担任の疑念
姫のクラスの担任西澤笑にとって彼女らは初めて受け持つクラスである。教育実習で小学生を相手にしたことはあったが、小学1年生を担当するのは初めてで、一番幼い学年ということもあり笑は強い責任感を持っていた。
普通は多感な年頃で受験の心配のある小学6年生や扱いの難しい小学1年生ではなく小学3年生くらいから経験を積んでいくものだが、不幸にも今年1年生を担当する予定だった教師の不祥事と、笑の国立大学教育学部卒業という高い学歴によって、初めての担当クラスが小学1年生となってしまった。
新人に任せる仕事ではないと職場の先輩たちは考えていたが、小学校教員の数は不足傾向にある。人手不足で教員採用試験に受かっていない先生が担任を務めることも珍しくないほどだ。
変わってくれる人はいない。公務員としてこれからずっとこの業界を生きていく以上断ることはできなかった。
初めの頃は仕事をこなすので精一杯だった。
今でも初めての行事の準備や成績の管理など大変な仕事は山積みだ。
しかし、ある程度子どもたち一人一人に目を向けるくらいはできるようになっていた。
どんな性格をしているか、どこに住んでいるのか、どんなタイプの家族がいるのかなどの情報は頭に入っているが、ようやくしっかり内面と向き合えてきたと思う。入学して半年以上経ってようやくか、という誹りを受けても仕方ない。
そういったバックボーンはひとまず置いておくとして、今回の涼の家来訪の件である。
夏休みが明けてすぐのこと。女の子の中で木下涼という男性の名が良く聞こえてくるようになった。なんでも【カンペキチョージン】という称号を与えられており、まるでアイドルについて語っているようだった。
笑はその時特に何も思わず、児童がそんな話題をしていたと記憶するのに留めていた。
だが、その涼お兄ちゃんと呼ばれる男性の話題は一時のブーム以上に長引いていた。
時に木下塾という塾はこんなに面白いという形で。
時になんでもできる【カンペキチョージン】でピアノも嗜んでいるという形で。
時に時々くれるお菓子が美味しいという形で。
小学1年生の幼い子どもたちには人との壁がとても薄い。好き嫌いは明確に分かれるが、好意を持ちやすく、羞恥の感情に乏しい。クラスの女の子たちに派閥というものはなく(仲良しグループはあるが団体で衝突することはない)、理想郷のように分け隔てなく接することのできる環境が広がっていた。
その影響か木下塾に入る女の子の率は目を見張るほどだ。しかもしばらくして男の子たちも木下塾に入り始めたようである。
クラス中が話題にする木下塾とは一体どんな塾なのだろう。そこまで魅力的なのだろうか。笑は常々疑問に感じていた。
無闇矢鱈と生徒を増やしたいわけではないので、ネットで検索しても別の地域の木下塾は出てきてもこの近くの木下塾はヒットしない。そもそも木下塾は涼に娘の勉強を見てほしいというお願いを叶えるという目的で生まれた。初めは扶養を超えたお金をもらうための正当な手段として開校した以上、特に勧誘に力を入れる気はなかった(柚のバイトという目的はあったが)。
調べても出てこないというのがより笑の興味を引いた。
保護者からの評価が高く、木下塾について話すときの子どもたちがこれだけ笑顔を見せるのだから、不気味な塾ではあるが真っ当で素晴らしい学習塾なのだろうと笑は判断する。
全ての子どもの話を聞いている訳では無いので、勝手に自分と同じか少し上くらいかと思っていた。
実際目にした時、本当にアイドルのようで恥ずかしながら笑も心撃たれた。幼女から少女成り立ての彼女たちが騒ぐのもわかる。自分の大学の同期の女たちなら涎を垂らして(実際垂らすわけはないが)近づきそうだ。
第一印象は成人するかしないかくらいの大学生が塾を興して順調過ぎるほど成功している。ルックスの影響も大きいだろうが、漂う風格からして相当に頭が良いのだろう。日本最高峰の国立大に通っていると言われても当然だと頷いてしまうはずだ。
そして企業説明会を思わせる立派な資料を読んで知った。
木下涼はただの未成年ではなく、まだ高校二年生なのだと。
戦慄した。
自分よりも六歳も年下の男の子がここまでのことをしているということにまず驚愕した。
そして、高校生という立場に不安を覚えた。
しかも誠実すぎるほどに全てのことが書かれたこの資料によると、木下涼は一人暮らし。
安心して我が子を預ける保護者達と涼に対してとても失礼だが、担任としてたかが塾とはいえ子どもを任せていいとは思えない。
笑は真面目でおっとりとしていて、丁寧に仕事をこなすタイプなのだが、焦ると周りが見えなくなる。
教員を志望するほどの高い責任感が木下塾の趨勢に横槍を挟むことを決意させた。
この作品はフィクションなので、実際新人が小学一年生の担任をするということが起こらないものだとしても気にしないでください。二年目では間々あるみたいですが。