中川C男(1)
“主役”という言葉が嫌いだ。
俺の人生はどうしようもなく灰色で、眩いスポットライトはそれを暴露してしまうから。
"人はみな人生の主役"なんて綺麗事には泥を。
泥は俺自身だ。
*
五月下旬。
柔らかな日差しに包まれた午後の教室で、俺たちは来月に控えた文化祭の出し物について話し合っていた。
「みんな、演劇をやろうよ!」
高く、澄んだ声が騒がしい教室を貫き、皆の視線が声の主のもとへと集中する。教室は一旦静寂を取り戻し、三十人余りの生徒が次の言葉を待った。
天宮A子。
この学校における”主役”の一人だ。新入生代表挨拶にて、その所作の美しさから登壇するだけでざわめきを呼び起こしたのは伝説を通り越して笑い種と化している。奔放な性格と突拍子もないアイデアが彼女の持ち味であり、このように、それは学校生活において遺憾なく発揮されていた。
また、「”才色兼備の語源“などと囃し立てて懲らしめられる事を目的とするあわれな豚」が一定数その存在を確認されているが、そんな一部の厄介なファンにも手を抜かず、感情を露わにして正面から制裁を下す辺りが、逆に、高嶺の花たる彼女へのある種の近寄りがたさのようなものを弱める一助になっていると聞く。
「今年の文化祭、どこのクラスも演劇をやらないみたいなんだ!これは、チャンスじゃない?」
再び騒ぎ出す教室。
「演劇とはまた急な話だな。何かあったのか?」
畏れ多くもタメ口でそう問うたのは上山B男。
彼もまた、”主役”の一人だ。小学生の頃からサッカーを嗜んでおり、抜群のプロポーションから繰り出される妙技に黄色い声援が止むことはない。加えて、学業に関しても申し分なく優秀で、離乳食よろしく噛み砕かれた分かりやすい解説にバブバブと集る生徒は後を絶たない。
その辺りから形成された広い交友関係および人当たりの良さから、陰と陽の橋渡し的役割をも併せ持つ、文字通りクラスの中心に位置する人物と言える。
このクラスは天宮と上山を中心として廻っていた。
「脚本の本をね、ちょっと読んでみてね。私も書いてみたい!と思って!」
ゆえに――
「なるほど、面白いな。確かにそれは良い案かもしれない。」
ゆえに、上山のこの返答、この瞬間。文化祭の出し物は演劇に決定した。
*
「よし、じゃあまず配役を決めよう!」
何やらバッグから紙の束を取り出す天宮。
「ちょっと待てよ、肝心の内容はどうする?」
「あー、それなんだけどね。」
上山の言葉を受け、天宮はニヤリと白い歯を覗かせると、おもむろに紙を配り始めた。手元に回ってきたそれに目を通すと、役職名と、大雑把な紹介が記されている。
勇者、姫、賢者、魔王、妖精…などなど。役職名とその説明、大雑把な筋書きを読む限り、ファンタジー要素の強い王道な冒険活劇であるらしいという印象を受けた。
「実はもう出来上がってるんだ。今日のホームルームに間に合わせるため、昨日徹夜で書き終えた!」
自慢気に、かつどこか照れ臭そうにそう言いながら、黒板に殴る様に役職を書き連ねていく。
「へぇ…割としっかりしてるし、面白そう。魔王の過去が伏線っぽいし、勇者にもなんだか葛藤がありそうな雰囲気だ。これ、詳細な筋書きはないの?」
「お、見る目あるね、上山。勿論あるよ。」
そう言ってもう一枚…いや、もう一冊、何やらバッグから取り出し、上山に渡す天宮。
「今配ったのはあらすじなんだ。皆が皆詳細に興味あるとは思ってないし、何より時間と資源の無駄になっちゃうからね。一応、詳細は後でPDFにしてクラスラインに送っておくから、気になる人だけ読んでみてよ。」
「…すげぇ。」
うんうん頷きながら感嘆の声をあげる上山。
「よし。じゃあまず勇者!やりたい人いる?結構台詞多いから大変かもだけど、めっちゃ良い役だよ!中川君とか、どう?確か演劇部だったよね?」
はっと現実に引き戻される。
天宮の声に、いや、一瞬で静まり返った教室に。
唐突に繰り広げられる、無言の探り合い。勇者はこの台本において主役だ。最もスポットライトの当たる人物で、最も目立つ人物。当然、クオリティの保証という一点で演劇部員がそれを担うのは至極合理的だ。
それでも。
それでも、皆が皆「天宮か上山で良いだろう」と、そう思っていた。たかが文化祭の劇において、クオリティは優先されない。優先されてはいけない。大前提として配役とは学内のカーストに忠実であるべきであり、観客も、演者さえもそれを求める。それは俺の、そして皆の心根にこびりついた泥だった。
しかし、誰もが口を閉ざしたままだ。誰も心の内を明かさない。演劇部員はなけなしのプライドをかけて。その他大勢は責を被りたくなくて。
俺は「いや~」などと漏らしながら周囲を見回す。時間は無限に引き延ばされ、静寂が重くのしかかる。誰か、この背中を押してくれ。或いは、糸を断ち切ってくれ。
地獄の様な十秒間。その沈黙に音を落としたのは天宮だった。
「んまぁ、無理にとは言わないけどさ!したら、上山とかどう?やってみない?」
「うーん。」
考え込む上山。
「まぁ、他に立候補がいないなら、仕方ない。やるよ。」
全身の力が抜ける。
さっきまで冷たかった手足に急に血が巡り出し、温かい。上山もきっとどこかで分かっていたのだろう。だからきっと敢えて俺に二度目のチャンスを与えない。安堵と、遅れてふつふつと湧き上がる赤黒い感情。血が巡りすぎたのかもしれない、目頭までもが熱くなるのを感じる。それを悟られぬよう、俺は一層下を向いた。
「お、おー。上山が主役か、まぁいいんじゃね?」
「えーじゃああたし、姫役立候補しちゃおうかなー。」
ざわめき出す教室。ひとまず危機を乗り越えて、俺たちは予定調和に向けて再び進行を開始した。レールの上を走る教室は、安全運転でいつもの景色を見せてくれた。
「あのー。」
弱弱しく挙がる片手。
「僕、勇者役、立候補していいですか?」
その片手。下田D男が、いつもの景色を容易くひっくり返す。