それは秋の図書館で【仮タイトル】
読書の秋――とはいうものの、数えるほどの人数しか使用していない室内で、図書委員の当番として貸出席に座っている少女は、隣の少年の苦笑も気にせずに、夢中になって膝の上で開いた本の文字を追っていた。
図書館の閉館時間まで残り十分少々となり、とうとう二人を残して誰もいなくなった頃、ようやく顔を上げた少女は、満ちたりた顔で読み終えた本を胸に抱きしめた。
長い黒髪を一つに縛って顔の横に流し、たいして目が悪いわけでもないのにノンフレームの眼鏡をしている少女……奈月を、隣に座っている少年が微笑ましそうに見つめる。
柔らかそうな茶色の髪をした少年は、小柄なこともあり、私服で歩いていると少女にも見間違われるほどの可憐な顔を奈月に向け、「そんなにおもしろかったんですか?」と訊ねた。
そんな少年へ向き直ると、奈月は興奮そのままに、少年……順也へと語りだした。
「そりゃもうっ、すっっっごくおもしろかったよっ! 順也君も読んでみる?」
「いえ、僕はいいです。だってそれ、女性向けの恋愛小説なんでしょう?」
「えーっ、でも女性向けって言っても男の子が読んでもいいと思うよっ。
凄いかっこいい人が出てくるんだからっ。もう私の理想の人ってかんじっ!」
「先輩の理想の人……ですか。
たしか先輩より20cm背が高くて、眼鏡をした優しい人でしたか?」
「そうっ! それに今ではヤンデレっていうのが付くんだけどね」
「ヤンデレ……ですか」
その言葉に考え込む順也に気付かずに、奈月は今読み終えたばかりの小説に出てきたというヤンデレについて熱く語り始めた。
少しだけ女子としては背が高い奈月は、小学生の頃に男子に「巨人」とあだ名をつけられたことが未だに尾を引いている。
何度か順也に告白をされているが、自分よりも小さくて顔も可愛い順也は、奈月にはどうしても恋愛対象には思えなかった。断り続ける奈月に、順也が「先輩の好きな男性のタイプはどんな人ですか?」と訊ねてきた時、奈月が答えたのが「自分よりも20cm背の高い人」だった。だんだんとそれに眼鏡や優しいというものがついていったが、今度はヤンデレらしい。
奈月は自分が読んだ小説に出てきた男性キャラがタイプになることが多い。
(先輩は恋に恋をしている蕾の少女。そんなところも可愛いからしょうがないですね)
奈月の理想が増えるたび、順也はそんな奈月への愛しさが増していった。
だが、今回のヤンデレというのは少々ひっかかった。
ヤンデレに愛されるというのは女性にとって人生最大の不幸だという言葉を、幼いころから何度も聞かされていたからだ。
目の前で奈月が夢見がちな顔で話す内容を聞きながら、順也はヤンデレに憧れるという奈月の表情を注意深く見つめた。
「どんなに主人公が嫌だと言っても絶対に自分のものにするっていう熱い気持ちっ」
(本人の意思を無視して手に入れると、心は手に入らないものだと聞いていたのですが、先輩には当てはまらないという事ですか)
「もー主人公が好き過ぎて他の男と話しているのが耐えられないって言って、自分の部屋に鎖でつないで閉じ込めちゃうとかっ」
(それは、先輩は監禁されてもいいという事ですかね)
「自分の物にならないからって殺そうとしちゃうのも、すっごい愛を感じちゃうしっ」
(僕は殺すのは嫌ですね。先輩が死んでしまったら、その先を生きる意味がない。先輩が死ぬのは僕が死ぬ時だけです)
「何よりあれだけ一途に一人を愛せるっていうのがいいのっ!」
奈月がそこまで言うと、隣に座っていた順也が静かに立ち上がり、きょとんと見上げる奈月の座る椅子の背と、机に手を付き奈月をその腕に囲った。
「順也君? どうかしたの?」
その状況にも何も身の危険を感じていない奈月の様子に、内心苦笑を漏らす。
(僕は先輩を甘やかしすぎているのかもしれませんね)
「先輩、僕には兄と姉がいます」
「そうなんだ、私は一人っ子だから羨ましいな」
「姉は今のところ母に似ているんですが、僕と兄は父にそっくりなんですよ」
「へぇー、私は両親どっちにもかなぁ」
「ああ、顔もそうですが、何より中身が似ていまして」
「じゃあ優しいんだね」
「……先輩、僕はこれまで母の顔を数回しか見たことがありません。父にとっては兄と僕は男というくくりのようで、母と逢わせるのが嫌らしいんです。
父は昔から言っています。成人までは家にいてもいいが、成人したら一人で暮らせと。
たとえ死ぬまで仕事をしなくても暮らせるくらい援助はするが、家からは出ていけというんです。
たまに会えた母は、いつも泣きながら父のような男にだけはなるなと言っていました。父のような男に愛された女は不幸だと……。
兄の奥さん……義姉さんも、一度しか会ったことはありませんが、その時の顔はとても幸せそうには見えませんでした。
兄も父と同じで、義姉さんを家同士が決めていた婚約者から奪うために、随分いろいろしたらしいのですが、それも一途な想いの結果ならいいという事でしょうか」
どんどん顔色を悪くしていく奈月の頬に手を添えると、可憐な微笑みを浮かべたまま続ける。
「僕は、父の気持ちも兄の気持ちも理解できます。
先輩がさっき言っていたヤンデレという人の気持ちもわかります。
僕は先輩にはいつも笑顔でいて欲しいので、父達のようにはならないようにしようと思っていましたけど、先輩の理想が変わったなら問題ないですよね。
ああ、僕の家系の男子は成長が遅いようで、父も兄も二十歳前後で急激に成長したようなので、僕もそうなると思いますよ。
先輩の理想である188cmも大丈夫だと思います。
後は眼鏡と優しい事ですよね、眼鏡はどうとでもなりますし、僕は先輩には優しいのでこれもいいですよね。
取りあえずは背が伸びるまでは捕まえる事を待っていてあげますから、ゆっくりと僕の物になる覚悟をしていってください」
その言葉の後に、奈月の額に優しくキスを落とす。
図書館の閉館時間でもある五時のチャイムが鳴るのを聞きながら、奈月は目の前にいる順也を、初めて異性として意識するとともに、言いようのない恐怖を感じていた。
(い、今のは順也君の冗談だよね。そんな……ヤンデレが実際にいるわけないよね。しかもこんなに優しい順也君がヤンデレになるわけない……)
煩いほどに早い鼓動を何とか落ち着かせようと気を反らしても、背筋を走る悪寒がどうしても無視できなかった――
順也が宣言通りに奈月の身長を越し、その差が20cm開いたのは、それから三年後の事だった。
順也が奈月を捕まえるまで、後、三年――――