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MAR page 3 / 6

「はじめまして。天王寺(てんのうじ)ミオです」


 アニメの声優みたいな声で、その子は、なにかの冗談としか思えない名前を名乗った。

 無造作に切りそろえた栗色の髪と、薄い眉の下にたたずむガーネットのような瞳が、どこか幼げな印象だ。大学を出ているのか、ちょっと怪しい。

 この子、資格はもってるんでしょうね。

 いぶかしみながらも、私はいちおう自己紹介をする。


今宮(いまみや)恵美(えみ)です。……どこの卒業生?」

「K大学です」


 しれっと告げられた国立大学の名前に、私は心の底から驚いた。K大学薬学部といえば、偏差値は八十に迫る超難関校だ。こんな町医者の病院に来てくれるような人ではない。


「すごいじゃない、天王寺さん」

「でも、病院の薬局は初めてなので、いろいろ教えてください。あ、それから、私のことはミオって呼んでくださいね、恵美さん」


 人見知りしそうに見えるのに、意外となれなれしい。見かけによらず、遊びなれているのかもしれない。なんにせよ、最初が肝心だ。けじめはしっかり教えないといけないだろう。


「病院は初めてなの? 天王寺さん」


 あえて苗字で呼びかけると、彼女は「残念」とつぶやいた。


「はい。ずっと派遣だったので」


 え、K大卒なのに派遣って……。

 どういうことなんですか、という非難のまなざしを薬局長に向ける私。派遣はダメだって言っておいたのに。

 薬局長は、気まずそうに視線をそらした。


 私が薬剤師として勤めているのは、ベッド数が四十床ほどの小規模な病院だ。それでも外来患者はそこそこ来るし、入院患者もベッドに空きがないくらいにはいる。

 薬剤師は薬局長をいれて三人だった。それでうまく回っていたが、ここにきて急に人手不足になっていた。

 先輩の薬剤師が急に行方不明になったと思ったら、追いうちをかけるように、お盆明けから薬局長も病気療養のために休職することになった。代わりは、中途採用で経験のある薬剤師を雇うと聞いていたのだが。


「急なことで、応募がなくてね」


 いいわけをする薬局長に、私はかみついた。


「三人でぎりぎりだったのに、二人抜けて、その補充が未経験の派遣とか、無理ですよ」


 抗議する私を、薬局長は、まあまあと言ってなだめた。


「次の人は決まっているのよ。でもいまの職場が、すぐに辞められないらしくて。その人が来るまで、一か月ほどのつなぎだから」


 そう言い含められて、私は我慢することにした。

 私たちの会話が気になったのか、天王寺さんは、あの、と声を落とした。


「ここって、お仕事は厳しいんですか」


 入院患者がいる病院の薬剤師は、けして楽な仕事ではない。

 外来の調剤をしながら、入院患者の薬も管理しないといけないし、時には容体の急変などで深夜に呼び出しを受けて調剤しなければならないこともある。

 きつい仕事だが、給料は多いし、人間関係が悪くないのはありがたかった。横柄な医師や看護師もいないし、連係もスムーズだから、働きやすい環境だとは言えるだろう。

 それに、その気があれば、出会いに事欠かないのも魅力的だ。

 院長は先代の一人息子で、四十前の独身だ。女癖は悪いが、それに目をつぶれば、玉の輿の可能性はある。

 おまけに、臨床研修指定病院になっているから、若い研修医が入れ替わり立ち代わりやってくる。将来を見越して、交際のきっかけづくりにいそしんでいる職員は少なくない。

 そんな事情を話して聞かせると、天王寺さんは困ったような表情になった。


「えっと、そういう方面にゆるいって、ことですか」

「以前はそうでもなかったんだけど、ここのところみんな浮ついてる感じでね。とくに院長がね。なんかぎらぎらしてるのよ。手を出されちゃった看護師や薬剤師も、けっこういるみたいだから」


 天王寺さんは頭を抱えて、ううう、なんて低くうなっている。

 やっぱりこの子じゃ、無理かもしれない。私は絶望的な気分になった。どうやら、長い一か月になりそうだ。



 だが、天王寺さんを見直す機会は、その日のうちにやってきた。

 ためしに院長の処方箋の監査を頼んだら、目つきが変わったのだ。

 処方監査は、医師が処方した薬剤が適切かどうかを、薬剤師がチェックする作業のことだ。患者の症状と薬剤が合っているか、他の薬との飲み合わせの禁忌に該当しないか、それに投与量や副作用の危険性の検討もする。この処方監査を経なければ薬剤を調剤してはならない、と法律で決まっている大事な仕事なのだ。


「これって……」


 天王寺さんが指差したのは、三か月ほど前に採用された新薬だ。


「オラペムOD錠ね。カルバペネム系抗菌薬よ」

「OD錠……口腔内崩壊錠。内服用カルバペネム系……」

「ええ、ちょっと珍しいわね。抗菌スペクトルが広い、つまりいろんな細菌に効くし、腎機能障害なんかの副作用が少ないし、バンコマイシンやテイコプラニンみたいな投薬設計もいらないから、使いやすいのよ。そのぶん、薬価は高いけどね。そんなこともあって、ここのところよく処方されているわ」

「でも、この患者さん、風邪という診断ですよね。抗菌薬を使っても、意味ないんじゃないですか」


 たしかに風邪の病原体であるウィルスに対しては、抗菌薬は効果がない。だから天王寺さんが言っていることは学術的には正しいけど、実務的には患者の症状に合わせて処方されることもあるのだ。


「細菌感染の合併症の所見があったんでしょ。解熱剤も出てるし」

「でも、普通ならこの抗菌薬は、第一選択薬にはならないですよね。どうしてこんな強い薬を、いきなり出すんだろう」


 やはり、だてにK大を出たわけではないようだ。

 じつを言うと、私もこの処方については、疑問があったのだ。

 オラペムは新薬で薬価が高いから病院には都合がいいし、なににでも効果が出るから患者にも都合がいい。そういう意味では良い薬だけど、だからと言って安易に処方されすぎているように思う。

 けれど……。


「おかしいと思うのなら、院長に問い合わせてみれば? 疑義照会は薬剤師の重要な任務だから。もっとも、院長があなたの言うことを聞いてくれれば、だけど」


 言外にやめておけ、という意味を込めてそう諭すと、天王寺さんは勘違いして受け取ったらしく、


「はい、訊いてきます」


 と、張り切った様子で、薬局を出て行ってしまった。

 かわいそうだが、きっと怒られて、追い返されてくるに違いない。処方の意図が明確だから、わざわざ疑義照会をする必要はないし、院長は薬剤師が治療に介入することを好まないタイプの医師だ。

 案の定、十分もたたないうちに、天王寺さんはしょげた顔をして帰ってきた。


「怒られました」

「でしょ。院長の処方には、あまり口出ししないことね」

「ちがうんです」


 聞けば、院長室のソファーで、着衣を乱した女性がよこたわっているのを目撃してしまったらしい。よせばいいのに、院長に事情を訊いたというのだ。それで院長からどなられ、疑義照会どころではなかったのだという。

 院長の悪い癖が出た。目撃してしまった天王寺さんは、間が悪かったというしかない。


「まあ、そういうことなのよ。でも気にしないでいいわよ。院長、すぐに忘れちゃうから」


 慰めはしたが、天王寺さんは心ここにあらず、という感じだった。

 まあ、しかたないか。


「……いいわ、私が処方監査をやるから、調剤だけやってちょうだい」


 天王寺さんに、どの薬がどの棚に納まっているかを一通り説明して、次の処方箋を手に取った、そのときだった。うなじのあたりを、とてつもなく冷たい気配が、撫でたような気がした。ぞくっと全身に鳥肌がたつ。


 私は思わず後ろを振り向いた。

 天王寺さんが、こちらをじっと見ていた。

 私と目があったとたんに、彼女は手元の処方箋に目を落とした。けれど、一瞬だけ見えた彼女のまなざしは、まるで獲物を狙う猛禽のようだった。

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