳げないのに!」
慌てて寅二郎を助けるために海に入る。
「「「泳げないのかよ!」」」
驚愕した先輩たちの声が聞こえる。バシャバシャ水しぶきを上げて浅瀬でもがいている寅二郎に大きめの波が襲いかかる!
「波にさらわれてるぞ!」
「寅二郎、あきらめて犬かきしなくなってる!」
「早く、引き上げろ!!」
浅瀬から離れてしまった寅二郎を、先輩たちといっしょに何とか砂浜まで引き上げた。
「はあぁ~、小笠原での初の海が、おぼれた犬の救助か……」
「……すみません」
ずぶ濡れになった先輩たちと目を合わせづらい。当の本人の寅二郎はびしょびしょなのにごきげんだ。
「……一度戻って着替えてくるか」
海を見てテンションが上がっていた先輩たちが、うなだれている。水を差されたようなもんだものな。申し訳ない。
「タオル貸すよ」
声をかけられ振り向くと、笑いを堪えるような表情の老紳士が立っていた。




