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午後は天王寺さんを連れて、病棟を巡回することにした。
入院患者の症状や状態を見ながら、薬が合っているかのチェックをする薬剤管理指導は、病院薬剤師の大事な仕事のひとつだ。
患者のためではあるが、点数がカウントされて健康保険からお金が出るので、なかばノルマのように回る人数が決められている。
ていねいに、けれど手早く済ませることが、必要だ。
ナースステーションでカルテをチェックする。これから巡回する患者は、そのほとんどがオラペムを処方されている。
「天王寺さん、抗菌薬の薬剤管理指導のポイントって、わかる?」
「定められた容量と用法をお守りください、ってやつですね」
冗談めかした回答だが、的は外していない。
症状がなくなったからという理由で、処方された薬を自己判断で飲むのをやめてしまう患者は、少なからずいる。とん服の熱さましや痛み止めならかまわないが、飲み切らないと問題を起こす薬もある。
とくに抗菌薬は要注意だ。中途半端に服用をやめると、抗菌薬が効かない細菌、耐性菌を生み出してしまう恐れがある。
オラペムは、ほぼすべての細菌に対応できる、抗菌薬の最終兵器ともいえるカルバペネム系抗菌薬だ。ところが最近になって、この薬が効かない新種の耐性菌の発生が確認された。しかも、院内感染しやすい緑膿菌の一種だそうで、感染症法の指定病原体リスト入りするのではないかと、医療界ではホットな話題になっている。
うちでもオラペムをよく出しているから、注意が必要なのだ。
「とにかく、ちゃんと飲み切っているか、チェックを忘れないでね」
念を押してから病室に向かう。
はぁい、という間延びのした声が背中から聞こえた。
話の長い患者につかまったり、入院の長い患者に絡まれたりして、巡回は予定通りに進まなかった。
おまけに、天王寺さんがのんびりと投薬記録をチェックをしたり、ナースステーションにカルテを確認しに戻ったり、いちいち携帯用のエタノールスプレーで手を消毒したりするので、余計な時間もかかった。
そんなこんなで、最後の患者のところに着いたのは、もうすぐ夕食の時刻になるころだった。
塚本さんという、虫垂炎で入院している若い女性だった。比較的初期の発見だったので、外科手術をせずに抗菌薬投与による保存的療法が選択された。
七日ほど入院しているが、経過は良くて、明日には退院ということになっている。私と同年代だし、おだやかで扱いやすい患者さんだったから、指導の合間に話をするのが楽しみだった。
ところが。
病室に入ったとたんに、塚本さんと天王寺さんが、そろって気まずそうに目を伏せた。
それでピンときた。院長室にいた女性は、塚本さんだったというわけだ。
患者にまで手を出すのはさすがにまずいと思うが、天王寺さんの話しぶりだと、合意のうえだったのだろうから、私がとやかくいうことでもない。
私は知らん顔をして、塚本さんに話しかけた。
「調子はどうですか」
「ちょっとだるいかな。あちこち痛むし」
「かゆみや発疹はないですか」
話をしながら、投薬記録を天王寺さんに見せる。
ふうん、とか言いながら、薬の残量と記録をながめていた天王寺さんの目が、塚本さんのうなじに向けられる。そのまなざしが鋭くなり、天王寺さんの手が塚本さんのパジャマにかかる。
それと同時に、塚本さんの態度が急変した。
身体をびくり、と震わせ、
「っつう……痛ったぁ」
とうめいて、背を丸めた。
どうしました、という私の問いかけには応えず、塚本さんはオラペムのブリスターパックを取り出した。錠剤を押し出し、つぎつぎに口に含む。がりっと音がして、白い錠剤が噛み砕かれた。
え、ちょっと待ってよ。
いくら副作用が少ないといっても、一度に大量に服用すれば、アナフィラキシーショックを起こして、最悪の場合は命にかかわるおそれもある。
「飲んじゃダメっ!」
吐き出させようと手をのばした私を見て、塚本さんの顔が青ざめた。
「い、嫌あっ。こないで」
自分の身体を抱いて、ガタガタと震えながらベッドの上をあとずさる。鳥肌がたった腕には、一面に紅班がうかんでいた。
まずい。やはりショックを起こしているんだ。
塚本さんがベッドの端からどさりと床に落ちた。
駆け寄って助け起こすと、私にすがりついた彼女は、
「薬を……オラペムを、ちょうだい」
と、哀願するようなまなざしを向けてきた。
この状況でなぜ抗菌薬を欲しがるのか気になったが、今はそんなことより、看護師なり医師なりを呼ぶことが先決だ。
「天王寺さん、ナースコールを」
そう頼んだのに、天王寺さんは動かなかった。私を、いや、塚本さんをじっと見降ろしたままだ。その表情は落ち着いていて、わざと対応しないようだった。
「早くしてっ!」
私の催促に、天王寺さんは「ちょっと待って」と答えた。
それと同時に、塚本さんが「うへへ」と気味のわるい笑い声をあげた。
見ると、塚本さんの様子が、また急変していた。
焦点を失った目がうつろに見開かれ、さっきまで悪寒や痛みをうったえていた口からよだれを垂らしていた。
なにかに陶酔したような、とろんとした顔に、ふぬけたような笑顔が浮かんでいた。
私の背中が、ぞくりと冷えた。
だが、その次の瞬間。
塚本さんの口から、きゃあという叫び声がして、その目がぐるりと動いて白目をむいた。
なによ、これ……。
呆然とする私をしり目に、天王寺さんは塚本さんの横に座ると、タオルをその口に押し込んだ。
塚本さんが手足をばたつかせる。足がベッドを蹴る音と、獣のようなうめき声が病室にこだまする。
「そっち、抑えてっ!」
天王寺さんの命令に、思わず「はい」と答えていた。
私が塚本さんの身体をしっかりと抑え込むと、天王寺さんはペン型の注射器を胸ポケットから取り出した。そして、慣れた手つきでペン型注射器を塚本さんの腕に当てると、注入ボタンを押した。
塚本さんは、すぐに力尽きたように動きを停め、ぐったりと床に伸びた。
その姿を見て、私は息をのんだ。
身体じゅうの皮膚に紅班がひろがり、ところどころは皮膚がびらんして、血が流れだしていた。暴れたときの傷ではなかった。まるで重症のやけどか皮膚病のようなありさまだ。
そうとうな痛みがあるだろうに、塚本さんは、おだやかな恍惚の表情をうかべたままだった。
やがて廊下にバタバタと足音が聞こえた。騒ぎを聞きつけて、だれかがやってきたのだろう。
助かった、と私は思った。だが。
天王寺さんは舌打ちをすると、すばやく立ち上がって病室のドアに鍵をかけた。
「ちょっと、なにするの」
私の詰問に、天王寺さんは冷静な声で答えた。
「ここに人を入れるわけにはいかないの」
「なに言ってるの。塚本さん、きっとてんかんか何かだわ。このままじゃ、だめでしょ」
ドアに向かおうとした私の前に、天王寺さんが立ちふさがる。
まさかとは思うが、院長との一件を根に持っているのだろうか。
そんな勘繰りを見透かしたように、天王寺さんは「責任はわたしがとりますから」と、静かだが逆らうことを許さない迫力のある声で告げた。
「これ以上、感染者を増やすわけにはいかないんです」
意味がわからない。
この状況の説明に、ぜんぜんなっていなかった。
「感染者って、なによ。とにかくどいて」
天王寺さんが首を振る。
「塚本さんの症状、てんかんなんかじゃありません」
これには、さすがにいらついた。なにを根拠に、そんな診断を。
「あなた、医師じゃないでしょう。勝手に注射なんかして。なんなのよ」
「応急処置ですよ。禁断症状を抑えるために、ナロキソンを投与しました」
意外すぎる薬品の名前に、私は耳を疑った。
「ナロキソンって、オピオイド拮抗薬の? じゃあ、塚本さんは麻薬中毒だと言うの?」
ええ、と天王寺さんはうなずいた。
「あれはヘロインの禁断症状です。まちがいない、あいつがいるわ……」