人形の帰宅
どんなに面白いこと考えようと、勉強に集中しようと、涼と柚の頭から現実が離れてくれることはなかった。
安らぎの場なんてないのかもしれない。そう思えた。
(こんな気持ちを柚はずっと背負って行くことになるのか? そんなのあんまりじゃないか。本当に理不尽だ。天は自ら助くる者を助く。他人に頼らずに自立すれば天の助けがあるのか? 自立できない、他人に頼らなきゃ生活できない人には、幸福は訪れないのか? 僕がなんとかしてやりたい。だけど……)
涼の頭は同じことを何度もなんども考えた。
柚の元いた町に戻って事態が好転するとは限らない。
しかし、行動しなければ何も成せないし生まれない。
柚の居場所はそもそもここではない。柚の家族だって柚の安否を心配しているだろう。血眼になって探しているに違いない。
自分勝手に保護してやることはできない。
それはただの自己満足でしかないのだ。
二人は帰宅するとすぐに荷造りし、涼は柚をジャケットの胸ポケットに入れ、最寄り駅へ駆け出した。
「なかなか電車来ないわね」
うんざりするように柚は呟く。
「まだ五分も待ってないだろ。田舎育ち」
待つことに耐性を持つ涼はなんてことないだろ、というように答える。
柚の家は栃木にあるらしく、涼は一人旅で栃木まで自転車で出かけたことを思い出していた。
いろは坂で苦渋を舐めたこと、昔見たアニメの聖地を巡ったこと、節約のため漫画喫茶で寝泊まりしたことなど、栃木には五分、十分じゃ足りないほどの思い出がある。退屈しのぎのスキルは本当に便利だ。少し使い方が本来と違うが、これは派生系。
日々進化していくことにどう感想を持てばいいのか、涼は決めかねていた。
「ここよりは発展してるわよ。首都に近くても取り残された田舎じゃない」
辺りの建物を見渡して柚は不満を述べた。
田舎育ちということはNGワードのようだ。
「スプロール現象がいろんなとこで見えるからそう思うんだ」
「スプロール現象?」
「都心から郊外へ無秩序に開発が進んで行くことだよ。だからそこかしこに緑が見えるんだ。放射状に電車が開通していったけど、半径が大きくなればなるほど開発されない穴ができる。無計画が起こしたんだ。ほんの十キロ出たら大きく発展した街に行ける」
都会に住む人の感覚では十キロをほんのとは言わない。自転車であちこち旅に出ている涼だからこその感覚だ。
柚が一般常識を教えてやることはなかった。住んでる環境から十キロなど徒歩移動は大変だが、車ですぐの距離でしかない。
「私の住むところもそうなのかしら」
「それはただ開発がそもそも進んでないだけだと思う。まあ、家の近所は発展してるならこれから広がって行くさ。緑が消えて行くのと引き換えに」
人間は自分の領土を広げて行く。
支配者は自分だと、世界はすでに人間のためにあると言わんばかりに。
涼はそれが許せなかったが、行動に起こすことはしなかった。
自分を無力な高校生だと決めつけていた。
そして少し自分に酔っていた。
「緑が恋しいの? 猿みたい」
「猿は余計だ。自然の中で生きる術を僕は知っているから、多少原始時代に後退したって問題はないと思ってる。科学の恩恵はしっかり受けてるけどね」
「自然の中で生きる術を知ってるって、おかしいこと言ってる自覚ある?」
言われてはじめて自覚した。恥ずかしい。
咳払いをして降って湧いた邪念を振りほどく。
「それはまあ置いておいて。登山したり、キャンプしたり、一人旅したりしているといろんな知識、知恵を身につけることができる。日常生活じゃあまり役に立たないスキルも多いけど」
テントなんてなくてもブルーシートと長い紐さえあれば雨風、雪を凌いで生活できる自信がある。新聞、木炭、マッチやライターなんてなくとも火は起こせる。竹と麻紐さえあればカマドから食器台、ゴミ箱までいろんな物が作れる。人手があれば塔も橋も作れる。
涼は饒舌に語る。自然での生活に愛着を持っていた。
「やっぱ変な人」
面と向かって言える柚も十分変な人だ。
「どういう意味だよ」
問い詰めても柚は口を閉ざし、涼の胸ポケットの中に包まって逃げた。
摘み出してやろうと実力行使に出る前に助け舟がやってきた。
この時間に上り電車に乗る人はあまりいないのか、人が点々としているだけで楽に座ることができた。
各駅停車はのんびり進む。
急行に乗り換えることはなく、そのまま談笑を続け、終点につく。周りに人がいなくてよかった。
乗り換えは一回だけ。柚の住むところは田舎と都会の境界。柚は一歩都会側だと主張するが、大して違いはない。
田舎でもあり、少し開発が進んだところでもある。都心との距離が違うだけで、涼の住むところと、
柚の住むところに大きな差はない。少し涼の方が発展した街が周りにある程度。
「卒業したあと原宿にきた以来だわ」
都心に辿り着くとそんなことを言い出した。
「原宿? 面白いとこに行くんだな」
「面白いって何よ、行かないの?」
馬鹿にされていると柚は受け取ったが、単純に疑問も抱いたため、そっちの感想を述べる。
すぐに都心に行くことができるこの辺りの住人は、休日には遊びに出掛けるのだと柚は思っていた。というより、自分なら絶対そうすると思っていた。
「行かない。そこにある世界的に有名な電子機器メーカーのショップとかには興味があるけど、そこら辺で惹かれるものはないな。やっぱり、お前ってネズミの王国とか好きで耳までつけてワーワー叫び回るタイプだろ。花火やパレード見て来てよかったとか浸ってる人だろ」
「別に普通じゃない。女子高生なんだから。あんたはそんなところ行きそうにないわね。似合わないとは言わないけど性格からして浮くわよ。ネズミを愛でることができないなんて可哀想!」
怒りを買ったようだ。馬鹿にされた事を今度は引き出した。
涼の経験上、この話をすると九割の人間が似たようなことを言ってくる。
柚は九割の、多の一人だった。周りに溢れているただ可愛いだけの女の子なのだ。
柚は、自分が周りの女の子と大差無い思考を持ち合わせていることを知っている。
「パスポート、食事代、お土産、楽しむためのグッズ達、交通費、エトセトラ。とても諭吉一人じゃ手に負えないだろ。もう一人諭吉を呼んできても不安が残るんじゃないか? そんな金、僕なら本につぎ込むね。文庫本二十冊に囲まれるなんて最高だろ。もしくは自転車で旅に出るね。節約すれば四泊五日、いや、五泊六日はいける」
絶対の自信を持って言い切った。
涼は自分が他と違うのは理解しているが、自分が特別なやつだとか、独特の感性を持っていると自惚れてはいない。
自分と似たことを考える人間は何人もいるだろうことを自覚している。
「思い出は金で買えないわ! それに暗い! あの学校の人ってみんなあんたみたいな思考の持ち主なのかしら。あ、でも、あんたが他の人と喋ってるところ今日は一回も見てないわ」
今度は涼が口を閉ざした。
この一手を逆転の妙手と言うのだろうか。
しばらくして涼達は柚の故郷に辿り着いた。