終わらない始まり
死ぬ直前になると、暑さを感じなくなるらしい」
ふと、そんな懐かしい言葉が頭に浮かんだ。
自分は昔から、一つのことに集中するのが苦手だった。高校で入った剣道部でも、たいして熱意があったわけではないが、友人である多田雄二に勧められて入ってしまい、惰性で続けていただけだった。さして剣道自体は嫌いだった訳ではない。ただ、顧問がいけなかった。まるで漫画の中から飛び出してきたような熱血漢で、根性があればすべてができると本当に信じているような人だった。だったら根性で髪を生やしたらどうだと一度言ってしまったせいで、しばらく俺だけ練習メニューが倍になったことは、きっと忘れないだろう。夏ということもあり、あの時は本当に辛かった。その時地獄の練習に疲れ、暑い暑いと不満を嘆いていた時、先生は俺にこう言ったのだ。
「お前死にそうだな、だが暑いと思っているうちは死なないぞ、ほら、早く立て」
殴ってやろうかと思った。あれ以来剣道部では俺の猛練習が名物になっていた。そのおかげかどうか知らないが、県大会でそこそこの成績を残すことができた。先生も褒めるだろうと思っていたが、あいつの口から出た言葉は想像していたよりもずっと辛辣だった。
「なに、途中で負けてんだよ、今から卒業するまでもお前は練習な」
殺してやろうかと思った。
だが、その一方的な約束は果たされることはなかった。
その次の日に、あいつは心臓の発作で死んだのだ。
さぞかし、清々するかと思ったが、なぜだか涙が止まらなかった。
おい、根性で生き返れよ。練習するんじゃないのか。
そう、何度も叫んだ。
「ほんと、ごめんな」
何度も聞いたその言葉が思考の渦から自分を引っ張り上げていく。あまりに長時間考えていたからか、それとも風が強いからか、足がおぼつかない。
「おい、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。それに今から死ぬんだから大丈夫もくそもないだろ」
「……ごめん」
「気にすんな、それにいい走馬燈も見れた、ほら、剣道部のあいつの」
「あいつかぁ、お前随分と慕ってたもんなぁ」
お互いに笑みがこぼれる。久しぶりに見た友人の笑顔はどことなくぎこちなかった。
今回の計画を思いついたのは、2か月前であった。2か月前、雄二が授業後に教室に残ってほしいといった、あの時だ。その1週間前から雄二の様子がおかしい事は、誰もが気づいていた。いつも陽気だった彼が、一言も話さず、話しかけられても生返事をするだけ。なにかに怯えるように、時々きょろきょろと周りを見渡したり、挙句の果てに突然泣き出したりしていた。だから、雄二が自分に話したいことがある、と言われた時、やっときたか、と思った。遅い、とも。だが、彼が何をしたかは、薄々想像がついていたし、事実その想像通りだった。雄二は彼の両親を殺したのだ。まぁ、あのろくでなし共によく18年耐えたものだとも思うが。なので、俺はそれについては彼が罰せられるべきではないし、されてはいけないと思った。だから、自分がその罪を庇うといった。その時には、もう自殺することを決めていたから、そのついでに、と。当然、雄二は拒否した。「そんな事をしてしまったら、俺はもう生きていけない」と泣きながら訴えた。殺人をしてしまった時点で、もう十分まずいと思うが、流石に口には出来なかった。その代わりに、自分は事故死したと証言してほしい、といった。自ら命を絶ったという事実を、なるべく知られたくない人がいるからだ。
「頼んだぞ、雄二」
「お前に名前で呼ばれると寒気がするなぁ、でも、任された。こっちこそ、その、ごめんな、小此木」
「もう謝るなよ、それにお前の方が気持ち悪いぞ」
ひっでぇと苦笑いしている雄二に顎で合図を送る。そろそろ時間だ。ふと、下を見る。そこには見慣れたグラウンドと直線状に並んだ植木、ミニカーのように小さく見える車が規則正しく並んでいる。卒業式が終わってからしばらく時間がたっているためか、人は誰も見当たらない。柵をつかんでいる手を離し、気取ったように手をあげる。
「それじゃ、先生に会ってくるわ。あと、任せたぞ」
「おう、有事の際は雄二にお任せってなぁ」
そう震える声でいったうすら寒い駄洒落がこの季節外れの嫌な暑さを中和してくれるように感じた。
「ああ、そうだ最後に一ついいことを教えるわ」
「なんだよ」
そう答えた雄二の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。まったくいい友達を持ったものだ。
両手をわざとらしく掲げ、腰をかがめる。
「死ぬ直前でもな、普通に暑いぞ」
そう言って大きく前に跳んだ。
これで、やっと死ねる。
私は昔から不運であった。外を歩けば鳥の糞が降ってくるし、買い物に行けば私のちょうど前でほしいものが売り切れる。トーストを落としたらまずジャムが付いた方が下に落ちるし、職場では上司がいるときに限って大きなミスが見つかる。ほかの人が聞いたらそれは運の問題ではないというかもしれないが、私の場合際立ってそういうことが多かった。だから私は努力した。今では鳥の糞は避けられるし、買い物は開店直後に向かう。トーストは落とさなくなったし、ミスももはやしない。だが、それでも私は現在進行形で不運であるといえるだろう。全くもって人生というのは理不尽だ。
「…聞いてますか!?風香さん!」
「ええ、聞いてるわよ、香苗。その上で自分の不運さに嫌気がさしてただけ」
「いつもの自虐は止めてください!」
電話越しで大声をだすな、と後輩をたしなめつつ全力で目的地に向かう。
「避難誘導は完了しました!あと、どのくらいで着きますか?」
「ごめん、また信号に引っかかった。ついてないわね」
「それどころじゃないでしょ!もう無視して進んでください!」
「分かった、分かったから大声をださないで」
仕方がないので信号を無視して、アクセルを思いっきり踏んで目的地へ向かう。確か目的地である高校では今日卒業式であったはずだ。そのまま人生から卒業なんて事態になったら笑えない。
しばらく車を飛ばしていると目的地の高校が見えてきた。減速せずに校門を突っ切り、適当な場所で車を止める。
「到着したわ。で、やつの姿が見えないのだけれど」
「そんなはずはありません!確かにそこに反応があります!」
しかし、周囲を大きく見渡すもなにもそれらしきものは見当たらない。もう一度連絡するか、そう思い携帯に視線を動かした瞬間、全身に大きな衝撃が走った。
「うっ!!」
気づいた時には体が宙を舞っていた。突然の出来事に状況判断が追い付かないが、体に染みついていたのか、なんとか受け身をとることができた。日々の訓練の賜物だ。痛む体に鞭をうち何とか立ち上がり、急いで銃型魔術機を取り出し、臨戦態勢に入る。内臓と骨もおそらく大丈夫だろう。
「……さん!……夫…か!応……呼…!」
だが、どうやら携帯は死んだらしい。不運だ。
「グギャアアアアアアア!!」
突如、後ろから大きな叫び声が耳をついた。反射的に振り返る。そこには紛れもない化け物がいた。とぐろをまいている長い尾、吸盤らしきものが各指についている手。ぎょろっとして自己主張が激しい目。全体的に薄緑の体。一見するとただのカメレオンのように見えるが、その異常な大きさがそれを否定する。咄嗟に銃撃魔法を放とうとするも照準を合わせる間もなく奴の姿が消えていった。隠蔽魔法か、それとも光学迷彩の類か、どちらにしろ厄介なことに変わりない。とりあえず手あたり次第に銃撃魔法を放ちつつ、捕捉されないように足を動かし続ける。
ガサッ
魔法を放ちつつも、背後から聞こえたその音を私は聞き逃さなかった。瞬時に振り返り、音のしたところにいる見えない敵を狙い、引き金を引く。その魔法は奴をなぎ倒し、これで今日の仕事は終わり、そう思っていた。
しかし、魔法は何にも触れることのないまま、地平線へと消えていった。
しまった!
そう思った時にはすでに遅く、体が奴の尾に締め付けられていた。
「くっっそ!」
これは、あれだ。結構まずい。正直に言って自力での脱出は不可能だろう。遠距離専門だからとか言わずにきちんと筋力トレーニングをしておくべきだった。
「っっっ!!」
無駄なことを考えているうちにだんだんと拘束がきつくなっていく。肺が圧迫されて息ができない。なんとか、なんとかしなければ!
その時、ふと視界に映るものがあった。高校の校舎の屋上に人がいたのだ。避難指示が出ていたはずなのだが、なぜここにいるのだろうか。しかし、今はそんなことなどどうでもいい。藁にも縋る気持ちでその人物を見つめる。しかし、向こうはこちらに気づく気配はない。くそっ……ああ不運だ。
半ば諦めかけ、死を覚悟したとき、突如それは起きた。唐突に起きたそれは、余りに非現実的で、私の幻覚ではないかと疑うほどだった。
屋上にいた人物が、突然飛び降り、見えないはずの化け物に見事な踵落としを決めたのだ。それと同時に、拘束が緩まり、身体が地面にするりと落ちていく。呆然としていたためか、先程とは違い、大きく尻餅を着いてしまった。痛い。
「ギィィィ……グギャァァァァァ!」
耳を劈く化け物の叫び声で、我に返った。化け物は、先程と違い、その薄緑のグロテスクな見た目をさらしながら、もがき苦しんでいる。よく見ると、左の目が潰れており、緑色の液体がドクドクと溢れ出ていた。さっきの屋上にいた人の踵落としが当たったのだろう。……屋上から飛び降り、姿が見えない相手の急所に踵落としを決めるとは、一体どんな超人なのだろうか。ただ、実力は私よりもはるかに高いということは分かる。その件の人物は、化け物から幾分か離れている場所で、俯せに倒れていた。死んでいるかどうか分からないが、警戒するに越したことはないだろう。
だが、今は目の前の瀕死の化け物を相手にする方が先だ。化け物は、やはり目がよく見えていないのか、がむしゃらにその場で暴れていた。時々校舎に頭をぶつけ、悲痛な叫び声を上げている。哀れだ。ならば、早々に止めを刺してしまおう。動かない敵など自分にとってはただの的でしかない。化け物の心臓付近―本当にそこに心臓があるか分からないが―に狙いを定め、引き金を引く。今度は自分の想像通りに魔法が発動し、化け物の身体が段々と氷に覆われていく。ビキビキと大きな音を立てながら、化け物はもはや物言わぬただの氷山へと成り下がっていた。
「ふぅ…珍しく幸運だった、かな」
今回ばかりは、本当にダメかと思った。まさしく九死に一生を得たというやつだろう。それも、目の前で横たわっている人物のおかげだ。よくよく見ると、男物のカッターシャツに、桜と盾が並んでいるような独特な校章が刺繍されている。どうやら、この高校の生徒のようだ。だが、先程の神業とも言える偉業をただの高校生が為せるはずもない。いくら命の恩人といえ、無警戒に近づくことは、余りにも危険だ。
倒れている男の脳天に銃先を合わせながら、ゆっくりと距離を詰める。
「…ぅん」
一歩踏み出した時、目の前の謎の高校生は、小さくうめき声をあげ、目を薄らに開いた。その目を見た、いや、見てしまった瞬間に全身の毛が逆立つのを感じた。なんだこの目は。混沌と濁っていて、生気がまるで籠っていない。死人だ。死人の目だ。
「お前は、何者だ。いや何だ!」
「ああ…ああ」
「答えろ!」
魔術機を握る手が細かく震え、引き金に掛ける指が徐々に沈んでいく。体から魔力が溢れ出し、それが銃先から放出されようとした時、少年はゆっくりと口を開いた。
「…やっぱり」
「何だ!」
「やっぱり先生の言ったことは間違っていなかった…」
「先生ってだれ…」
「風香さん!何やってるんですか!」
言葉を言い終わる前に、聞きなれた香苗の騒がしい声がそれを遮った。頭が急速に冷えていき、状況を理解し始める。そうか、連絡が取れなくなったから応援に来てくれたのか。
「何一般人撃とうとしているんですか!しかも高校生に!」
「あなたも高校生でしょ。それに、この人はただの高校生じゃないわ」
「いやどう見ても普通の高校生ですよ。しかも負傷している。もし、応援に来たのが部長だったら懲戒物でしたよ」
「いや、そんなはずは…」
件の高校生をちらりと窺うと、先程の様子とは打って変わって、どこか穏やかそうな顔で眠っている。何故か無性に腹立たしい。
季節外れのじめっとした温風が頬を撫でた。結果的には、化け物も退治出来たし、被害者もゼロ。最高の結果に終わったはずなのに、どこか陰険とした物が心に残る。
…まぁ、当面の問題は、この騒がしい後輩に何とかして弁解をすることだ。この調子だと随分と骨が折れる事だろう。
……やっぱり今日も不運のようだ。