思い込み
野谷さんが持ってきてくれた美味しくない病院食に悪戦苦闘していると、胸ポケットから音楽が鳴り響いた。一昔前に流行ったホラー映画のオープニングだ。だが、別に自分はこの曲が好きというわけではない。この曲を好きだったのは、おそらくこの携帯電話の本来の持ち主である多田譲次さん、雄二の兄であろう。親がいない自分は携帯電話を買うことが出来なかったが、それを不憫に思ったのか、譲次さんが貸してくれたのだ。何でも、元カノからのプレゼントらしい。飛び降りる前に雄二に返すのを忘れてしまっていたようだ。
携帯電話には、雄二とでかでかと表示されていた。思わず嘆息してしまう。死人に電話かける奴がいるか。下手したら警察にばれるだろうが。
…でも、まぁ状況確認も兼ねて、出てやるか。うん。譲次さんのふりをすれば、万一盗聴されたも大丈夫だろう。
「もしもし」
「…!お、お前」
電話越しだが、雄二の焦る姿が目に浮かんだ。おそらく、死ぬ程驚いているだろう。死人が電話に出たのだから。
「もしもし、譲次ですが。」
「あ、ああ…えっ。お、お前。死体が見つかっ…」
死体が見つかった。つまり、死体が見つかったという情報が、世間に流されたという事か。流石防衛会社だ。仕事が早い。
「…すまん、よく聞こえん」
「あっ。はい。えっと、小此…兄貴。警察が言うには、母さんたちを殺した犯人は、被疑者死亡のまま書類送検する見込みだってよ。だから、もう捜査は終了になるって」
「良かった。俺は、何故か防衛会社に入れられたよ。どうやら、足元にいた化け物を踏んづけてしまったらしい」
想像通りに事が進んだことに、思わず言葉尻が上がってしまう。これで、雄二が、警察に捕まる可能性は限りなく低くなった。本当は、こんなまわりくどい事をせずとも、笠野木さんに頼んで、捜査を終了するよう警察に圧力をかけて貰えればよかったが、彼を信頼することができない以上、本来の目的はぼかすべきだ。…まぁスパイ映画の受け売りなのだが。
「ああ、おう。下に降りたら、警察がもう一杯いて。他の誰かが、飛び降りたのを見たのかと思ったけど、避難指示が出てたって聞いてびっくりした。小此木が化け物にやられたって、咄嗟に言えた自分を褒めてほしいよ」
「いい機転だったな。俺たちの親を殺した小此木の末路としては、あっけなかったな」
「それで、おこ…兄貴。その…生きてるんだよな」
「不幸にも。…ああ、そういえば防衛会社って意外に権力があるみたいだ。死体の一つや二つ、なんとかなる」
「そうなのか…。っよがっだぁ…。本当に…ごめんなぁ…」
そのまま雄二はしばらくの間、電話越しに泣いていた。…思ったよりも罪悪感を与えてしまったようだ。それに耐えられなくなって、思わず電話してしまったのかもしれない。だとすれば、化け物に襲われたことも、ここに雇われたことも、彼の罪悪感を消せたという点ではラッキーだったといえるだろう。だが、そもそも今回の計画。…雄二の親殺しの罪を被り、学校の屋上から足を滑らせて転落して事故死。そして、自分に掛けられた生命保険で彼の祖母の手術を行う。なんて、穴だらけの計画を思いついたのは自分だ。だが、この計画はあくまでも、自分が自殺する時のついででしかない。だから、雄二が罪悪感を被る必要もないのだ。
「なぁ、兄貴」
震える声で雄二が尋ねてくる。
「もう死なないよな」
「そりゃあ」
大きく息を吸い込み、やや大きめに声を出した。
「当然」
その先の言葉を、続けることはできなかった。
電話を切って布団の上に乱雑に投げ、自分自身も重力に任せてベッドに倒れ込んだ。ギシリとスプリングが嫌な音を立てる。…これからどうしようか。計画は上手くいった。だが、自分はまだ生きている。でも、もう散々だ。散々生きてきた。もう十分だ。死ねなかったなら、もう一度自殺をすればいいだけだ。最悪ここで首をくくるのも悪くないかもしれない。けれど、…せめて最後くらいは死にたい場所、あの懐かしい高校の屋上で死にたかった。
ふと、両親の顔が頭に浮かんだ。眉間にしわを寄せ、口を真一文字に結んでいる。なぜ、こんなに不機嫌な顔しか、思い出せないのだろうか。ああ、そうか。自分に向けた顔がいつも、こんな顔だったからか。
ズボンのベルトを外し、何か引っかける事ができる場所を探すと、壁に何か所か突起物があるのを見つけた。3つの小さな枝のような物が、均等に並んでいた。ハンガーを掛けておくための場所だろうか。真ん中と左の突起にベルトをしっかりと固定する。最早迷いなんて、無い。後は首を通すだけ。そう思い、ベルトに手を掛けた。途中で突起が折れてしまわないか確認するために体重をかける。すると、何故かカチャリという音が突起から聞こえ、ドアが突然開いた。余りに勢いよく開けたせいかドアはギィと音を立て、不格好な形で静止している。そして、そのドアの向こう側にいたのは、青白い顔で、肩を震わせている香苗さんの姿であった。
野谷さん達に発破を掛けられたわたしは、小此木くんのいる被験者管理室に向かって長い長い廊下を走っていた。小此木くんに対する悪いイメージを置き去りにするように、イジイジしていた自分を消しとばすように、全力で走る。前方に、一つだけ明かりのついている部屋が見えてきた。速度を落として、息を整えながら部屋まで歩いていく。まず、小此木くんに謝ろう。人を殺しちゃったことは、絶対に許されることじゃないけど、だからといって、彼を否定するのは間違っている。野谷さんの言う通りだ。
小此木くんの部屋の前についた。何だか緊張する。大きく息を吐く。よし、大丈夫。行こう。そう思い、カードキーを差し込もうとしたとき、突然部屋から音楽が聞こえてきた。わたしも知っている歌だ。確か、部長さん達と一緒にみたホラー映画のオープニングだったはずだ。殺人鬼が住む家に、主人公たちが閉じ込められてしまう、というストーリーだった。その不気味さを煽る独特なテンポが苦手で、聞くだけで足が若干すくんでしまう。化け物の方が、よっぽどましだ。
「もしもし」
中から小此木くんの声が聞こえた。どうやら電話の着信音だったようだ。…趣味が悪すぎる。
しかし、入るタイミングを逃してしまった。電話が終わるまで、ここで待っておこう。
「もしもし譲次ですが」
その声が聞こえた瞬間、背筋に何か冷たいものが走った。じょうじ?聞き間違いだろうか。彼の名前は小此木啓二だったはず。いや、聞き間違いだ。そうに違いない。きっと。
「良かった。俺は、何故か防衛会社に入れられたよ。どうやら、足元にいた化け物を踏んづけてしまったらしい」
随分と気障な言い回しだ。だけど、その言葉を額面通りに受け取ると、自殺しようとして、たまたま下にいた化け物を踏んでしまった、ということになる。なるほど、それなら風香さんの言ってたこととも辻褄がある。だけど、こういうことだろうと信じたいけど、心のどこかでそれを否定する自分がいる。彼は危険だと、頭が警鐘を鳴らしている。
「いい機転だったな。俺たちの親を殺した小此木の末路としては、あっけなかったな」
目の前が真っ暗になった。足が震えて、上手く立てない。自分が今、息を吸っているのか吐いているのかすら、分からない。
俺たちの親を殺した小此木の末路。その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。一体どういうことなの?彼が殺したのは、多田さん夫婦じゃないの?それに、小此木の末路って、あなたがその小此木ではないの?
「不幸にも。…ああ、そういえば防衛会社って意外に権力があるみたいだ。死体の一つや二つ、なんとかなる」
もうやめて。これ以上この疑惑を確信に近づけるようなことは言わないで!小此木くん、いや、あなたは、他の小此木という名前の誰かを殺した後、それを化け物の責任にするためにこの会社に近づいたってこと!?そのために、この会社の権力を利用するために!わたしは、あなたが殺人を犯したとしても、それを咎める気は、もう無かった。だけど、あなたが、その罪を意識していないのなら、罪悪感を持っていないなら。それは、もはや。
もはや、狂人そのものじゃないか。
「当然だ」
先程とは打って変わって、低い威圧するような声が扉の奥から聞こえた。役目を果たしていない足は、もうピクリとも動かず。意識とは関係なしに、歯がガタガタと嫌な音を立てている。怖い。ただただ、怖い。そんなはずないのに、自分の心を読まれているんじゃないかと、錯覚してしまう。狂人であることを、肯定しているように聞こえてしまう。
逃げよう。野谷さん達の所まで、走っていけば、それでハッピーエンドだ。管理室にある防犯カメラの映像を見てもらえば、きっと全て分かってもらえる。そうすれば、彼についても全て分かるはずだ。野谷さんと部長さんが、彼について詳しく調べて、きっと正体がわかって、彼も改心していい人になってくれるはず。だから、走って、逃げよう。
足に力を籠める。ゆっくりとだが、何とか立つことが出来た。後は、足を前に出して、そう前に進むだけ。だけど、何だか嫌な気がしてならなかった。何だか、似たような出来事を最近見たような気がする。ああ、思い出した。確か部長さんが持ってきたホラー映画のラストシーンだ。確か、殺人鬼が住む家から逃げ切った主人公が、その家のドアから出て、逃げようとした時、突然ドアから殺人鬼が現れ、主人公を殺してしまうのだ。とても怖かったので、よく覚えている。野谷さんですら、小さく悲鳴を上げていたのだ。
自分も今、似たような状況だ。だが、違う点と言えば、ここが自分の会社であることと、ドアが内側からは、絶対に開かないということだ。絶対、といっても非常用に隠しスイッチがあるらしいが、わたしもどこにあるか知らないので、彼も分からないはず。だから大丈夫。
足を伸ばして走ろうとする。だが、それは大きな衝撃と破壊音によって妨げられた。余りの音量に頭が真っ白になる。折角立ち上がっていた足も再び、崩れ落ちてしまった。動かそうとするも、全く力が入らない。まるで、自分の足が他人のものになってしまったかのようだ。
「大丈夫か?」
底冷えするよな声が前から聞こえた。顔を上げると、そこには、段ボールのように拉げているドアと、無気力に立っている一人の男の姿だった。その男は、何処を見ているか分からないような、虚ろな目、まるで死人のようなその目で、わたしをまじまじと見ている。ああ、この目は、あの映画の男と同じ目だ。狂人の目だ。
そこでわたしの意識は途切れた。