前日
「どれにする?」
自販機の前でお兄さんが振り返って聞いてくる。断るのもなんだよな。
「梅サイダーを。……あ、あの、ありがとうございます!」
サイダーを受け取り、お礼を言うと、お兄さんが苦笑いと言った感じの表情になった。
「いいよ。お礼なんて、少年のこと利用したんだから。女の子たちがちょっとしつこくてさ。逃げるすきを窺ってたんだよね」
そんな事態に陥ってたのか。大変だな、本物のイケメンは。
「いつもこの公園で演奏してるんですか?」
「いや、ギターを持っているところを、知り合いの女の子たちに見つかってしまって、せがまれて気晴らしがてら弾いてただけだよ」
「そうなんですか。公園に来れば、また聴けるのかと思ったので残念です」
お兄さんが眉を寄せて困ったように笑う。困らせることを言ってしまったのか……
「少年もギター弾くんだろ?」
「え? なんで分かったんですか?」
「指を見ればね、分かるよ」
ギターだこができている自分の手とお兄さんの手を見比べる。お兄さんの方が年季が入っている。
「最近、ギターのすごくうまい人達と知り合うことができて、教えてもらってるんです」
「楽しそうだね」
「楽しいです! 大変なことも多いけど」
上達していく実感があるし、自分以外が奏でる音と合わせて弾くのが何よりも面白い。理解不能なところのある人達だけど、音楽の腕とセンスだけは飛びぬけていると思う。
「オレもそんな時期があったな」
懐かしむような少し悲しそうな複雑な表情をするお兄さんに、かける言葉が見つからない。お兄さんくらいまでうまくなると、ボクとは次元の違う悩みがあるんだろうな。
スマホが鳴る。ボクのスマホからだ。
「ああ、部長! 忘れてた! 部長たちと待ち合わせしてたんだ!」
すっかり、お兄さんの歌声に酔いしれていた。
「用事があったのか。引き留めて悪かったね」
「大丈夫です。カブト虫を見に行くだけなので、部長たちには先に見ていてくれるように連絡入れますから……」
「カブト虫?」
「駅前でカブト虫のイベントがあるらしくて。ボクも詳しくは知らないんですが、伝統文化らしいので。あの、それじゃ、ごちそうさまでした!」
「ああ、うん、楽しめるといいね」
不可解といった顔で見送ってくれるお兄さんに会釈してから走り出す。もう待ち合わせの時間には間に合わないけど、見終わった部長たちに挨拶くらいはできるだろう。
足が軽い。もやもやとした感じがきれいさっぱり吹き飛んでいる。
お兄さんの歌を聴いたからかな。癒されるような歌声だったもんなぁ。
駅前に来たけど、カブト虫の展示なんてどこにもない。
どういうことだろう? 部長は駅ビル内の広場だと言ってたけど……。広場では、民謡コンサートをやっていて、昆虫を展示している様子はない。
張り出されているポスターが目に入る。カブト虫のことが書いてないだろうか?
ポスターを確認しても、『兜武士』と大きく描かれている和装の集団しか載ってない。……ん? 兜武士?
「かぶと……ぶし? ……かぶとぶし……」
……まさか、これ?
演奏が終わり、人が流れていく。その中に部長たちを見つけた。やはり、これのことだったのか。
「部長、副部長、すみません。遅れて」
「よかった。遠岳くん、間に合ったんだ」
部長たちのもとに駈け寄り謝るが、遅れたことに文句を言われることもなく、部長と副部長は笑顔を向けてくれた。
「あの、今の演奏してたのが」
「そう、今話題の和楽器奏者グループの『カブトブシ』だよ。三味線や和太鼓といった和楽器を使いながらも、今までの民謡とは違う現代的でポップな演奏をするって話だったから、三味線を弾くのに参考になると思って誘ったんだぁ」
そういうことだったのか。
「どう? 参考になりそう?」
「は、はい、参考にします」
どうしよう。カブト虫を捜していて、ほとんど聴いてなかった。
部長たちのやさしさが心苦しい。なんで音楽家たちって、奇妙なグループ名をつけるんだろうな? あんなヘンテコな名前、カブト虫だと勘違いしちゃうよ。
次の日、伊与里先輩たちに会ったら、カブト虫の展示なんて、どこにもなかったと文句を言われてしまった。
……見に行ったのか。先輩たち。……昆虫好きだったんだな。
✼
あっという間に、日々は過ぎ去っていく。
明日にはライブで初めて歌う。どうしよう。
よく分からないまま流されて、ここまで来たけど、よく考えたら無謀すぎないか? バンドに参加して一月足らずで、ライブなんて。
「どうしよう。寅二郎」
日向で寝ている犬の寅二郎に不安を打ち明けるが反応はない。半開きの目で熟睡している。牙もはみ出てる。もう少し可愛く寝れないものだろうか。
「あ~、じっとしてると不安でどうにかなりそう」
伊与里先輩に相談できるはずもないし。赤鐘さんや宮ノ尾さんにも無理だ。
こういう時に落ち着くには、好きな音楽を聴くことだけど、体中に明日演奏する曲が渦巻いていて出て行ってくれない。
「ギターでも弾いてようかな」
ギターを持ちベッドに腰掛ける。ライブでやる曲を弾いたら、余計に緊張して来てしまった。
「別の曲、何か落ち着くような曲にしよ」
何の曲を弾こうか考えていると、公園で聞いたアコースティックギターの音色が頭の中で流れ出した。あのイケメンお兄さんのブラックバード良かったな。安いアコギ買おうかな。
お兄さんの真似をしようかと思ったけど、自分の声ではあの空気は出せない気がしてやめた。とりとめもなくギターを弾く。弾いていたら、ほんの数か月前まで弾けなかったフレーズがすんなり弾けた。
「ギターの腕、少しは上達したのかな? 今なら、昔よりあの謎の曲も、もう少し原曲に近い感じで演奏できるかな?」
ばあちゃんの家で見つけた題名の書かれていないCDに入っていた歌。懸賞金まで懸けられてしまった謎の曲を、もう一度正確に歌えたらな。できるなら、原曲をもう一度聴きたいけど無理そうだし。
頭の中にあの曲が流れだす。何年経っても、この曲だけは色あせずに耳に残っている。ボクの歌なんかじゃなく、原曲を聴いたら、誰だって心酔しただろう。
流れる曲に合わせてギターを弾くと、前より近い音が出せている気がした。練習の成果か?嬉しくなって何度も弾いているうちに、時間は過ぎていった。