人形の苦難
涼は一旦柚を自室に置いて(文字通り)から、シャワーを浴びて気分を変え、学校指定の制服に着替え、自室に戻る。
戻ってみると、柚は苦労しながら人気漫画を読んでいた。迫力はあるのだろうが、文字を追うのもページをめくるのも大変そうだ。小さい手では分厚い本を掴むことも大変だろう。
自分の身長に近いほど漫画は大きい。
涼は少し、彼女に同情する。
「待たせた。じゃあ、これからどうするか話し合うか」
帰宅中、建設的な話は少しもできなかった。まともな会議をしたい。
柚は木製のパソコン机(勉強机も兼ねている)の上で漫画を読み、涼は机の前に置いてある黒と白で彩られたゲーミングチェアに腰を下ろし対面した。
「漫画の続きが気になるけど、木下の行ってる学校に行ってみたい。入学したばっかで高校生活をまだエンジョイできてないの。それが終わったらすぐに家に帰りたいわ。一人じゃ帰れないから、連れて帰ってくれる?」
(同い年かと思っていたが、どうやらひとつ年下なのか。だからと言って今更敬語を話せとは言わないが)
涼は制服が真新しいことに気がつかなかったことを少し恥じんだ。
自分だけ年を言わないのはフェアじゃないと、涼は自分が高校二年生だということ、だからと言って態度を変える必要はないということを告げた。
日本人なら普通は年上だとわかったら態度を変えなくていいと言われても、敬語にしないことに少し躊躇を覚えるものだが、その辺のネジが緩いらしく、何も違和感を感じてないように態度を変えなかった。
「って、年なんてどうでもいいんだ。僕の学校に行きたい? ふざけないでくれ」
「ふざけてないわ、本気よ!」
目がマジだった。
高校生活に未練があるから。本当にただそれだけの理由なのだろうか。それだけでこんなに強く言いだすのだろうか。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「浮波を連れて行ってもし見つかったら大パニックになるぞ。たとえ、人形だと思われたとしても、俺が学校に人形を持ち込む変な奴になる」
異常なオタクというレッテルが卒業まで剥がれることはないだろう。場合によっては大学生活まで影響が出る。
ハイリスクノーリターンな話だと切り捨てた。
「どうせ一日なんだからバレないわよ」
謎の自信に満ち溢れている柚。
その自信はどこからくるのだろうか、と涼は頭を抱えずにはいられなかった。
「ブレザーのポケットに入ってジッとしてるから」
僕がしっかり面倒を見るから、と言い張る子供を彷彿させる。
柚は恐かった。
このまま家に置いて行かれると現実が自分を襲ってくると予感していた。誰もいない。自分が周りよりもずっと小さい。その事実を静寂の中叩きつけられ続けるのだ。唯一無二の味方である涼は遠くに行ってしまう。
本当に恐かった。
だが、悟られたくはなく、虚勢を張る。
同情され、涼の心を痛めながら一緒に居たくはなかった。
涼には能天気な、気を軽くして付き合える自分を写しておきたかった。
少しでも、涼の負担にはなりたくない。
案外断るのが苦手な涼は柚の偽りだらけの言葉に流され、
「仕方ないな。一日だけだしな」
と、子供に折れた親のように認めてしまった。
(どうせ学校生活は飽きてきたしな。不安な点も多いが退屈はしないだろう)
柚は桜のように心惹かれる、心からの笑みを浮かべた。
小人ということに気をとられたが、柚は涼が飾っている少年誌のキャラクターを模した人形と同じような美を持っている。並べても違和感がないほどに端麗な容姿を持っている。小人という要素が自分と同じ人間では出し得ない魅力を与えた。
気が緩むと柚に心を持っていかれる。
一日だけの関係でいられないようにあれこれ手を回したくなってしまう。
惹きこまれないよう喝を入れるため、涼は両手で頬をパンッ! と叩いた。
それだけで十分だった。涼は自分の立場を、取るべき行動を再確認した。
冷静になった。
柚はその様子をみて首を傾げたが、すぐにどうでもよくなったのか、涼に話しかける。
「それより朝ご飯食べたいんだけど」
涼は心情を察することのできない柚に苛立ちを覚えたが、この気持ちを知られなかったことはむしろ良いことだと思い直し、水に流してやる。
そんな涼も、柚の本当の気持ちに気が付かない。虚勢に気が付かない。
「何を食べさせたら良いんだ?」
普通に涼が食べるものを少しだけ分ければ良いはずだが、人形みたいな柚を見ていると、羽が生えてそのまま花の蜜でも吸いに行きそうに見えた。
羽をもがれた妖精に見えた。
この時、涼はまだ柚を人間と見なしきれていなかった。
意思の疎通はできる。形は人間そのもの。だが、人じゃない。涼の知っている人間ではなかった。
物語に出てくる架空の生物だった。
「食べさせるっていうのやめて。なんか拾ってきた犬にあげる餌を悩んでるみたいじゃない。パンちぎって頂戴」
鳩や鯉に食事を与えるのと同じ方法であるが、柚が気になったのは言い回しらしい。
「うちは基本和食だ。米十粒あればいいか?」
「そんな言い方やめてよ」
十粒というのが不満だったらしい。それともパン党の意地があるのだろうか。
「鳩に千切って渡すくらいで良いか? そこまでパンがいいならそう言ってくれていいからな」
大人の対応をしている、と涼は思い込んでいる。どうやら前者が正しかったらしく、小さい子扱いがイヤだったようだ。一端のレディーというやつが柚の中では確立されているのだろう。
涼は怒りに顔を真っ赤にしていく柚を見てやっと気がついた。
(柚なのに真っ赤! とか言ったら怒るんだろうなぁ。ッハハハ)
涼の中では面白いようだ。
漏れた笑いは柚にとって鼻で笑われたように見える。
「バカにしないでよ!」
柚は顔を真っ赤にして叫んだ。弄られることが気に食わないのか、涼が机に置いた腕にポカポカと殴りかかる。
本当は飛びかかりたかったが、机から地面までの高さを目視すると腕に進行方向を変えざるを得なかった。殴る力はほとんどないに等しい。小さくなったから、女の子だからだけではなく、半分震えていた。
机から落ちただけで打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。
柚はそう思わずにはいられなかった。
物理学的に考えれば思ったほど脅威に感じる必要がないと気がつけるが、元の大きさの感覚が完全に抜けない、生存本能が前と全く変化していない柚には無理な話だった。
「バカにしたつもりはないって。ゴメン。謝るからそう怒らないでって。アッ! 漫画に手をかけるのは反則だ! とりあえず落ち着こう。破く準備は中断して、ね?」
柚の置かれた状況に涼は気がつかない。小さくなっていない涼には柚の心情を逐一汲み取ることは困難を極める。
結局、柚を宥めるのに十分要した。
朝食は結局和食となり、ダイエット中と言っていた柚は米八粒とスポイト数滴分の味噌汁を食した。それでもだいぶ腹にたまったというのだから実に便利な体である。
他にも多数のゴタゴタが起こったが、なんとか予鈴ギリギリに登校することができた。