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天王寺さんの通報から半時間ほどで、病院に防護服を着た人たちが続々とやってきた。
私は防護服を着せられ、院長の、たぶん遺体は、ジッパーのついた大きな袋に詰め込まれた。それから大型の冷凍車のような車に押し込められ、運ばれた先は病院でも保健所でもなく、NIID(国立感染症研究所)の隔離施設だった。
全身の洗浄――それは入浴やシャワーというよりも、まさに洗浄という言葉がぴったりのあつかいだった――を受け、採血やら口腔粘膜の採取やらをされたあと、医師から、副作用の強い抗菌薬を投与するという説明を受けた。
「コリスチンです。効果についてはフィフティ・フィフティですが、ナイトメア・リコリスに対しては唯一の選択肢ですので」
それから私は、個室に閉じ込められて、点滴と検査を受け続けた。
家族に連絡したいと頼んだら、病院での集団感染で隔離されていると説明してある、と告げられた。さすがに手回しがいいな、と感心した。
翌日の夕方、病室に天王寺さんが現れた。
面会が許可されましたのでと告げたあと、彼女は深々と頭を下げて、「巻き込んでしまって、申し訳ありませんでした」と謝罪をした。
そして、厚生労働省職員の身分証を提示し、他言無用を念押ししたあとで真相を話してくれた。
事の発端は、三か月前にさかのぼる。
強姦を繰り返した犯人が、錯乱のあげく自殺するという事件が、立て続けに起きた。遺体を司法解剖した結果、全員の体内からヘロイン類似成分が検出され、麻薬犯罪として捜査が進むうちに、恐るべき事実が判明した。
NIIDによる分析の結果、ヘロイン類似成分は外部から摂取したものではなく、当人の腸に形成された特殊な緑膿菌フローラが産生しているものであることが、わかったのだ。その緑膿菌の分泌物には、テスタステロンを増大させつつ、セロトニンを抑制する効果もあった。そのため、この菌に感染した者――宿主は、快楽と欲望の赴くままに不特定多数の人との性交を繰り返し、つぎつぎに新たな宿主を増やし続けていく可能性がある、と結論づけられた。
腸内細菌がその分泌物で、宿主の感情や行動にさまざまな影響を与えていることは知られていたが、麻薬類似成分を産生して宿主たる人間を操るというのは、想像を絶することだった。
そのうえ、この緑膿菌は、フルオロキノロン系、アミノグリコシド系、そしてカルバペネム系の三系統の抗菌薬のすべてに耐性を持つ、多剤耐性緑膿菌であることも判明した。
事態を重く見た政府は、この緑膿菌をMDRP・strain・NL1『ナイトメア・リコリス』と名付け、感染症法第一種病原体等に指定し、警察庁と厚生労働省の垣根を超えた連携によるアウトブレイク阻止に乗り出した。
犠牲者たちのデータを多方面からスクリーニングした結果、浮かび上がったのが、いくつかの病院への入院歴だった。
「ものがものだけに、表立ったことはできない。だから感染源と経路を特定するために、わたしたちは手分けをして、それらの病院に潜入捜査をすることになりました。わたしが受け取った犠牲者リストには、あなたの勤めていた病院の薬剤師さんと退院患者さんの名前があったんです」
と、天王寺さんは話を締めくくった。
私はため息をつくしかなかった。
「もしかして、最初から院長にあたりをつけていたの?」
私の問いかけに、いいえ、と天王寺さんは首を横に振った。
「塚本さんの件で、怪しいなとは思いました。でもさすがに、ナイトメア・リコリスを所持し、その性質まで知っていたのは想定外だった。彼の言葉から察するに、関係者からのリークや麻薬犯罪組織の関与も否定できません。これから、院長と交流があった別の病院に潜入する予定です。なんとしてでも、ナイトメア・リコリスを止めないと」
天王寺さんは、そう言って、眦を決した。あどけなさすら残した横顔に、悲愴さを漂わせる凛々しさが宿った。
こんな若い女の子が、これほどの重責を負わされているというのに、あの院長は……。
悔しさとともに、今さらのように院長への怒りがこみ上げてきた。そして、その感情とともに、あのとき天王寺さんが口走った、いささか大げさな言葉を思い出した。
「そういえば、人類は生き残れないかもって、言ってたわよね。あれ、どういう意味?」
天王寺さんは、私から目をそらすと、窓の外に視線を投げた。
すこしのあいだ黙り込んだあと、天王寺さんは独り言のように話しだした。
「ナイトメア・リコリスが宿主の生殖能力を破壊することが、最新の研究でわかりました。分泌する毒素が、精子や卵子を破壊するだけでなく、性ホルモンの分泌を狂わせてしまうんです。そうすることで、さらに性交の機会、つまり自身を他者に感染させる機会を増やすという戦略なのでしょう」
戦略だなんて、ずいぶんおかしな言い方だ、と思った。それではまるで……。
「細菌に意思があるみたいね」
冗談のつもりだった。
けれど、天王寺さんは、ゆっくりとうなづいた。
「みたい、ではなく、意思があるんですよ、ナイトメア・リコリスには。……クオラム・センシングって、ご存知ですか」
「細菌が自ら個体数を増やしていくための仕組み、じゃなかったかしら」
「その通りです。ナイトメア・リコリスはその機能を、自身の個体だけでなく、宿主そのものを増やす、という方向に使っています。何を介して情報交換を行っているのかは不明ですが、微弱な電磁波を使っているという仮説もあります。もはやそれは、あいつらの意思だと言えるでしょう。あいつらから見れば、人類は繁殖を助ける木偶のようなもの、というわけです」
私は、天王寺さんの話の恐るべき意味を理解して、戦慄した。
彼女は、顔色一つ変えずに、話を続けた。
「ナイトメア・リコリスへの唯一の武器だったコリスチンも、耐性を獲得したNL2株が確認されたことで、無力化されてしまいました。人類にはもう、あいつらに対抗する手段はありません。フレミングが最初の抗生物質ペニシリンを発見してから、およそ百年。人類は細菌との戦いを有利に進めてきたけれど、その最大の武器によって、最強の敵を生み出してしまったというわけです」
なのに、と言って言葉を切った天王寺さんの顔に、悲しげな微笑みが浮かんだ。
「あの院長のように、快楽の誘惑に勝てずに、敵を利する行為をやってしまう。ナイトメア・リコリスは、そんな愚かな人類が咲かせた、毒花なのかもしれません。宿主たる人類の本能を淫夢で操り、そして人類を彼岸に送る……。ナイトメア・リコリス、『悪夢の彼岸花』とは、よく言ったものだわ」
もう会うことはないでしょう、そう言って頭を下げた天王寺さんの横顔に、栗色の髪がふわりとかかる。
こうして見ると、すごくかわいい子だ。
その頬に手を添えて、そして薄く色づいた唇にキスをしたくなった。これきりだと言うのなら、それくらいは……。
衝動に突き動かされて、私は、
「天王寺さん……」
と、呼びかけた。
自分でも、ずいぶん色っぽい声だなと思う。
彼女は、申し訳なさそうに、うすく笑った。
「ごめんなさい、あれは偽名なの。本名はちょっと、ね」
そうだと思った。
だって、天王寺ミオなんて名前、付けた親の顔が見たいというものだ。
私はなんだか愉快な気分になって、じゃあ、と思いつきを口にした。
「阿倍野ハルカさん、かしら?」
彼女は困ったように苦笑したあと、「こんど使わせてもらいます」と言って部屋を出て行った。
後ろ姿を見送る私の、身体の中心が熱を帯びて疼いた。
その夜のことだった。
眠っていた私は、静かにゆり起こされた。
ベッドの脇に、青い月の光を受けて、誰かが立っていた。
「恵美……」
と、甘美な女の声が、私の名を呼んだ。
天王寺さんだ、と私は気づいた。
彼女は、熱を帯びた眼差しで私を見下ろしながら、とろけるような声でささやいた。
「あなたも仲間に」
言葉が終わらないうちに、彼女はブラウスのボタンを外しスカートを下ろして、下着もすべて脱ぎ捨てた。大理石の彫像のような白い肌があらわになり……。
そこには、ちいさな彼岸花がいくつも咲いていた。
彼女はそっと私に口づけをした。
柔らかな唇がふれあい、そして、彼女の舌がなにかを求めるように、私の口腔をなでた。
彼女の口から、私の口に、とろんとしたものが移された。
おいしい、きもちいい。
いいわ、それで。
彼女がそっと唇を離す。
じらすように見つめられて、私は自分でもおどろくくらい、淫靡な声を上げた。
「いや。ミオ、もっとちょうだい」
「恵美……」
彼女の甘いささやきが。
「……ぃいいいいいい」
黄泉から響くような咆哮にかわった。
その顔を彼岸花が覆いつくし、そして、どろりと。
肌がただれて剥げ落ち、肉が腐って溶け落ちる。あとに残った頭蓋骨の眼窩の暗闇に、一輪の彼岸花が、ほの赤く浮かび上がって……。
「いやああああっ」
私の絶叫に、「大丈夫ですか」という声が重なる。
気が付くと、私は白衣を着た男性にしがみついていた。
ああ、夢か。よかった……。
「大丈夫ですか? うなされていたようですけど」
心配そうに問いかける若い男性スタッフに、
「ごめんなさい。怖い夢を見たので」
と、私は頭をさげた。
はだけた浴衣から覗いた胸の白い双丘に、くっきりと紅い彼岸花が浮かび上がっているのが見えた。
きれいだ、と私は思った。
なんだったか、とても大事な意味があったような気がしたが、すぐにどうでもよくなった。
そんなことより……。
「もう大丈夫ですよ。ゆっくりお休みになってくださいね」
そう言いながら、彼は私の胸元にちらちらと視線を投げてきた。
ふふっ、そうなんだ。そういうことなら、いいわよ。かわいい顔立ちの、好みのタイプだし。
うん、この子にしよう。
「あの……」
と、私は彼を引き留め、身体をひねって浴衣の胸元をさらに広げて見せる。
「ずっとひとりぼっちで寂しいの。このままだと、また怖い夢を見そう。外の空気を吸いたいから、屋上に連れていってくれないかしら」
潤ませた目で、上目づかいに彼を誘った。
ほんとはダメなんですよ、とかなんとか口では言いながら、彼はすでにその気になっているようだった。
屋上からの眺めはよかった。
きらめく都市の夜景が遠くに見えた。生暖かい夜風が、開放的な気分にさせてくれる。
ここなら、気持ちよくやれそうだわ。
どうせなら、刺激的なのがいい。
そうだ、彼の自由を奪ってから、愉しもう。
その姿を想像しただけで、身体の芯から熱いものがあふれてきた。
――彼も仲間に。
そんな声が、聞こえたような気がした。
彼岸花が、私の肌に咲き乱れていく。
もう我慢できない。
私は……。
浴衣の帯を、するりと解いた。




