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MAR page 5 / 6

「あいつって?」


 私の問いかけに、天王寺さんは表情をくもらせた。そしてわずかなためらいのあと、彼女は重々しく口を開いた。


「MDRP・strain・NL1。わたしたちは、ナイトメア・リコリスと呼んでいます」

「エムディアールピー……多剤耐性緑膿菌。抗菌薬が効かないやつってこと?」

「ええ、そうです。しかも、感染者の体内でヘロイン類似物質を産生して、麻薬漬けの廃人にしてしまうという、凶悪な性質の菌です。感染者に特有の外見的な症状として、毒素によって皮膚が内出血や壊死を起こして、彼岸花のような紅班が現れます……」


 これです、と言いながら、天王寺さんは塚本さんの肌の紅班を指さした。


「とにかく、この菌の感染拡大をここでくいとめないと、大変なことになるんです」


 絵空事のような、現実感のない話だった。

 だが、言われてみれば塚本さんの反応は、オピオイド系麻薬の禁断症状に酷似している。


 天王寺さんを信じるのなら、扉を開けるべきではない。だが、そんな不確実な話で、患者を危険な状態に置くこともできない。

 迷ったあげく、私はいちばん保守的な選択をした。


「そこをどいて。とにかく医師に診てもらいましょう」


 なおも立ちふさがる天王寺さんを押しのけて、私はドアの鍵を外した。引き戸を開けると……。

 そこには、想像を絶する光景があった。


 廊下には、いつのまに現れたのか、入院患者がひしめいていた。

 彼らの顔と言わず、腕と言わず、彼岸花のような紅班が浮かび上がっていた。患者たちは、私に目もくれずに、口々にうわごとのような言葉を唱える。


「痛い」

「寒い」

「薬を」


 重なり合って、響き合って。

 それは読経のようであり、呪詛のようでもあった。

 よだれを垂らしながら座り込む者、全身を痙攣させながら床でのたうつ者、暴れまわって壁に身体を打ち付ける者、自分の腕に噛みつく者、誰かれなく殴り合う者。

 廊下はまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 なのにどの顔も、とろんとした恍惚の表情を浮かべている。よくみると、その中には看護師や医師も混ざっている。

 なに、なんなの、これ……。

 呆然とする私の耳元で、天王寺さんの悔しそうな声がした。


「手遅れか……。救援を呼びましょう」


 天王寺さんがドアに手をかけて閉めようとしたとき、「助けてくれ」という聞き覚えのある声がした。声の方に目をやると、患者たちにもみくちゃにされている院長が見えた。

 表情を見るかぎり、正気を保っているようだった。心強いとは言い難いが、女ふたりきりよりは、ましというものだろう。

 だが、狂乱している患者たちに阻まれて、院長はこちらに近づけないようだった。

 このままでは、院長を助けるどころか、患者たちがこの部屋に侵入してくるかもしれない。

 どうしよう、と思ったときだった。


「オラペムを」


 天王寺さんの声がした。


「え、なに?」

「残りのオラペムを撒いて」


 事情はわからないが、私は言われたとおりに、薬袋に残っていたブリスターパックを廊下の床にばら撒いた。

 おおっと地鳴りのような声が重なって、患者たちの顔に歓喜の表情が浮かぶ。まるでバーゲンの福袋に殺到する買い物客のように、オラペムの奪い合いがはじまった。

 その隙をついて、院長を病室に迎え入れ、扉を閉めて鍵をかけた。


 肩で息をしながら、院長は「なんなんだ、あれは」とひとり言のように洩らした。

 天王寺さんが「それはわたしが」と切り出した。


「特殊な細菌への、集団感染が起きています。廊下の惨状は、それが原因です。医師や看護師にまで感染が広がっているとなると、これ以上は誰にも接触しないほうがいい。とにかく当局に通報して、救援を要請しましょう」


 天王寺さんがスマホを取り出す。


「待ってくれ。それは困る」


 院長の思いがけない言葉に、スマホの画面に添えられた天王寺さんの指が止まる。


「院長、この状況を理解していますか?」

「無論だ」

「このままでは、院外へのアウトブレイクが起きる。その前に病院全体の隔離と滅菌処置が必要です。その細菌は……」


 天王寺さんの説明を、院長の低い声がさえぎる。


「ナイトメア・リコリスだろう?」


 どんなときにも動じなかった天王寺さんの顔に、はじめて狼狽の表情が浮かんだ。


「なぜ、それを……」


 院長はふっと息を吐くと、袖をまくりあげた。現れた太い腕には、一面に紅の彼岸花が咲いていた。

 天王寺さんが、目を見張る。


「これは……。すぐに手当てをしないと、命にかかわ……」


 言葉が終わらないうちに、どすっという鈍重な音とともに、天王寺さんが床に崩れ落ちた。

 背を丸め、鳩尾のあたりを押さえながら、苦しげなうめき声を上げている。


「黙れ。政府の犬が……さて、と」


 院長は、ズボンのポケットからオラペムを取り出すと、一粒を口に含んだ。

 ほどなく、その目がだらりと垂れ下がり、「はああ」と気持ちよさげに長い息を吐いた。


「やはり、な。オラペムがヘロイン産生を活性化させる鍵だったか。……使えるぞ、こいつは」


 げほっと咳をして、天王寺さんが顔をあげた。


「カルバペネム系抗菌薬の乱用が……ナイトメア・リコリスを……産み出したと言われている。そういうことか。……答えなさい。ナイトメア・リコリス……どこで、手に入れたの? 一種指定の病原体……所持できないはず」


 はっ、と院長が吐き捨てる。


「だれが答えるか。こいつは、ヘロインを作り出せる貴重な細菌だぞ。欲しがるヤツはいくらでもいるんだ。培養すれば、どれだけ金になると思う?」


 まるで麻薬の密売人のような院長の言葉に、私は少なからぬショックを受けた。

 俗物とはいえ、いちおうは医師だ。それが人の健康を害する麻薬に手を染めるなど、許されることではなかった。

 私の気持ちを代弁するように、天王寺さんの眉間にぎゅっと皺がよった。

 冷たい怒りの炎が、彼女のガーネット色の瞳のなかに、燃え上がったように見えた。


「やめ……なさい、すぐに。ナイトメア・リコリスは、危険すぎる……。あなたのような人がいるから、人類はもう……生き残れないかも……」


 苦しげに言葉をつなぐ天王寺さんの脇腹を、院長が蹴り上げる。

 ぐうっとうなった彼女は、自分が吐き出したものの中に倒れ込んだ。その背中が小刻みに震える。


「おまえはあとで、たっぷりと可愛がってやる。まずは……」


 院長の血走った目が、私に向けられた。

 その顔にいやらしい笑みが浮かび……私は、あのとき天王寺さんを信じなかったことへの、遅すぎた後悔を噛みしめた。

 院長が、べろりと舌なめずりをする。


「怖がるな。おとなしくしていれば、すぐに仲間にしてやる」


 あっというまに、私はベッドに押し倒されていた。

 抵抗は無駄だった。

 なぐられた頬が、しびれたように熱をおびる。ぶあつい掌に口をふさがれ、もう一方の手で首を絞められた。

 逆らえば殺される……。

 それで、抵抗する気持ちも力も、なくなった。


 にやにや笑う院長の顔に、紅班が浮かび上がり、見る間にただれていく。

 私の白衣をはぎ取る腕は、すでに表皮がめくれて血がにじみだしていた。滴った血が、ぽたりと白衣の胸に落ち、赤い染みを広げた。

 なのに、院長の表情は、うっとりと、まるで陶酔しているかのようで……。


 狂っている、と思った。

 ただただ、怖かった。


 ぬるりとした唇が私の口に押し付けられ、粘り気のあるよだれとともに、ざらついた舌が口の中に差し入れられた。

 気持ちの悪い感触が口の中をはいずりまわり、吐き気がした。

 そして、私のなかに院長が押し入ってきた。

 痛みと悔しさに、涙があふれた。


 そのときだった。

 投げ出した私の手に、なにかが触れた。

 ベッドの下から差し出された、消毒用エタノールのスプレーだった。


 天王寺さん……これを使え、というの?

 そうか……。


 私はスプレーをつかむと、ぎらぎらと見開いた院長の目に、至近距離から思い切り吹きつけた。


「があっ」


 院長が叫びをあげ、のけぞりながら手で顔を覆う。

 続けてその顔と腕に、ありったけ消毒用エタノールを噴霧する。この傷なら、そうとうな激痛のはずだ。


 その痛みに耐えかねたのか、あるいは私からの反撃を恐れたのか、院長は目を押さえたままでベッドから飛び降りた。

 だが、そこには、天王寺さんと塚本さんが横たわっていて……。

 ふたりの身体に足をとられて体勢を崩した院長は、もんどりうってコンクリートの窓枠に激しく後頭部をうちつけた。


 ごっ、という重い音に、ぐじゃといういやな音が重なる。

 床に崩れ落ちた院長は、手足を何度か痙攣させたあと、ぴくりとも動かなくなった。


 クリーム色の壁に、院長の血が飛び散っていた。

 それは、ひときわ大きく鮮やかな、彼岸花を思わせた。

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