天宮A子(2)
文化祭前日、午後七時。
学校、小体育館。
私たちお手製の劇場が、射し込む月明かりに照らされている。
明日の開演をじっと息を潜めて待つようなその佇まいに、私はどこか和やかな気分になる。
「いよいよ明日だね。」
「はい。上手くいくと良いですね。」
私と下田は劇場の最終チェックを行っていた。開演自体は明日の午後だが、リハーサルの時間などもあるし、万が一に備えて点検自体は前倒しでやるべきというのが私の考えだった。
最も、こんな遅い時間になってしまったのは本意ではないけれど。
「照明良し。マイク、あーあー…良し。」
「観客席も大丈夫そうです。」
「うむうむ。」
明日。
言葉ではそんなことを言いながら、私にとってはもうそんな事、心底どうでも良いのだった。劇が成功しようが失敗しようが、どうでも良い。
「ねぇ、下田君。」
「何ですか?」
「下田君はどうして勇者に立候補したの?」
下田は動じない。うーん、と少し考える素振りを見せてからこう答えた。
「やりたかったから…?」
「あはは!まぁそうだよね。」
「結局、勇者役は上山君に取られちゃいましたけどね。」
オーディションの日を思い返しているのだろうか。天井を見上げるようにして渋い表情をする。
「まぁでも、今はそれでも良かったと思っています。賢者役も悪くない。」
「勇者ってガラじゃないもんね。」
「天宮さんは魔王、似合ってると思いますよ。」
「叩くよ?」
文化祭準備を通して、下田はそれなりに軽口を叩くようになった。
けれど、まだまだ遠い。
「これでも天宮さんには感謝してます。天宮さんが僕を切り捨てなかったおかげで、クラスの皆さんともほんのちょっと会話するようになりましたし。」
「何、急に。ちょっと気持ち悪いよ。」
あまりに、遠い。
「だから、僕からも、一つ質問良いですか?」
「ん?何?」
そう思っていた。
「天宮さんは、どうして魔王を嫌うのですか?」
どうでもよかった。
思えば、私の目的は最初から――下田が勇者に立候補した日から、ただ一つしかなかったのかもしれない。
心のどこかで叶わないと思いつつ、私はずっと、彼のこの言葉を期待していた。
*
彼の顔を見る。暗がりではっきりとはしない。
けれど確かにその目は、どこか憂うような、思慮に満ちた色を湛えていた。
怒ってみる。軽口を咎めるように。
「どういう意味?やっぱり叩かれたい?」
「これは僕なりの恩返しです。」
傍から見れば、およそ成立しているとは言い難い会話。しかし私はこれで確信を得た。
「…へぇ。そっか。いいよ、続けて。」
下田がこくりと頷いてから、息を吸って、吐く。
「…天宮さんは誰かに否定されたがっている、違いますか?」
私は愉快な笑みを浮かべる。こいつは一体何を言っているのだろう。
「笑えるね。否定されたいって何?もしかして、下田君はそういう趣味をお持ちなのかな。」
「…全力の天宮さんに対抗出来る人間はいません。諸手を挙げて、誰もが貴方を肯定します。」
「それの何が嫌?この世界のどこにもいやしないんだよ。肯定されて悲しむ人間なんてものは。」
「貴方はずっと孤独だった。」
息を呑む。
「正解。」
「だけどね、下田君。その孤独を埋めるのは別に君じゃなくてもいい。いや、はっきり言おう。君じゃ力不足なんだよ。中川君も、上山も、君よりずっと能力の高い彼らでさえ、私を否定できないのだから。」
「違います。僕だから出来るんです。」
下田はおもちゃチャンバラの片割れをこちらに投げる。
「僕は決して、主役だから勇者役をやりたいと思ったわけではありません。演じたいと思った役職が、偶々勇者で、そして偶々主役だった。」
「…だから何?どうしてそれで、君が私を否定できることになるの?」
「どうしたって"主役"になってしまう貴方を、僕だけが、"天宮A子"として理解ることが出来る。」
「僕が、只の"下田D男"である僕だから、"主役"を否定することが出来る。」
大きなため息。渡された剣を拾う。
「正解、だと良いね。」
「でも分からないね。君は結局、否定することが孤独を埋める事だと、本当にそう信じてるんだ?それって滅茶苦茶だと思わない?」
「"主役"の貴方を否定することが"天宮A子"を肯定することに他ならないからです。」
「正解。」
私はそれでも抵抗する。
「それで?答えはもう出たじゃん。私が魔王を――"主役"を嫌う理由。今君が話したことは間違いなく真実だよ。」
「はぐらかすのはやめましょう、天宮さん。」
「貴方は望んで"主役"になったわけではないはずです。皮肉にも、やりたい事をやった結果、"主役"になってしまった。"主役"の貴方もまた、同じ"天宮A子"なのです。貴方は孤独に耐えて、"主役"としての貴方も愛さなくてはなりません。たとえ誰一人として"天宮A子"を愛さなかったとしても。」
「だから、もう一度言います、天宮さん。」
「…うん。」
「貴方はどうして、魔王を嫌うのですか!」
「貴方が愛さなくて、誰が魔王を…"天宮A子"を愛せるのですか!」
やれやれ、こいつは本当に容赦がない。
「…ダメだよ、下田君。そこから先は私の問題だ。」
これは私なりの最後の抵抗だった。
最後まで残った、誰にも譲れない意地。泥にまみれた、私だけの意地だ。
「私が、私自身で答えを出さなきゃいけないことなんだ。」
下田は、ゆっくりと剣を構えて歩み寄る。
私は、拾った剣を構えない。
「でも、ありがとう。」
ぺち、と首を叩かれた。