〜木下家崩壊
あらすじ
昔の木下家
「綱渡りのようにバランスの取れた家庭だったが、うまく機能していた。しかし、会社はある時不況に落とされる。それが、ありふれた家庭崩壊の始まりだった」
仕事に余裕があれば、司は家庭内でもまともなように振る舞える。
しかし、余裕がなければどうか。
当然、仕事優先のロボットのような人間である司が家庭を省みることなど一切なかった。
椿の悲鳴にも耳を貸さず、司は仕事のみに打ち込んでいた。夫婦喧嘩が起こるほど、二人は顔を合わせるタイミングはない。泊まり込みの仕事が続き、帰ってきても就寝中の数時間のみ。
椿の鬱憤が積もっていく一方だった。
「僕が小学校3年の頃だから、今から8年も前かな。歴史でやったと思うけど、その少し前に世界的な経済不況があっただろ。あれの余波を受けたんだ」
涼が生まれた頃、アメリカでは高金利住宅ローンを利用した住宅ブームが起きていた。それは、建てた家が売れ残らないように、低所得者でもローンで家が買えるような仕組みで、家を手放せば返済義務がなくなるといったもの。
当時のアメリカは好景気で、一定期間を過ぎるとローンの金利が高くなったとしても、地価や住宅価格がどんどん上昇しているので、利用者が損をすることはないだろうと楽観的に考えられていた。
当然、飛び込む者は多くいた。
大きな問題は金を貸すローン引き受け会社がどんな相手でも契約したことと、大儲けのため実態のない債券に、投資家などが信用している格付け会社が最高評価をつけたことだ。
投資家は格付け会社を信用して次々と債券を買っていく。債券の値段は高騰していく一方だ。
しかし、投資家が自分の持っている証券にサブプライム関連債券(住宅に留まらず、低所得者への高利貸しローンのこと)が混じっていることを知ると、損失を恐れ慌てて売りに転じたことで市場は大混乱した。
地価は下落。
金融機関はレバレッジと呼ばれる、投資した数十倍の金額で取引できる制度を使い、中身のない金融商品で大儲けしようとして失敗。
そしてローン引き受け会社筆頭、世界トップレベルの証券会社が国家予算並みの大打撃を受け、政府に救済されず倒産し、その影響が世界中に広がっていった。
涼の父親は日本有数のエリート商社に勤務していおり、余波の影響を大きく受けた。
「仕事と私たち、どっちが大切なの!なんてセリフをリアルで聞くとは思わなかったよ。小三とはいえ、これがまずい状況なのは僕にもはっきりわかった。父さんだって家庭が危険状態にあるのは理解していたと思う。けれど、父さんにとって僕らの優先順位が低く、
坂を転がるように状況は悪化していった」
涼のコーヒーカップを持つ手が震え、カタカタ音が鳴る。
「母さんは荒れに荒れたよ。流石に僕に手をあげることはなかったけど、食器が割れる音が頻繁に鳴り響いた。最初は父さんがなかなか帰らないことに疑問を持った僕を慰める余裕があったけど、次第にヒステリーになっていったなぁ。今でもよく覚えているよ。こういった不況はすぐに建て直せるものじゃないらしく、いつまで経っても父さんは仕事のみに打ち込んだ」
「…………」
柚だって高校受験で歴史を勉強していたから、世界的不況が10年くらい前に起きたことは知っている。
しかし柚の父親は、柚が知る限り大きな影響を受けたようには見えなかった。対岸の火事の気分で勉強していたのを覚えている。クラスの友達にも不況が原因で変わった子なんていなかったはずだ。
普段なら金持ちの世界は金持ちの世界で大変なんだな、と呑気に思えたが、涼の顔を見ていると心臓を握られたように胸が苦しい。
「この後のことは話したくないから割愛するけど、要するに母さんは仕事一筋で家庭を省みない父さんに嫌気がさして家を出ていった」
「……涼は、お母さんについて行かなかったの?」
こういった時、息子と二人で出ていくものだと思う。「あんな人とはもう一緒にいられません。涼、これからは母さんと二人で生きていくのよ!」そう言って椿の実家に帰る姿が思い浮かんだ。
「母さんは相当まいっていて、僕のことを置き去りにしていった。小学校3年の終わりに近い頃、あるとき目覚めたら朝食と夕食の準備、そして3万円と最後の手紙がこのダイニングテーブルの上に置いてあった。ちょうど柚の座っているあたりだな」
椿は夜逃げした。
一人息子の涼を機械の元に残し、跡形もなく姿を消した。
先取りで漢字をたくさん習得していた涼は所々辞書を用いながら、椿の残した手紙を読んだ。
手紙の最後には片側がびっしり記載された離婚届が貼り付けられてあり、涼は捨てられたんだと自覚した。
悲しさは湧き出さなかった。
涙も流れることはなかった。
ただ、「あぁ、もう終わるのか」そう呟いて、朝食を口にした。
「僕はこの時悲しいとも寂しいとも思わなかったよ。半年以上も辛い日々が続いたんだ。いつ終わってもおかしくないと思ってたし、心の準備は子どもながらにできていた。
僕は母さんが出ていってから初め、父さんに怒りを向けた。仕事の合間を縫って僕らのことを少しでも見て欲しかったと縋り付いたよ。でも、父さんは眉を少し潜めるだけで冷たく「無理だ」と言った。
そして、僕はすぐに父さんを弾劾するのをやめた。将棋でコンピュータに勝てない子どもがパソコンをいつまでも怨み続けることなんてないだろ?
そうして、僕は父さんを反面教師にし、ますます自分のやりたいことに全力投球しだした。面白いことにはなんでも挑戦して、退屈に仕事仕事仕事仕事仕事仕事と過ごしている父さんの逆を行くようにした。
父さんは僕が大きく干渉しなければなんでもやらせてくれたし、会社が再び安定するようになってからはいくらか協力もしてくれるようになった。
しばらくして、父さんは近年急上昇中のシンガポールの同業者に目を向けられてヘッドハンティングされる。父さんは仕事の鬼でロボットみたいな人だが、愛社心はない。
自分の仲間も何人かその会社に行き、今働いている会社が手の施しようのないほど落ち目だと思った父さんは、その会社の申し出を受けた。どう言った基準で会社を決めているのか知らないけど、働くに足る会社だと思ったんだろうな。
流石の父さんでも、未成年でまだ高校進学が決まったばかりの僕を置いていくことなんてできなかった。いくら僕のことに関心がほとんどないと言っても戸籍上僕らは家族で、父さんには避けられない義務がある。
法は絶対に遵守する父さんは珍しく悩んでいた。けど、僕が一人暮らしを経験したいと言ったらすぐに飛んで行ったなぁ。
ここからはいつも話している通りだな。父さんからは生活費の口座に毎月かなりの額を振り込んでもらっていて、普段の通り連絡一つない。多分通帳の残金とかも知らないと思う。お金を払っているだけで家族に縛られないんだから相当気が楽なんだろうな」
柚はそのあと何もいえなかった。
涼もコーヒーを少しずつ飲んでは、そっとため息をついていた。
何度も、何度も涼は回想を繰り返しては、コーヒーで自制を保とうと少しすすった。
「明日も学校があるし、もう寝ようか」
涼はコーヒーカップを片付けもせず、柚を掌に乗せて自室に戻る。
普段なら熱いくらいなのだが、涼の掌の上は冬の到来を感じさせるほどに冷たく、固まっていた。
この回想の話やっぱり重いですね。自分で書いていて泣きそう。不憫だなぁ。
世界的不況と言いましたが、いわゆるリーマンショックの余波で大変なことになったよ、って話です。若干物語の年月に合わないので似たことがこの世界線にあったと捉えてください。イメージ涼たちの世界は2020年よりわずかに先なので…
次回
軌道