TSした男の子が、心も体も女の子になるまでの話
「は……?」
高校2年生の冬、目が覚めると俺は女になっていた。何の前触れも無く唐突に、俺の男としての人生は終わったのだ。
「これはTS病ですね」
医者のその言葉は俺にとって、死刑宣告に等しかった。世間では、『TS病』なんて言葉が話題になりつつある。なんでも、朝起きたら性別が逆転してしまう病気だという。男は女、女は男に。原因は不明。治療法も不明。1度発症してしまえば性別を戻す手段は無く、性転換手術を受ける他ない。そんなフィクションのような病気が、世界中で確認されているという。
あれから俺は、母と共に病院に来ていた。母にこの姿を見られたときは、俺の彼女と誤解されたりと一悶着合ったが、何とか俺だと信じてもらえた。まずは病院に行こうという話になり、受けた長時間にも及ぶ精密検査の結果がこれである。
「やっぱりそうなんですか……。でもまさか、うちの息子が発症するなんて……」
「はい、間違いありません。国内でもまだ数件しか確認されていませんが、それらの症例と息子さんの症状はほぼ一致しています」
「はぁ……。それで息子はどうなるんでしょうか?」
「治療法が見つかっていない以上、女性として生活してもらうしかありません。後日改めて、戸籍等についての詳しい話を――――」
母と医者の会話はほとんど耳に入ってこない。俺は未だに混乱から立ち直れてはいなかった。頭の中がグルグルと回り、思考が迷路に入り込んでいく。
(どうして俺が女に? 嘘だよな……。夢、だよな……)
性質の悪い冗談としか思えなかった。昨日までは確かに男だったのだから。いつもと変わらない昨日までの日常と、今の非日常がどうしても繋がらない。まるで動画をぶつ切りにして、別の動画を無理やりくっつけたかのような違和感。思わず胸に手をあてる。そこには、平たく固い胸板があるはずだった。けれど、実際には大きくて柔らかい女の胸がある。掌に伝わる熱が、自分が女になったという現実を残酷に教えてくれた。
所詮はテレビの向こう側の、自分には関わりのない出来事。TS病の特集を見ても、病気になった人は大変だなと他人事のように考えていた。自分がなるはずが無い、と。けれど、そんなものは幻想に過ぎなかった。この日から、俺の……如月明の日常は劇的に変わってしまうのだった。
今日は市役所の人が来ていた。俺に今後についての話だ。両親と共に真剣に話を聞く。TS病という国内でも発症例が少ない奇病。そんな俺に対して、国は補助金を出してくれるらしい。検査にかかる費用も全額負担してくれるという。まさに致せりつくせりの対応だ。これくらいしてもらわなければ割に合わない。
「えーと、明さんの性別ですが、戸籍上は女になります。今後は女性として扱われることになりますね。TS病ということは」
「はい……そう、ですか」
俺の戸籍上の性別は女になってしまうらしい。今の日本では、心の性別では無く体の性別が優先される。性別を変更することもできるらしいが、かなり条件が厳しい。その条件を俺が満たすことは現実的ではないと言う。覚悟していたことだが、やはりやりきれない。どうしようもない現実を前に、気持ちが落ち込んでいく。
「TS病を発症した方の多くは改名をします。名前と性別にギャップが生じてしまいますから。幸い、明さんは女性名でも通用しますので改名はなさらなくても結構ですね」
「はぁ……」
確かに明は女の名前でもある。これでもっと男らしい名前だったら、改名を余儀なくされていたかもしれない。これから自分の名前が女として認識されると思うと、なんだか妙な気分だった。
「ええと、それで私たちは何かしなければいけないんでしょうか?」
「それに関して、手続きを――――」
両親と市役所の人の話が続く。生々しい現実的なやり取りで、淡々と俺が女になったという事実を処理されていく。少しずつ、男としての自分の痕跡が消されていくような気がして、酷く恐ろしかった。
鏡に映るのは、フリフリのワンピースに身を包んだ美少女。そう、俺である。ブラジャーを着け、女物のパンツまでバッチリと履かされている。何処からどう見ても女。男の要素など微塵も感じさせない。
「わぁ! やっぱりお姉ちゃん可愛い! すっごく似合ってるよ!」
「う、うるさい……!」
妹の光が楽しそうに笑う。俺がこんな格好をしているのはこいつが原因だった。
当初、俺は女になろうが服装まで変えるつもりは無かった。見た目は女だろうと、心は男。それなのに女物の服を着るなんて女装と変わらない。だから絶対にごめんだった。しかし、それではダメだと言ってきたのが光だ。
「こんなに可愛いのに勿体ない!」
そう言って、光は俺に可愛い服を着るように迫った。最初は断固拒否していた俺だったが、泣きそうな顔を浮かべる妹を前に意志を保ち続けることは出来なかった。
以来、俺は光が選んだ服を着ることになる。時には街に出て、一緒に服を選ぶこともあった。そういう時は何時間も着せ替え人形にされるので、非常に嫌で仕方がない。しかし拒否しようとすれば泣きそうになるので、断ろうにも断れない。楽しんでいるのは間違いないだろうが、光だって良かれと思ってやっていることなのだから。
だがそれにしたって、最近コイツが選ぶ服は女の子女の子し過ぎている。最初の頃はまだ許容範囲内だったが、次第にエスカレートしていっているように思える。
「なぁ……。もっと控えめなのにしてくれよ……。ほら、ボーイッシュなファッションとかあるんだろ?」
「何言っちゃってんの。お姉ちゃんにそんなファッションに合わないから。お姉ちゃんは何処からどう見ても女の子なんだから、それらしい恰好をすべきなの! 早く慣れたほうがお姉ちゃんのためだよ」
「……っ」
そんなことは分かっていた。治療法が分からない以上、男に戻ることは出来ない。性転換手術という方法もあるが、TS病の原因が解明されていない現状ではリスクが高いという話だ。俺は女として生きていくしかない。
「お姉ちゃん」という心が突き刺さる。妹の中の俺はもう女なのだ。そう思うと、とても悲しくなった。
当然の話だが、TS病を発症してから学校は休んでいる。しばらく行く気力も無いが、諸所の手続きが済んでいないので行こうと思っても行くことはできない。男子生徒が突然女になったのだから、学校としてもさぞや困惑していることだろう。
女になった姿を見られたくないので、必然的に家の中で過ごすことが多くなる。病院に行くか妹に連れ出されない限り、ほとんど部屋の中で籠り切りだ。時間を潰すために、勉強をすることが多くなったのは皮肉な話だ。単に、無為な時間を過ごしているのではないと思いたくないだけなのだが。
「明ー! ちょっと料理手伝ってー!」
「分かった、今行く」
母は最近、俺に家事の手伝いをさせる。掃除に洗濯、それから料理。家に籠りっきりでやることもないし、何となく引け目も感じるので手伝うこと自体に異論はない。しかし、母は単に家事の労力を削減するためだけに、俺を手伝わせているだけではないのだ。
「女の子なんだから、家事くらいできなきゃね。将来苦労するわよ?」
とのことだ。将来、それはつまり結婚のことだろうか。男と結婚なんて考えただけでも吐き気がする。結婚するくらいなら一生独身でも構わない。
「俺、結婚するつもりはねーし」
「こら! 俺なんて言葉、使っちゃダメでしょ? 明はもう女の子なんだからね」
「勘弁してくれよ……」
家事のことだけでは無く、母は何かと俺に女らしい振る舞いをするように言ってくる。そこまで強く言ってくるわけではないが、何かにつけて言ってくる。やれ女らしい言葉遣いをしろ、やれ女が股を開くな、やれ髪を整えろ……と。正直うんざりしてくる。もちろん悪意があって言っているわけではないのだろう。純粋に俺のことを思ってのことだ。
「明……私たちは、貴方が元は男だって知ってるからいいのよ? でも初めて貴方を見る人は、貴方が女だって思うの。女だと思って、貴方の行動を判断するの。だからいつまでも男のままでいられるわけじゃ……」
「分かってるよ! 言われなくたってそんなことは!」
「あ、明!」
母の言葉に耐えられず、逃げるようにキッチンを後にする。階段を駆け上がり、自分の部屋に駆け込んだ。
母が正しいのは分かっている。男のような口調で、男のような行動をする女が実際にいたらどうだろか? そんな痛い奴に関わりたいとは思えない。母は俺が周囲に馴染めるか心配なのだろう。
けれど、正しいからと言って受け入れられるかは別だ。女の服装をするのは、百歩譲って我慢することができる。体は女なのだから、体に相応しい恰好をするのは当然と考えることができる。でも、心は違う。俺の心は未だに男のままだ。体が女になったからと言って、心まで女になるわけじゃない。俺に残った、最後の男。それが女らしい振る舞いをすることで、消えていくような気がしてとても受け入れがたいのだ。
「んっ……ふう」
シャワーを浴びてさっぱりとする。今日は久々に外に出た。それも1人で、女の恰好をして。女になってから1人で外出することは無く、母か妹のどちらかと一緒だった。いい加減慣れなくてはいけないと思って1人で外に出たのだが、とても緊張した。自分が変な人間だと思われてないかと、他人の目を異常に気にしたからだ。お陰で帰ってきたころには、冬だというのに冷や汗をびっしょりと書いていた。
ふと、自分の体に目を落とす。肉感的で女らしい体。女になってからしばらく経つが、未だに慣れることは無い。この体が自分の物だという実感も持てていない。俺の本当の体は別にあって、この体は知らない誰かの物だと言われた方がよっぽど納得がいく。いつか慣れる時が来るのだろうか。今の俺には分からない。
シャワーを終え、脱衣所で体を拭いていると、扉が開く音がした。そちらを振り向くと父が立っていた。
「どうしたの、父さん?」
「あ、ああ……いや……。洗濯物を取りに来たんだが」
父は気まずそうに目を逸らす。今の俺は一糸纏わぬ裸体。男としては目のやり場に困るのだろうが……。
「別に目を逸らすこと無いだろ? 俺は気にしないし」
「そ、そういう訳にもいかんだろ。お前は娘なんだから……」
「……娘、ね」
そう言って、父は扉を閉めて逃げるように立ち去った。女になってからというもの、父との関係は上手く行っていない。比較的あっさりと受け入れた母と妹と違って、父は俺という存在を受け入れ切れていないのだろう。むしろ父の反応のほうが当然だと思う。いきなり息子が娘になったのだ。扱いに困るのは当たり前だ。最近では、俺のことを娘として扱おうと努力しているのが分かる。父も俺と同じように、変わった日常に馴染もうとしているのだ。
けれど、それでも。俺は父に、息子として扱って欲しかった。家族の中で1人だけでも、今まで通り俺を男として見てくれる人がいて欲しかった。そう思うのは、悪いことだろうか。
「うわ、マジで女になったのかよ!」
「明なのにかわいーじゃんか」
「ホント! 制服似合ってるよ」
「あ、あんまジロジロ見んなよ……」
TS病になってから1ヵ月程経ち、俺は学校に復帰した。諸々の手続きが終わり、俺の決心もついたからだ。着慣れた男子制服では無く、女子制服を身に纏っての登校。教室に入るまでは緊張で胸が張り裂けそうだった。変わり果てた俺を見て、クラスメイトがどんな反応をするのか不安だった。気持ち悪いものを見る目で見られたら、きっと一生立ち直れない。
けれど、それは杞憂に過ぎなかった。いざ教室に入ってみれば、皆俺のことを受け入れてくれた。それどころか、興味津々に俺に構ってくる。どうやら俺についての話が、学校からもあったらしい。彼らが俺のことをこうして受け入れてくれたのも、その説明があってのことだろう。正直とても嬉しかった。不覚にも泣きそうになったのを覚えている。
学校に通うようになって、ようやく元通りの日常に戻ってきたと思った。男となる前と変わらない学生としての毎日。授業の遅れを取り戻すのには苦労したが、友達の助けもあって何とかなった。友達とは、男のころと変わらず上手くやっていけている。馬鹿騒ぎで盛り上がったり、帰りに買い食いなんかもした。男の口調と仕草で、彼らに接することができた。
家の中では、相変わらず母と妹に女になるための指導を受けている。最近では化粧までするように言われ、正直限界が近い。けれど、それに反発することは出来なかった。善意だから断り辛いというのもあるが、それ以上に自分に自信を持てなくなっていた。男でも無く女にもなり切れない自分が、酷く気持ち悪い存在だと思えて仕方がない。すっかり臆病で、気が弱くなってしまった。
家の中で男の俺の居場所は無い。だから、学校の中だけは俺が男でいられる。男の自分を知っている友達の前では、男のままでいることができる。そう思っていた。
「なぁ、明……頼みがあんだけど」
「ん? 何だよ、突然」
休み時間、男友達が俺の机を囲んで言ってきた。友達の様子は、なんだかいつもと違って見える。しばらく彼らは黙り込み、やがてニヤニヤと笑いながら口を開いた。
「……む、胸触らせてくれよ」
「え……?」
思わず胸を隠す。友人達の視線は、俺の胸に注がれていた。いやらしい、ねっとりとした視線。決して男に向けるものでは無かった。
「いいだろ? な! 俺たち友達だろ?」
「そうそう! ちょっとでいいから、頼むよ」
「男同士なんだからいいだろ?」
友人達は鼻息を荒くして、俺に迫ってきた。彼らにすれば軽い冗談だったのかもしれない。けれど、俺はその姿に恐怖と嫌悪しか感じなかった。
「ひっ!? い、嫌だ……!」
思わず立ち上がり、逃げるように教室を後にした。結局、友達も俺のことを女として見ていたのだ。男のように振る舞う女としか映っていなかったのだ。男のころと同じように接してくれている? そんなわけは無い。所詮は思い込みに過ぎない。俺がそう思いたかっただけ。男と男の関係が、男と女の関係に変わったのだ。歪みが出来ないわけが無い。
「あは、あはは……」
乾いた笑いが零れる。男としての俺の居場所は、もう何処にも無い。そう思うと、胸が締め付けられるように苦しかった。
ここのところなんだか体調が悪い。頭痛と腹痛が続き、体にだるさを覚える。そのせいか、些細なことでも腹が立つ。いつもは受け流せていた家族の態度も、無性に気に障って仕方がない。今まで溜まりに溜まった鬱憤が爆発しそうになるのを必死で堪えていた。
「ねぇ、お姉ちゃん大丈夫? 病院に行った方が……」
「いい、平気。寝てれば治る」
「でも……」
「わざわざ部屋まで来なくていいから」
光の気遣いも鬱陶しく感じる。今はとにかく1人にして欲しかった。今のささくれだった心で口を開けば、光を傷つけるかもしれない。ベッドの中に潜り込み、外界との繋がりを遮断する。目を瞑り、そのまま眠ってしまおうと思った。
その時、下半身に違和感を感じた。下着が湿っているような感覚がする。嫌な想像が頭を過った。まさか、漏らしたのではないだろうか。女になって日が浅いころ、尿意のコントロールが上手く行かずに漏らしてしまったことがある。男と女では尿道の長さが違うことが原因だ。母は優しく慰めてくれたが、それが余計に惨めだった。自分に自信が無くなった要因の1つでもある。その上、妹の前で漏らすなんて真似をすれば、俺の男としての尊厳は完璧に砕け散ってしまう。祈る気持ちでそっと下着に触れてみる。指先に湿り気を感じた。しかし、漏らした時のものとはまた違うような気がする。あまり気は進まないが、下着の中に直接手を突っ込んでみた。股の付近を触ると、ドロドロとした気持ち悪いものが指につく。明らかに尿では無い。おそらくこれが湿り気の原因なのだろうが、一体何なんなのか全く想像がつかない。もしかして俺の股から分泌されたものなのだろうか。指についたそれの匂いを嗅いでみる。
「うっ……!?」
「お姉ちゃん? どうしたの!?」
思わず咽てしまいそうな、酷い臭いに襲われる。今まで嗅いだことのない、生臭いような臭いだ。本当に何なのだろうかこれは。どうして俺の股にこんなものが付着しているんだ。言いようもない不安で胸がいっぱいになる。もしかして、変な病気にかかってしまったのだろうか。TS病になっただけでも十分過ぎるほどに苦しいのに、これ以上酷いことになったら絶対に耐えられない。
「……病院行くから着替える。出てって」
ベッドから顔だけ出し、光にそう告げる。もし本当に病気なら、早めに診てもらったほうがいいだろう。放置して悪化なんてことになった目も当てられない。
「え、ちょっと! ホントにどうしたの!? 大丈夫なの!?」
「うるさい。いいから出てけ!」
「っ……わ、分かったよ」
光は哀しげな表情を浮かべ、部屋から出ていった。傷つけてしまったかもしれない。心配してくれる妹に対してする態度では無かった。罪悪感を覚えたが、すぐに自分の体への心配で頭がいっぱいになる。とにかく今は自分のことだ。謝ることは後で幾らでもできる。とにかく病院に行かなくては。
「お姉ちゃん! ごはんできたってー! 早く下りてきて!」
騒々しい声が聞こえ、沈んだ意識が覚醒していく。どうやら眠っていたようだ。病院から帰って来て、心配する光に結果を伝えてすぐに、部屋に鍵をかけて引きこもったのを思い出す。同時に、医者から告げられた診断結果が頭に浮かぶ。結論から言えば俺は病気ではなかった。俺を悩ませてきた数々の体の異常は、極めて自然な生理現象だという。そう……まさしく生理現象。俺の体を苛んできたものの正体は月経、いわゆる『生理』だった。腹痛や頭痛、だるさといった症状は、典型的な生理痛のもの。無性にイライラしていたのも、生理によるホルモンバランスの変化が原因らしい。そんな生理についての説明を、ただ茫然と聞いていることしかできなかった。頭に入ってきたのは最初だけで、途中からほとんど記憶に残っていない。気が付けば、ふらふらと家までの道のりを歩いていた。
ある意味で病気だと言われるよりもショックだった。改めて、自分の体が女だという事実を突きつけられたようなものだ。見た目だけでは無く中身までも女に成り果て、男だった面影など何処にも無い。誰が見ても俺が元男だなんて気が付かないだろう。いずれこの心まで完全に女のものに変わってしまうのか。自分が自分で無くなっているようで、堪らなく恐ろしい。男として生きてきた人生の全てが、否定されているかのようだった。
「……ああ、今行くよ」
絞り出すように何とか光に返事をして、ベッドの中から這出る。そういえば昼から何も食べていない。さすがに腹が減ってきた。考えが悪いほうにばかり傾くのも、腹が空いているせいもあるだろう。腹いっぱい食べて満腹になれば、案外前向きになれるかもしれない。そう思いながら、俺はリビングへ向かうのだった。
リビングに入ると、既に俺以外の家族が揃っていた。母と明はニコニコと嬉しそうな表情を浮かべ、父はそんな2人を見ながら苦笑いをしている。何がそんなに嬉しいのか分からなかったが、テーブルに目を落とすと理由に察しがついた。テーブルの上には、いつもよりも豪華な食事が並べられている。思わずごくりと喉が鳴る。とても美味しそうな料理ばかりだ。
「あ、やっと来た! 遅いよ、お姉ちゃん。待ちくたびれちゃったよー」
「ごめんごめん。それにしてもなんだか豪華じゃない? 今日ってなんかの記念日だっけ?」
思い当たる節は無い。俺と光の誕生日はまだ先だし、暦の上でも目立った行事は無いはず。
「ふふ、もう明ったら。これは貴方のためのものよ?」
「えっ? 私のため……?」
「貴方が女の子になってから、もう1ヵ月以上経つでしょう? 今まで大変な思いをしてがんばってきたご褒美? みたいな感じかしら」
「私も手伝ったよ! お姉ちゃんへの愛情が詰まってます!」
よく見れば、テーブルの上にあるのは俺の好物ばかりだ。母と妹が、俺のために用意してくれたのだろう。
「母さん……光……」
「明、見た目は変わってもお前が家族なのは変わらない。父さんたちはいつだってお前の味方だぞ」
「と、父さん……」
ああ、そうか。皆、俺を心配してくれていたんだ。ここのところ、自分のことでいっぱいいっぱいで、他人のことを思いやる余裕なんか無かった。無神経な態度を取ったかもしれない。不快な思いをさせてしまったかもしれない。それなのに、家族は俺のためにこんな場まで用意してくれた。……嬉しい。本当、泣きそうになる。
「あ、お姉ちゃん泣いてるのー? 嬉し泣きー?」
「う、うるさい……泣いてないし」
「こら光。あんまりお姉ちゃんをからかわないの! 明、早くこっち来て食べましょ?」
「うん……!」
家族の温もりが、凝り固まった俺の心を解してくれる。目の前の霧が晴れた気がした。……謝ろう。謝って、感謝の言葉を伝えよう。それから、隠してきた本音をちゃんとぶつけよう。たまには男の自分だって出したいってことを言おう。ため込んでいるだけじゃダメだ。ちゃんと話せば皆分かってくれるはずだから。
「あ、あのさぁ……」
「本当におめでたいわ。これで明は立派な女の子になったんだもの」
「……え?」
意味が分からない。どうしてこのタイミングで、そんなことを言うんだ。
「ついに生理が来ちゃったもんね。これからが大変だよ、お姉ちゃん」
「そうだなぁ……男の俺には分からんが、辛いものだって聞くし」
「ちょっとお父さん、それセクハラじゃない?」
「ええっ!? さすがに判定が厳しいだろ」
生理? 生理が来たことなんて、今はどうでもいいじゃないか。今日は俺の今までの苦労を労ってくれるんだろう? そんな事実、聞きたくなんかない。
「生理なんて、今はどうでもいいだろ」
「どうでも良くなんて無いわよ! だってこれは生理が来たことのお祝いでもあるのよ?」
「…………は?」
頭が真っ白になる。なぜ、生理をお祝いされなきゃいけない? 生理なんて一生来てほしくないのに。女の体になんかなりたくないのに。
「お兄ちゃんが女の子になっちゃった時は驚いたけど、こんな可愛いお姉ちゃんが出来て幸せだよ~♪」
「そうねぇ、こんなに可愛くなっちゃって。きっと良いお嫁さんになるわ」
「おいおい、俺はやっと明が娘ってことを受け入れられたんだぞ? 嫁だなんて早すぎる!」
家族の笑い声がリビングに響く。俺が女になったことを喜ばしいことのように語る彼らに、俺の我慢は限界だった。……もう耐えられない。
「いい加減にしてくれよっ!」
激情のまま叫び、テーブルを思いっきり叩いた。鈍い音が部屋中に響き、家族の会話が途絶える。皆は困惑した表情で俺を見ていた。
「お、お姉ちゃん……どうしたの、いきなり?」
「そんなにお姉ちゃんがいいのか? 兄の俺はそんなに嫌だったのか!?」
「ちょっと明! 落ち着きなさい!」
「明!」
父と母の怒声が聞こえるが、そんなものは全く気にならない。俺は思うが儘、溜めこんできた全てを吐き出す。
「なんで、生理が来たことを祝うんだ? 俺が女の体に近づいてることを祝うんだ? やめてくれよ。俺は男なんだ。体は女でも、心は男なんだよ! 男が女になって嬉しいわけないだろ!」
ずっと嫌だった。自分が女になったなんて信じられなくて、受け入れがたくて。あの日から、俺の全ては無茶苦茶になったんだ。決して、祝われるようなことじゃない。
「ああそうだよ。確かに俺は女になったよ。けど、そう簡単に受け入れられるわけない! 急に女の恰好をしろとか、女の振る舞いをしろとか言われても出来ないし、苦しいだけなんだよ! どうして分かってくれないんだよ!」
自分自身の手で男を消し去っているようで、堪らなく苦痛だった。急かされたって嫌なものは嫌だ。必要なことだって分かってるけど、もう少し俺の気持ちを考えてくれたっていいのに。
「どうして皆、そんな簡単に受け入れるんだよ。俺を女として扱えるんだよ。俺は今もずっと受け入れられてないってのに! それほど男の俺が軽い存在だったのか? 女になってもどうでもいいって思える存在だったのかよ!?」
男の俺が軽んじられているようで、必要とされていないようで、否定されているようで。それが一番辛くて、悲しかった。
息が切れ、胸の動悸が激しくなる。今までずっと胸の奥にしまい込んできた気持ちを、全て吐き出してしまった。けれど、爽快感は全くなかった。残ったのは後悔だけ。自分の本音を、こんな形で打ち明けてしまった。もっといい形で伝えられるはずだったのに。
「っ……!」
家族の反応が怖くて逃げ出した。皆の制止も振り切り、家の外へと出る。とにかく、逃げ出したかった。家族から、現実から、自分から。ただ逃げることだけを考え、走り続けた。
気が付けば、見覚えのない場所にいた。必死に走り続けて、いつの間にか着いてしまったらしい。人気が無く、薄暗い路地。もう辺りはすっかり夜だ。冬の夜の寒さが肌に染み、急に心細くなった。
「……どうして、こんなことになったんだろう」
あんな風に言うつもりじゃなかった。皆だって、悪気があって言ったわけじゃない。俺が過剰に反応しすぎただけ。せっかくの家族の好意を台無しにしてしまった。後悔ばかりが募る。
女になってから、何もかもが上手くいかない。ただ体が女になってしまっただけなのに、変わってしまったものが多すぎる。けれど、俺の心はいつまでも変わっていない。それが周囲の人たちとの認識のギャップを生んでいる。いつまでたっても女であることを完全に受け入れ切れていない俺を置いて、皆がどんどん先に進んでいるようで、1人だけ取り残されているようで、とても恐ろしかった。
「なんで、俺ばっかりがこんな目に……なんでだよぉ……!」
涙で目が霞む。感情が抑えきれない。やり場のない怒りと悲しさでいっぱいになる。思わずその場に蹲り、声をあげそうになるのを必死に堪えた。こんな風に泣くのはいつぶりだろうか。少なくとも、高校生になってからは感情的に泣いたことは無い。なんだか情けなくなってくる。俺の心は、いつの間にかこんなにも弱いものになっていたのか。女々しいと言われても仕方がない。こんな自分が嫌で嫌で堪らなくて、余計に涙があふれる。
どれだけの時間泣いていただろうか。涙を出し切り、少し冷静になった。いつまでもこんな場所にいるわけにはいかない。スマホを置いてきたため現在地を確認することは出来ないが、家からそう遠くない場所だとは思う。見知らぬ場所とはいえ、歩いていた方向の逆に戻れば記憶にある場所に出ることができるはず。そうなれば後はどうにかなる。正直、帰りたいとは思わない。けれど、このままじゃいけないとも思う。このまま逃げても何も変わらない。今向かい合わなければ、もう二度と向き合えない気がするから。
「帰ったら、謝ろう……」
蹲った状態から立ち上ろうとしたその時、背中に衝撃が走った。バランスを崩し、固いアスファルトに倒れ込む。一体何が起きたのだろうか。仰向けになり後ろを確認すると、そこには体格のいい男が立っていた。全身真っ黒な服装で、顔もサングラスとマスクで確認することはできない。男が俺に歩み寄ってくる。なんだか嫌な感じがする。逃げようと立ち上がろうとするが、体が震えて力が入らない。
「ひっ……!」
情けない悲鳴が口から零れる。目の前の男が恐ろしくて仕方がない。必死に力を籠めるが、体は言うことを聞いてくれない。周りには人気が無く、助けは期待できない。それでも一縷の望みにかけて助けを呼ぼうとしたとき、男の手で口が塞がれる。男は既に、俺の目と鼻の先にいた。恐怖のあまり息が詰まる。
「大声を出すな……殺すぞ?」
「っ!?」
そう言うと男は俺に伸し掛かり、首筋に何かを当てた。冷たくて、薄い何か。紛れもない刃物だった。少し動かすだけで俺の首は引き裂かれ、血が溢れんばかりに出ることだろう。その光景を想像して血の気が失せる。もはや身動き一つとることが出来ない。奥歯がガチガチと鳴り、体の震えが止まらない。
「俺の言うことには黙って従え。いいな?」
必死に首を縦に振って同意を示す。そんな俺の態度に満足したのか、男は俺の口から手を放し、刃物を懐に仕舞った。しかし依然として男は俺の上に覆いかぶさったまま。逃げ出すことなんて到底無理だった。
男は俺の体を舐めまわすような視線で見る。まるで品定めをしているかのような下卑た目。怖気が走る。最悪の想像が頭を過った。
「こんな夜遅く、女が1人で出歩いちゃいけねぇよなぁ?」
「ひっ、あっ……!?」
男の手が俺の胸に触れる。そのまま鷲掴みにされ、指が肉に食い込み微かな痛みを覚える。気持ちいいなんて思うはずもない。唯々気持ちが悪い。嫌悪感と恐怖で頭がいっぱいになる。男に体を弄ばれるということが、こんなにも気持ちが悪いことだとは思わなかった。
「やめっ、俺は男……だっ!」
せめてもの抵抗に、俺が男であることを主張する。そうだ、俺は男だ。男の俺が男に犯されるなんてありえない。こんなの絶対におかしい。相手だって俺が男と分かれば興味を無くすはず。
事情を説明しようと口を開こうとしたとき、空気を裂くような乾いた音が当たり響いた。一瞬何が起こったか分からなかった。頬が熱と共に激しく痛み始めると、ようやく事態に理解が及んだ。俺は今、頬を叩かれたのだ。手加減なんて欠片も無い暴力。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。どう見たってお前は女だろうが。次ふざけたこと抜かしたらこんなもんじゃねえぞ?」
「ぁ……」
説明する余地なんで与えてくれない。目の前の男は、俺を犯せればどうでもいいのだ。欲望を満たすためだけの道具として見ている。優しくしようだとか、そんな思考は無いのだろう。目の前の男が、人の皮を被った化け物に見えてくる。自分と同じ男のはずなのに、どうしてこんなに恐ろしいのだろうか。
男の間違いを、俺が女だという勘違いを訂正することができなかった。それは仕方のないことだ。口答えしたらもっと酷いことをされるのは間違いない。利口な選択をしたと思う。けれど、勘違いを正さないということは俺が女だと認めたことになる。自分自身で、俺が女だと認めたのだ。
どんなに女の振る舞いをしたとしても、心は男のままなのだと。俺は男なのだと言い張ってきたのに。見知らぬ男に襲われ恐怖し、暴力に屈服してしまうなんて。そんなのまるで、か弱い女の子じゃないか。ぶるぶると震えることしかできない俺の姿を見て、誰が男だと思うだろうか。俺の中で、何か大切なものが折れた音が聞こえた。
「はぁ、はぁ……っ!」
目覚ましの音が部屋に響く。目が覚めると、もう朝だった。全身がぐっしょりと汗で湿っていて気持ちが悪い。悪夢を見た。あの時の、思い出したくも無い夜。『私』が身も心も女になった夜。そして、家族が終わるきっかけになった夜。
家族は、私が襲われてしまったことを悔いていた。もっと私のことを理解していれば、私が家から飛び出すことも無かっただろうと。自分たちが私を追い詰めてしまったのが悪いのだと。何度も何度も、涙を流しながら謝られたのを覚えている。
それから家族は、私を腫れ物に触るように扱うようになった。あんなに楽しそうに女の手ほどきをしてくれた光も、ほとんど関わってこなくなった。仲の良かった父と母も、些細なことで言い争うようになった。お互いに相手を責めているのだ。私を追い詰めたのはお前だろうと。お前が悪いのだと。家庭は冷え切り、かつての面影は無くなった。笑い声の1つも無い、ただただ息苦しいだけの場所と化してしまった。TS病患者が襲われたということで、マスコミが家に押しかけるようになったのも原因だろう。面白おかしく騒ぎ立てられ、家族の心は疲弊していった。
そして、終わりの時は訪れる。父と母が離婚した。もう限界だったのだろう。私は父に、光は母に引き取られることになった。母と光は祖母の実家に、私と父は遠くの街のマンションに引っ越すことになる。家族は離れ離れとなり、引き裂かれた。こんな私のために、家族は終わってしまったのだ。悔やんでも悔やみきれない。家族は誰も悪くない。悪いのは全部私だというのに。
気怠い体を無理やり動かし、朝の支度をする。女物の服を身に着けることに抵抗は無い。だって、私はもう女なのだから。女が女物の服を着て違和感があるはずが無い。忘れず、手首にはリストバンドを着ける。手首には酷い切り傷がある。所謂リストカットという奴だ。あの夜から精神的に不安定になっていた私は、衝動的に体を傷つける癖がついてしまった。今では何とか落ち着いたが、それもまた家族を追い詰める行為だったのだろう。
着替えが終わったら、次は朝ごはんと弁当の準備だ。家事は専ら女である私の仕事だ。三食全て用意し、掃除に洗濯もこなす。母から手解きされた花嫁修業がこんな形で役に立つとは皮肉なことだ。朝ごはんの用意が出来ると、ちょうどよく父が起きてきた。今日は私が起こす必要は無かったようだ。
「おはよう、父さん」
「ああ、おはよう明。今日の朝はなんだ?」
「んーっ、ごはんとお豆腐のお味噌汁と、それから漬物と卵焼き!」
「そうか、今日は和食か」
「うん、冷めないうちに召し上がれ」
テーブルに座り、父と2人食事をとる。父と一緒に暮らし始めて随分と経つ。2人だけしかいない食卓にも慣れた。
「やっぱり日本人の朝は米だな。この漬物旨いな、どこで買ってきたんだ?」
「ふふ、ありがと。この漬物、私が漬けたんだよ?」
「そうなのか!? そりゃ凄いな……」
「ネットで調べてやってみたんだ。父さんの口に合って良かった」
最近は料理に凝っている。少しでも父に美味しい料理を食べて欲しいから。出来そこないの私を引き取ってくれて、こうして養ってくれている父へのせめてもの恩返し。
「明、醤油取ってくれないか」
「はい、お醤油……っ!?」
醤油を差し出した時、偶然にも父の手が私の指に触れてしまった。その瞬間、体が硬直して醤油をテーブルの上に落としてしまう。醤油が零れ、テーブルクロスに黒い染みを作る。生理的な嫌悪感と恐怖で頭が働かない。
「すまん明……うっかりしてた」
「あ、あはは。いいんだよ父さん、私が全部悪いから」
私は男性恐怖症になっていた。男が怖くて仕方がない。見知らぬ男に見られているだけで、あの夜の恐怖が蘇ってどうしようも無くなる。今ではなんとか、普通の会話くらいなら出来るようになった。けれど、触れられるのだけは絶対に駄目だ。父に触れられることさえ恐怖を感じてしまう。
「明、大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ。今日はやめて、また今度でも……」
「ううん、平気。ちゃんと学校には行かなきゃ」
今日は転入する高校に初めて登校する日。気づけばもう5月。大学受験のことも考えると、そろそろ行かなきゃマズイと思う。今はまだ将来のことは考えられないけれど、高校くらいは出ないと申し訳ない。不安はある。新しい高校でちゃんとやっていけるのか。私のような女が、誰かと関わりあうことが出来るのか。
けれど、そうして足踏みしていても仕方がないことは嫌と言う程思い知った。現実は、私の心とは全く関係なく進んでいくのだ。受け入れ切れない現実から目を逸らして逃げ出しても、結局何も変わらない。唯々、周りを不幸にしてしまうだけ。……失敗は繰り返さない。
玄関で靴を履いて、出発の準備をする。自身の覚悟を示すように、靴紐をきつく結ぶ。決して解けないように、強く、強く。
「それじゃあ、行ってくるね」
「ああ、気を付けるんだぞ。無理しなくてもいいんだからな?」
「ありがと。でも、本当に大丈夫だから」
軽く笑って見せ、父を安心させる。それでもまだ心配そうだったが、何とか納得してくれたようだ。
「明、いってらっしゃい」
「……いってきます!」
勇気を出し、外の世界へ足を踏み出す。ここから私の新しい日々は始まるのだ。きっと辛いこと、苦しいこと、悲しいことがたくさんあるだろう。楽しいことが待っているなんて、都合のいい希望を持つことはもう出来ない。それでも、私は進み続ける。現実に置いていかれないように、必死で前に進んでいくしかない。女として、生きていくしかないのだ。
5月の柔らかな風が頬を撫でる。季節はもう春。冬はとっくに終わっていた。