ファーストコンタクト
「ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
声にならない本物の絶叫が発せられた。
その様子を見た涼は思う。
自分は今なにをしているのか。
涼は自分を見渡す。
左手の掌に少女を乗せて、右手の親指、人差し指を用いて太ももを摘んでいた。
筋密度を、涼の知る人間との違いを調べていた。女子の太ももを触った経験がない涼にはその感触が人間と近いものか判断は付かなかった。
だが、目の前の小さい少女はそうは思わない。
起きたら目を疑うほど大きい男が、自分に猥褻行為を働いていた。
それが彼女の真実なのだ。
幸運なことに(?)彼女の中での問題点は猥褻行為ではない。
自分の目の前に目測十メートルを遥かに超えた大きさの男が目の前にいることが大問題なのだ。
小人を見ることと巨人を見ること、生存本能の観点から考えると後者の方が恐ろしい。少女の反応は至極当然と言える。
有名な漫画では次の瞬間には大抵食べられている。
(恐い! 恐い! 恐い! なんでこんな巨人が目の前にいるのよ! いろんなとこ触ってたけど、私を食べるつもりなのかしら。食べれるのか確かめてたのかしら! 恐い!
こわい! コワイ! ま、まだ死にたくない! やっと高校生になったのに! まだやりたいことたくさんあるのに!)
少女の目は時間が経つごとに絶望を写していた。
涼は少し経ってやっと少女がなにに恐怖を抱いているのか理解した。
理解し、僅かでもいいから恐怖を緩和してやろうとダンボールの上に静かに乗せて、自分の顔が見えるギリギリまで下がり、腰を落とす。
「落ち着いて欲しい。目の前にこんな大きな男がいたら恐がるのももっともだが、まずは落ち着いて欲しい。深呼吸するんだ。経験上、深呼吸というものは頭を冷静にさせるのにもっとも役立つ」
迷子になった子供をあやすように涼は話しかけた。
正常な判断力を欠いていた少女は、とりあえず言われたままに深呼吸としてみた。
最初は無酸素運動後のように呼吸を荒だてていたが、徐々に整い、一呼吸に当てる時間も長くなった。
少女は自分の置かれた状況を整理する。
(と、とりあえず落ち着いて状況整理よ。……昨日、私は新しい友達とカラオケに行って、遅く帰って来て、すぐ寝た。何もおかしいことは起きていない。
なのに起きてみれば薄汚いすごく大きなダンボールの中で制服で寝ていた。何か触られている感じがして起きてみると十メートルを超える巨人が自分を持ち上げていた。
巨人が現れたのに辺りは静か。川の音が聞こえるし、辺りは草原のようだから近くに人は住んでいるとみるべきだわ。なのに静か。巨人が平然と受け入れられているのかしら。
いえ、もしかしたらここは巨人の国なのかも。昔読んだガリバー旅行記みたいに巨人の国に流れて来たのかしら。ガリバーのとった行動が全く思い出せないし、時代が大きく違う以上あまりガリバーの行動はあてにならないわ。
とりあえず、情報を集めましょう。幸い、この人は私を今すぐどうこうしようってつもりはないみたいだし)
一分ほどしてようやく少女の目に光が戻る。
絶望が消えたということなのだろう。あるいは抱えてはいてるが、ある程度正気に戻ったのだろう。
少女は少なくとも今すぐ生死に関わることは起きないと気がつく。根拠に欠けるが、少女はそれを信じた。
「一分近く落ち着くのに時間がかかったってことは、君は人間を見聞きするのが初めてなのか? それとも、荒唐無稽な話だが、君は小さくなったのか? 世界に七十億以上の人がいてこれだけ好き勝手やっているのに、その存在を知らないってことは考えづらいんだが。もちろん、後者も考えづらい。だが、人間を見聞きしているなら自分は人間に見つかったのかともっと少ない時間で整理がつくだろう。様子を見る限り僕を騙そうとする演技は見えないしな」
好奇心が未だ消えていない涼は饒舌に、まくしたてるように少女に語り出す。
無論、涼は自分を騙せるほどの演技力を持っているのではという可能性を頭に置いている。一番その可能性が高い。
だが、心の奥底では彼女が嘘をついていないと思っている。いや、涼は無意識に少女を信じているのだ。
これが演技でないことを。
「私からすれば、人間は私の方で、ガリバー旅行記のように巨人の国に来てしまったのかと思いました。草木、ダンボール、自転車、そしてあなた。全てが私の知るより何倍も大きくなっているのですから」
少女は予想外なことを聞いても、外面を貼ることができる程度には落ち着いた。
涼はこの時、他のことで頭を使っていたため、外面を見抜けない。
彼女以外が大きくなった。
涼はその可能性を頭から否定していたことに気がつく。少女がガリバーの話を持ち出した時、涼は少しバカにしていた。
だが、涼はバカなのは自分だと思い直す。
人間は天動説や様々な歴史の地図から窺えるように、自分が中心として世界が回っていると錯覚し、本質を逃すことが多い。涼は過去の人たちを小馬鹿にしていたが、同じことをしていた。
自分は大きくなっていない。少女が小さくなったのだ、と。
涼は言葉を失う。そして少女に心の中で謝罪する。
同時に少女も思った。
自分以外が大きい巨人の国に来たのだと思い込んでいたが、自分が小さくなっていたのではないかという可能性を全く頭に入れていなかった、と。
しかしどちらにせよ、起こった現象は、彼女が相対的に小さくなったということ。
その事実以外は些末なことでしかない。
涼はもう一度有能な深呼吸を行い、頭をクリアにした。
「大きくなった、小さくなったのはこの際どうでもいい。問題はどうしてこうなったか、という追求よりも今後の保身だ。君は多分一週間とかからずに野良猫にでも食べられてしまうだろう。自分の記憶はしっかりあるのか?」
頭に積もった桜の花びらを落としてから話を切り出した。
それだけ、少ない会話にも時間を要したことがわかる。考える時間も長かった。
野良猫が小人を食べるかは知らないが、否定できない。
それに、サバイバル能力皆無と見える少女に厳しい環境を生き抜けられるとは考えにくい。人に見られることは避けたいはずだから、食事をとることにも苦労するはずだ。目の前の川も下流に近いため飲み水にするには抵抗を覚えるだろう。特にこんな少女には。
「いいえ。名前はわかるのですが、現在地がわかりません。どうしてここにいるのかも。自分の部屋で寝て、目覚めたらこんな状況に」
申し訳ないように少女は言った。
(ここはどこ? 私は誰? という常套句のうち「どこ?」がわからないようだ。ある程度の記憶があるのはありがたい。そう言えば、その名前をまだ聞いてないな)
聞いて見ると「浮波柚。波に浮く柚って書くの」と少しフレンドリーな解が得られた。
涼も柚の名乗りの流儀に則って「木下涼。木の下が涼しいって書く」と答えておいた。
柚は涼がのってくれたことに好感を覚えたのか、態度が柔らかくなった。
(まだ恐いけど、この人は一応、信頼していいかも。情報もしっかり聞き出せそう。初めて会った人がこの人−−−−木下さんでよかったわ)
やはり、食べられるということはないようだと柚は安心する。
「ここがどこだか教えてくれない?」
コンセルジュに聞くように尋ねる。
少し頭にきたが、涼は素直に答えてやる。すると、柚は目を見張った。
柚の住むところよりも二百キロ近くも南下した位置にいるらしい。
柚は、自分が知らない世界に来たわけではないことに驚いた。二百キロであろうが、地球の裏側であろうが、自分の知っている世界であるなら今はどうでもよかった。家に帰ることが現実的になったのだから。
誰か知り合いに託してサイクリングを継続しようと涼は考えていたが、そうはいかないようだ。涼は柚とは違い、二百キロも離れたところに勝手に連れ去られたことに重きを置いていた。観測する立場の違いが顕著に現れていた。
涼は柚のことを憐れんでいた。
良心がなんとかしてあげたいと主張する。
なんとかしようと考えると一つの選択肢が出てくる。
正直、涼はこんなことしたくはない。
だが、柚という面白いおもちゃを見つけて、観察することができて気分がいい涼はある提案を持ち掛けた。
「とりあえずうちに来たらどうだ? 自力で家に帰ることはできないだろ。乗っかった船だ。僕があとで家まで連れて行ってやるから」
柚は少し考える姿勢をとった。数秒後仕方ないと言った顔で頷く。