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Fantasy of marmaid (今里 悠希 編)

作者: 美里和佐



☆ 1


私が瞼を開いて最初に瞳に映ったものはトラバーチン模様の白い天井だった。

まだ朦朧とした意識の中、ゆっくりと眼球を右に動かす。視界に飛び込んできた若い女性と目が合った。

彼女は、私が目を開いたのに気づくとベッドに駆け寄ってきた。私が目覚めた事を確認すると足早に一旦部屋を出ると、直ぐに白衣の男性を伴って戻ってきた。

彼と彼女―医師と看護師の声は聞こえた。私を呼んでいるのを察する事は容易だったがそれ以外の事情、今の状況把握ができなかった。

取り乱した私は悲鳴をあげようとした。しかし身体を動かす事はおろか声をあげる事さえもできなかった。

ようやく落ち着きを取り戻したのは、かなり後の事だった。そして私は声と記憶の一部と右足の機能を失っていることに気付いた。


私はどうやら海難事故に巻き込まれ、病院に運ばれたときは意識もなく、二日間も眠っていたらしい。

事故の影響で右足は下腿頚骨の複雑骨折。一週間はベッドで足を吊るしたまま動けなかった。不幸中の幸い手術して治療すれば元通りになるらしい。しかし他の傷は単純ではなかった。

失声症と記憶喪失。

失声症・・・声帯や喉の器官に異常がある訳ではないのに声が出せない。無理に声を上げようとすると原因不明の脱力感や恐怖感に苛まれる。

記憶喪失・・・失った記憶、私が何をしていて何故事故にあったのか。それを思い出そうとすると恐怖を感じた。

何一つ覚えていない訳じゃない。

私の名前は今里悠希、一月二七日生まれ、水瓶座。私立翠学園高等部一年生。病院に駆けつけてくれたのは母と弟・・・。

後に弟から聞いて知った医師の話によると、心的外傷による失声症と記憶喪失は併発することが多く、その要因を取り除ければ徐々に回復する例が多いらしい。

 もちろん大きなショックを受けた。足のハンギングが取れるまで一晩中泣き声すら出せないまま枕を涙で濡らした日もあった。

しかしいつまでも悲観に流されてはいられない。

回復する可能性はあるんだ。

足の手術後ギプスを嵌めて車椅子での一日だけの一時帰宅が許された。

通常はすぐに帰宅ができるものではないが、記憶を取り戻すきっかけにもなりうるという医師の判断だった。

記憶を取り戻すためには、まず自分がどういう人間だったのかを知らなければならない。

 私の住む町、私の住む家、そして私の部屋。幸いにも私の部屋には一冊のダイアリーがあった。

 これで私の事が分かればと期待した。



☆ 2 


一九九九年 四月八日


一六歳で私立翠学園高等部に入学した。

十五歳で同学園中等部を卒業し、高等部入試に合格。晴れて高校生になると同時にイギリスへの一年間の短期留学が決まった。留学志願書を出したのは語学よりも海外生活に興味があってのこと。在学中に行けたらくらいのつもりで志願した。この学園の語学留学は定評のあるものだったし、そう珍しくはないらしい。だけど、まさか高等部入学と同時にというのには驚いた。留学中は休学扱いで留学時の学年からやり直さなければならないけど、中等部からの推薦、試験結果と面接で留学を認められた。

だから正しくは一六歳でこの私立翠学園に新一年生として復学した。

新しい制服はちょっと重たかったけど、高等部の制服は中等部のより大人っぽくて、なお可愛いと思う。ラッキーかも。

これから新しい生活が始まる。両親と弟との四人家族での暮らし。

 そして新生活を機にダイアリーを附けようと思う。

毎日じゃなくてもいい。継続できれば月に一ページだってかまわない。今の私が未来の私に送るメッセージになればいい。

 

一九九九年 四月一一日

 

学園生活は楽ではなかった。

もちろん学校での授業の話。

海外留学した帰国子女なのだから、英語なんかは簡単だろうと、クラスメイトは言うけれどとんでもない。

確かにリーダーは簡単だった。日常生活でネガティヴな英語を使ってきたから、長文読解もヒアリングも苦にもならなかった。けれどもグラマーはさっぱり苦手だった。国語と同様に、英文を読んで理解するのと文法を理解するのとではまったく違う。

動名詞を不定詞に置き換えて・・・何の意味があるんだろう。そんなこと出来なくても日常会話も出来るしエアメールも書ける。英語に限らず日本の教育システムは誤りだらけだと思う。

古典・漢文、数学全般は生活する上で何時役立つのか分からない。

こんな勉強するぐらいならもっと遊びたいし、青春したい。

イギリスでは飛び級もあったから、早くに卒業し大学に行って自由キャンパスライフを謳歌している級友もいたし、夢を求めて起業した級友もいた。

みんな私とそう変わらない歳なのに、自由に夢を持って突き進んでいる姿はカッコ良かったし羨ましかった。

何かに夢中になるのはいいことだよね。


一九九九年 五月一日


イギリスで覚え始めたサーフィン。帰国後は暫くはやっていなかったけれど夏を直前に再開することにして、地元のサーフクラブに入った。

五月ともなれば山陰海岸でも地元以外のサーファーの姿も珍しくなくなる。けれどゲレンデで一緒にサーフィンする友達を探すならサーフクラブに入るのが一番だと思った。

 

一九九九年 五月五日


今日はサーフクラブで祝日イベントがあった。イベントといってもみんなで飲んで騒いで親睦を図ろうというもの。未成年の私はノンアルコールの飲料しか飲めなかった。

そこで一人の男性に出会った。名前を玉川勇次という。浜坂水産高校の二年生。

ほかに親しい友人もいなかった私は、年齢の同じ彼と話をした。


一九九九年 五月一三日


勇次とは同じサーフィンが趣味、同年齢ということもあり、すぐに打ち解けた。

ひと目惚れというものがあるなら、私は彼に惹かれているかもしれない。これがそうなのかな。

彼と同じゲレンデで一緒にライディングするだけで楽しい。現在はそう思う。

 

一九九九年 六月四日


 今日も雨。

イギリスでも四季があるけど、ロンドンはいきなり小雨が降るし霧も多い。初心者のサーフィンができるのは夏のウェールズぐらい。ホストファミリーがマリンスポーツ好きで勧めで始めたサーフィンだったけど、そう足繁く連れっていてもらえる訳もなく。

それに比べれば日本はまだ恵まれている。けれど梅雨時だけは不幸な気がする。

雨天の時や波の荒れている時はサーフクラブのレッスンもお休み。 

サーフクラブ以外で勇次と会うことはほとんどなかったからしばらくは会っていない。翠学園は私立の一流進学校。一般的に男女交際はあまり好まれていない風潮だった。

 それでも五月の末頃から勇次は私をユキと呼び始め、私は彼をユージと呼んでいた。出会って一か月お互いに自然と恋人と呼べる関係になったのはこの頃だったと思う。

 帰国子女というだけで男女の関係は進んでいると偏見を持つクラスメイトも少なくはなかったから私と勇次の関係は友達にも明かしてない

彼の素行について悪い噂も最近聞いた。他校の女子との不純異性交遊、条例でも禁止されている夜間の繁華街への外出、学園内で繰り返す喫煙等、もともと浜坂水産高校は評判の良い方では無かったけど。

所詮噂だし、学校は普通に付き合っていても不純異性交遊なんて言う。夜間外出なんて誰でもしてること、明るい繁華街の方が夜道より安全。そりゃ喫煙は悪いとは思うけど隠れて吸ってる男子もいたし、大人は吸ってるし・・・。でもそんな事関係ない。私の感情は変わらない。私はユージが好き


 

一九九九年 七月一日

 

明日からユージと泊まりがけでサーフィンに行く。彼と一緒の部屋に泊まる。もちろんそれが何を意味するのか私にだって分かっているし、覚悟はできている。けれど最近、彼は本当に私の事が好きなのか疑ってしまう自分が居る。キスだって時々しかしてくれないし、度々よそよそしい態度も見せるし、目つきが怖い事もある。そんな時、彼の悪い噂を思い出してしまう。

私にすれば、会う度に最低でも二回ぐらいのキスは欲しい。愛を囁いて欲しい。それは私の勝手な恋人像かもしれないけれども、彼を好きな私が、彼を信用できない私に対しての確固たる勝算が欲しい。

そして私は私を賭けた。私が彼の性欲を満たすだけのセフレ目的ではなく本当に私を心から愛してくれている事を信じて。


    

   ☆ 3


 ―何々だろうこのダイアリーは。私はこんなにも乱れていたの?― 

今の私には玉川勇次という人物の記憶がない。

ダイアリーの内容の殆どは、玉川勇次という男性に出会って,以降はその人物の事ばかりだった。

 これによるとおそらく私は彼とサーフィン中に事故に巻き込まれたらしい。私と彼を救助してくれたのはたまた帰港に通りがかった漁船の船員だった。助かったのは奇蹟。船員の話ではその日は波のうねりが高くサーフィンには不向きな天候だったらしい。

 私は、私たちがどうしてそんな海に出たのかも覚えていなかった。


私は再びダイアリーを付けることにした。

当分の間、病院での生活を余儀なくさせられた私には時間があったし、事故前の日常生活のリズムの一部でも記憶を呼び戻せるきっかけになるかとも思ったから。

そして何よりも自分の中のユキを否定して本当の自分を見つけ出すには過去を失ったり無視する訳にはいかなかった。


二歳下の弟は優しく接してくれた。言葉を失った私との会話は筆談。もどかしいものもあったろうけど、毎日のように病室に来ては私の相談相手になってくれた。耳が正常だったのは救いで、彼の方は言葉で私の方はペンとノートで、コミュニケーションを取っていた。私も弟も最初は笑顔を見せることは殆ど無かったけど、次第に打ち解けていった。

弟は病室での寂しさを紛らくわすために小さなラジオを買ってくれた。もちろん同室の患者とは親しくはなれたけど、口の不自由な私は彼女たちの会話に参加できるわけはなく、聞き役に徹するだけ。孤独感や疎外感が拭えない瞬間もあった。そんな心の隙間を埋めてくれるのにラジオは大きな支えになった

 

   

☆ 4


一九九九年 七月一七日 


玉川勇次なる人物と病室で会った。

 私は彼の名前しか知らない。

 ダイアリーに書かれていた人物という認識だけで、記憶のページにはその顔の記録は無かった。

 彼は口の訊けない私を見て暫し絶句の後、非難し始めた。

 私が彼を無謀なサーフィンに誘ったため彼も怪我をしてしまった。私の怪我は自己責任だ。恋人関係は解消だとも。

 病室では大声でこそなかったものの罵倒された。

 彼が病室を出てすぐに弟が入ってきた。ドアの向こうでも何があったかは察したらしいのは表情から分かる。

 声の上げられない私の目から止めどなく溢れ出す涙を見て、どう慰めたらいいのか戸惑う弟は多分誤解している。

 私が泣いたのは、勇次に罵倒されたからではない。記憶にない男にいきなり恋人関係解消と言われ罵倒されたからだった。

   

一九九九年 八月三一日

 

まもなく私は退院するけど普通の生活に戻れるのかな・・・

失った記憶は帰国後から事故後までという事は精神科医師のカウンセリングから分かった。声が出ないままじゃます学園生活に戻れるわけもなく、不定期な登校と通院の続く非日常な毎日が始まるだろう。


  一九九九年 九月五日


一年生の夏休み前から事故で学校を休み、二学期から登校を再開する私には親しい友達がいなかった。

声を掛けてくれるクラスメイトは少なくなかったけど、私は友達の顔すら思い出せない。

そりゃ友達が初対面的な対応をされたら気分の良いものではないだろう。

その上、声が出ないから挨拶ひとつ筆談で返す。

友達は自然と離れていった。


 お気に入りのラジオの放送番組は今の私にはなくては ならない存在になっていた。「ドキドキ・コミュニケーション」たった三〇分の放送だけれども、リスナーの悩みや相談を真摯に受け止めるパーソナリティーのトークも、寄せられるリスナーのハガキも冷めていた私の心を少しずつ確実に温めている。私が唯、一癒される時間。

 今夜の企画「夏の怪奇特集」は温まらなかったけど。

 

一九九九年 一〇月一日


 不定期な登校で学校に行き辛くなった。

ずっと家にこもりがちになって登校拒否になりかけた私を心配してか、両親はちょっとした遠方への外出を許可してくれた。

ドキドキ・コミュニケーションの公開録音。私の家からは私鉄特急を乗り継いで三時間以上かかった。貯めていたお小遣いを叩いて往復の交通費と諸経費を手にした。

 本当は、退院してから外出は不安だった。足は完治したけど言葉の不自由さは変わらない。筆談用の必携ツールお絵かきボードを小脇に抱えた私をどう思ったのか。言葉が不自由だなんて気付くわけないと思っていた。

 公開録音の後、リスナーの一グループの声をかけられた。びっくりしてお絵描きボードで答えると、彼らは一瞬戸惑った。そりゃそうだ。

声を掛けた相手がいきなりお絵かきボードを出したら驚くだろう。

 慌てて自分の声が出ない事状を説明したら、彼らは何の抵抗もなく自己紹介をはじめた。今まで会ってきた人たちは、いきなり親近感を示したり敬遠したり気の置けない態度を示して来たけど彼らは違った。

私たちはお互いをラジオネームという名前、番組に投稿するハガキのためのペンネームで呼び合っていた。

私も「孤高のゆきっぺ」と言うラジオネームを持っていたし、彼らもそれぞれ「紅茶屋さん」とか「一角獣仙人」とか「西のコー君」とかいうラジオネームで呼び合っていた。

 「紅茶屋さん」と「一角獣仙人」はドキド・コミュニケーションの番組内では結構耳に名前に知れたハガキを紹介される常連。そんな人たちに会えて知り合いに成れた事に驚いた。


帰路につく頃には辺り夜の帳に包まれ、帰り道が途中まで同じだった西のコー君は私を送ってくれた。 

 彼は私より三歳年下の十三歳中一年生のくせ夜道のエスコートはお手の物って感じで大人びて見える。けれど引いてくれる繋いだ手を軽く握ると紅潮して視線を逸らす所なんか可愛くて可愛くて♡ギュッと握り締めたくなる

三時間近くの他愛のない会話。彼は笑顔でお絵かきボードで懸命に会話しようとする私に速度に合わせてくれた。

駅で彼と携帯電話のメアドを交換して別れた。

 


一九九九年 十一月二十二日


 弟が自宅謹慎になった。

学外で他校の上級生を病院送りにする暴力事件を起こしたために。

事件は警察沙汰になった。

 相手は玉川勇次なる人物。元々素行が悪かった彼は放校。弟は中学生だったのでひとまず自宅謹慎で処分保留となった。

 弟が何故そんな事を起こしたかは明白だった。

 母に連れられて、傷だらけ警察から帰宅した弟を私は涙して抱きしめた。

 弟の腕の温かみを感じた時、私は罪を感じた、


   一九九九年一二月二四日


「メリークリスマス」の一言のメールが何通か到着していた。私の記憶にない友人と西のコー君からも。

西のコー君に興味を持った私は西のコー君のことをもっと知りたいと思った。西のコー君は優しかったし、恋愛感情はなかったけれども友達の少ない私にとっては大切な人というカテゴリーに入るのだろうか。

  

一九九九年 十二月二十五日


私は最近少しずつ記憶を取り戻してきている。

海難事故の原因や玉川勇次という男の事も。

思い出したくない記憶も少なくなかった。

高波に飲み込まれた際にボードで頭を打ち付けたこと。この後は気を失っていて覚えていない。

クリスマスで華やいだ街のお祭り騒ぎも終焉を迎えていた。

 今、私は西のコー君との電車内での筆談を思い出しながらペンを走らせている。彼が最初にメアドの交換を申し入れた時、ナンパかと思った。普通は初対面の男性に気軽にメアドを教えられる訳もなかった。

 その後、彼は筆談を選んでくれたが、今になって思えばあれは簡単にコミュニケーションを取るための最良の手段を提示してくれたように思う。結局、お互いのメアドを交換した今はメールによる会話でコミュニケーションを取っているけども、部屋の片隅に置いてあるお絵かきボードを見れば、彼との筆談の記憶が蘇る。 

 海・・・彼は海の話をした時に瞳を輝かせていた。彼は、子午線の町として知られる明石に住んでいた。そんな地元の海が好きでよく遊びに行く、そして夏には日本海側に遊びに行くとも書いていた。

 私の住む町の海、山陰海岸。夏にはこの海の街で彼と再会できるかもしれない。



   二〇〇二年 一月二七日


今日で私は一七歳。

弟はお祝いしてくれた。

冬休み前に自宅謹慎が解け取りあえずは期末テストを受けられたらしい。

私のために、私のせいで、弟が卒業できなかったら耐えられない。


そして西のコー君からもお祝いのメールがきた。

覚えていてくれた・・・。


二〇〇〇年 三月二十五日


 入院してからも続けていたダイアリーもペンを取ることが少なくなってきた。

 入院当初は自分探しのために開いたダイアリー。最初はその内容に驚いた。

 思えば、ユキを否定して、新しい自分、「今里悠希」を再構築することが、このユキのダイアリーを続けた意義だった。このダイアリーの著者は前半のユキと後半の悠希のふたりになると思っていた。

 けれど今は違う。やはり著者は今里悠希一人。今の私はユキを受け入れている。

 

 西のコー君の存在が気になるのは事実。最初は恋愛感情なんてなかった。三歳も年下の男の子に本気になるなんて有り得ないと思い込んでいた。西のコー君も同じ思いかも知れないし、単なるラジオリスナー仲間の一人かも知れない。

 それでも今は純粋にラジオリスナーの孤高のゆきっぺは西のコーを好きでいる。きっとユキも純粋に玉川勇次という男性が好きだったんだろう。今の私ならユキの思いを理解できる。

 今の私は、今里悠希であり、ユキであり、孤高のゆきっぺでもあるんだ。


二〇〇〇年 四月三日


 私は無事二年生に進級できた。

 弟も何とか高等部に進学できた。新学期からは一緒に通学できる。弟は嫌がるかな。

 両親の私を見る目は少しずつ変わってきた。両親の目には自分たちの娘は一年前の悠希しか見えていなかった。いや見ようとしていなかったのだ

 一年前、優等生だった私はイギリスに留学した。両親は私がエリートに成長した姿を求めていたんだろう。

帰国後、変わり果てた私を見て両親も弟も驚愕していた。弟はまだしも両親は本当の私に落胆しただろう。

でもそれが本当の私。

中学までは必死に勉強した。いい成績を取って親に褒めてもらうのが嬉しかったし、膨大な勉強量もそれが普通だと思っていた。押さえつけてきた心の底では思春期の女の子らしく髪型をいじったり、メイクをしたり、そんな事に心躍らせて見たかった。

イギリスで学んだのはもっと気楽に自分らしく夢を求めること。誰かに褒められたいとか、誰かの引いたレールの上を走っていたのではつまらない大人にしかなれないということだった。


私の孤独を埋めていたのは、弟の理解、ラジオを聞くこと。そして西のコー君とのメール交換だった。


二〇〇〇年 七月二〇日


 コー君からの来た昨日のメール。

ー孤高のゆきっぺの都合が付けば、明日会って欲しい。ー

 私に断る由もなく、すぐに承諾のメールを返して、服選びに専念した。

 明日はこのダイアリーにも、特別なことが書けるだろうか。



二〇〇〇年 七月二一日


 今日、ついに西のコー君と再開した。

 服が似合ってるって、筆談で褒めてくれた。服選びに時間を費やした甲斐があった。

 筆談と言っても今度はお互いに携帯メールを打ち込んでの筆談。

 私は少しだけ手話を覚えた。けれど、耳は正常に聞こえた分、コミュニケーションツールが発展した今はあまり必要性を感じなかった。

 喫茶店で顔を付きあわせてチャットしている私たちは周りの人たちにはどう映ったんだろう。

 そして西のコー君が帰る前にもう一度会うことを約束した。

 私は彼に拳を向け親指と人差し指と小指を伸ばして見せた。

 暫しの絶句のあと彼は笑顔で手を振ってくれた。

 私が生まれる前、「まことちゃん」ていう漫画が一世を風靡したという話は聞いたことがあるが、彼だって生まれる前だ。

意味・・・分かったんだろうか。


二〇〇〇年 七月二二日


 夕日の沈む水平線を望む砂浜を、肩を並べて歩いた。

 こんな陳腐な恋愛小説みたいな光景を演じる事になるなんてこの時までは思わなかった。

 同時に、お互いの接点が海に対する憧憬だったんだから、想像し得ない事ではなかったけど。

 意外だったのは彼も夕日の沈む光景を見に山陰海岸に来たと言った事だった。

 昨年は泳ぎに来た友人とは、夕方には別れてひとりで夕日を見たと言っていた。

 今年は私と一緒に夕日を眺められて嬉しいと彼は言った。私にはその言葉が、多分その時の彼以上に、嬉しかった。

孤高のゆきっぺはなんで孤高なのか尋ねられた。

―いつも群れたりしないからー

 「なんかさびしいな」

私の本音を見抜いた彼の言葉が耳に残った

ーゆきっぺって呼んでー

 じゃ俺もコー君だけでいいよと彼は言った・

 西のって何だろう。


二〇〇〇年 八月一六日


 肩を並べて水平線の夕日を眺めて一緒にいる時間を求めていただけのつもりだった。告白とは必ずしもよい結果をもたらすものではないことも熟知していた。

「ごめん、俺もゆきっぺが好きだ・・・けれど、支えていける自信がない。」

 昨日、メールで交際を求めた私を突き放し彼はそう言った。

私は今日、一人で夕日を見た。

 私はいったい彼に何を求めていたの?

 また私は失敗したのかな。

 分かんないよ、お互い好き合ってんのに何がいけないの?メールだけでお終いなんて悲しすぎる。せめて私の目を見て言ってよ。

 

アンデルセンの童話のように、私も水泡になるのかな。

 夕日に照らされた夏の海面は潤んだ瞳な魅惑的に映った。




 

 









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― 新着の感想 ―
[良い点] タイトルとテーマの取り方、失声症の少女を人魚姫になぞらえる描き方はよいと思います。 [気になる点] 長編の出だしとして読ませてもらいましたが、 とにかく内容が薄く、どの登場人物にも感情移入…
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