咲穂《さきほ》
うなされる自分の声で目が覚めた
どんな夢だったのかもう思い出せない
でも
悪夢だった事は覚えている
時計を見ると夜中の3時だった
‐喉渇いたなぁ‐
佐原咲穂は部屋を出てキッチンに向かった
‐あれ?明かりがついてる‐
そっと覗くと
ダイニングテーブルでうたた寝している母の姿がそこにあった
‐そう言えばこの頃、お父さん帰りが遅いって、言ってたっけ‐
咲穂の両親は
娘が呆れる程仲が良かった
結婚して20年もたつのに
今だに娘の前で恥ずかし気もなく挨拶がわりにキスをする
思春期の咲穂にはとても微笑ましい光景とは思えなかった
でも
近頃その光景を見る事は無くなっていた
母の寝顔を覗き込むと涙の乾いた跡がついていた
「お父さん。この頃忙しい?」
日曜日
お昼もとっくに過ぎた時間に
のっそり起きて来た父に
少し幻滅した
「お前一人か?」
「お母さんなら出掛けたよ」
「飯」
短い会話だった
以前なら
学校がどうとか
友達がどうとか
勉強はどうとか
昨日はどうとか
返事が面倒なくらい咲穂の話を聞きたがったのに
「お母さん、この頃元気ないけど、喧嘩したの?」
「そんな事より、飯」
「そんな事?そん」
「もういい!外で食う」
初めて父が怖いと思った
そして同時に
悲しみが込み上げて来たのだった
翌朝起きた時には
父はもう仕事に出掛けていた
昨日も結局出掛けたまま夜中まで帰って来なかった
朝方物が壊れる音や母の泣き喚く声で目が覚めたが様子を見に行くのが怖くて
布団を頭から被って潜り込んでいる内に又寝てしまった
朝起きてキッチンに行くと母は普段と変わらず朝食を作っていた
「随分早起きね」
背中を向けたままチラリとも咲穂の方を見ようとしない
「お母さんも一緒に食べようよ」
「主婦は朝は忙しいの」
その言葉に思わず思い切り両手でテーブルを叩いた
母が悪いわけじゃない
それは解っているけど以前とは変わってしまった家の雰囲気を隠そうとする母が
一人で苦しみを背負いこもうとする母が腹立たしかった
なのに
母は振り向きもしなかった
「何してるの」
昼休み時間
太美歩歌と一緒にいつも売店でパンか弁当を買いに行っているが
最近成績が落ちている事で担任からお説教をくらい教室に戻るのが遅くなった
既に歩歌は売店に行き教室には居なかったのだが
鶴岡菜月と鶴岡小春の双子が歩歌の机や鞄の中を物色していたので咲穂は声を掛けずにいられなかった
「何って…ただのイタズラだよ?」
菜月がニッコリ笑ってそう言った
「まさか、今までのも二人でやってたの?」
「あたし達だけな訳ないじゃん。クラスの何人かもやってるよ」
小春は淡々と応えた
毎日しかも日に何度も悪戯をされているのに歩歌自身はあまり気にしていない様だった
そんな歩歌に犯人探しを勧めていた二人だったのに…
その二人が悪戯をしていて他に悪戯している人も知ってるなんて
「一体どういう事!」
‐集団でこんなことをするなんて、イタズラじゃなくてイジメだよ‐
咲穂は本当にこの時は
友達によくこんな酷い事が出来るものだと思ったのだった
咲穂は放課後菜月と小春に話があると
バーガーショップに誘われた
今度は自分がイジメられるのか
それともイジメを誘われるのか
注文した品物を持って席に着くとすぐに菜月が切り出した
「今日の事、先生に告げ口する?」
「………」
「あんなのただの悪戯だよ」
「悪戯?大勢でしてるんでしょ?それはイジメって言うんじゃないの?」
「大勢なんて言ってないわ。数人よ」
「何で菜月達まで悪戯するの!私達、歩歌とはクラスの中でも一番仲がいい友達じゃない!」
「友達だよ。だから悪戯程度にしてるんじゃない。他の皆がイジメまでにならないように押さえてやってるのよ!」
「押さえてやってるって…何でそんな事するの?」
「歩歌のお母さんの仕事知ってるでしょ」
「知ってる」
「仕事にかこつけて、客に貢がせてる事も?」
「噂でしょ?本当だとしても歩歌に罪なんかない!」
「…事実よ。歩歌に悪戯をしてる私達を含めた数人の家庭が、壊れ始めてる」
「だからって…」
それまで携帯をいじりながら黙って聴いていた小春が口を挟んだ
「咲穂のトコも、壊れ始めてるんじゃないの?」
「…ま、さか…」
小春の見せた写メに咲穂は愕然とした
嘘だ
ウソだ!
うそだ!!
あの場からどうやって家まで帰ってきたのか
いつの間にかベッドに突っ伏して泣いていた
否定したくても否定しようがなかった
ハッキリと二人が誰なのかわかる写メだった
親しげに話していたとか
腕を組んでいたとか
そんな次元じゃなかった
しっかり身体を密着させ人目もはばからずキスをしていた
思い出すだけで気持ち悪い
でも何故?
歩歌の母親は夫の浮気が原因で離婚したはずだ
その苦しみも痛みも悔しさも解っているはず
なのに何故?
歩歌は知っているのだろうか
自分の母親が何をして今の生活があるのかをー
一晩中眠れなかった
歩歌には関係ない
だから今まで通りの友達でいればいい
今まで通り…
‐今まで通り?本当にそんな事が出来る?知らんぷりして話せる?平気でいられるのかなぁ‐
「はぁ…」
何度ため息を吐いたことか
「考えてても仕方ない!成るようにしか成らない!」
気合いを入れてダイニングを覗くと
最近では珍しく
テーブルに新聞を広げている父がそこに座っていた
その瞬間吐き気がした
キッチンでは何時もと変わらず朝食を作る母がいた
咲穂はとても一緒に食卓を囲む気にはなれなかった
だから顔も見せず声も掛けずに家を出た
どんなに必死にペダルを踏んでもモヤモヤした気持ちは無くならなかった
靴箱の前に立ち
ふと歩歌の上履きが目に入った
『太美』
の文字を見た瞬間
どうしようもなく溢れてくる怒りを抑える事が出来ず
歩歌の上履きを掴みそれを体育館の裏で思い切り投げ捨てた
投げた上履きは汚れた水が溜まった側溝に落ちた
その汚れた上履きを見た時胸がスッとした
それを靴箱に戻す時も
歩歌の困った顔を思い浮かべると愉しくて仕方なかった
それは咲穂の中で何かが切れた瞬間だった皆の前では
‐自分は悪戯なんかに絶対参加しない‐
という態度を崩さない一方で
毎日上履きを汚す事をやめられなかった
やめられなかった?
そうなのだろうか…
やめようと思えば本当はやめられたに違いない
でも
自分の苦しみや辛さをぶつけられる何かが必要なんだと
自分自身に言い訳するしか無かったのだ
幾分暑さも和らぐ夕方
暁乃杜公園のサイクリングロードをゆっくり自転車で廻る
暁乃杜公園は不思議な場所だ
古墳がありお社があり御堂がある
一部は整備されているが大半は鬱蒼とした雑木林だ
丁度公園を半周した所で自転車を降り
眼下に広がる住宅地を眺めた
いかにも高級住宅地という感じがした
一つとして同じ形の建物はなく
まるで要塞のように高い塀や壁があった
その中でも異彩を放っていたのが
白い教会のような建物だった
もっと近くで見てみたいと思った
坂道を暫く下るとやがて館のフェンスが見えた
青々と繁った葉に
真っ白く小さな薔薇の花が幾つか集まり
遠目には大輪の薔薇が咲き誇っている様だった
館が近づくにつれ花の香りが強烈に纏わり付く
まるで香りに導かれる様に咲穂は館の中へと入って行った
誰に案内される訳でもなく自然とそこに用意されていた椅子に座っていた
‐傷付いたから、傷付けないと気がすまない?‐
歩歌は…
傷付いたのだろうか…
‐誰かに復讐する?‐
復讐?
誰に?
‐元通りの生活に戻りたい?‐
戻りたくても戻れない
家族も友達も私自身も何も無かったあの頃には
もう
戻れない
‐貴方の望みは何?貴方が望む事を一つだけ、叶えてあげる‐
「ただの占い師のくせに…」
その言葉に反応するように
クックックと喉を鳴らす様な不気味な笑い声が
館の中に谺した
「本気で言ってるの!?」
玄関先にまで聞こえて来たのは母のわめき声だった
「何大声で喚いてるの?恥ずかしいよ!」
リビングに入った咲穂の目に飛び込んできたのは
包丁を振り上げ鬼の形相をした母の姿だった
「何してるの!?」
「この人が、私と離婚したいって!」
マジ?
ただの浮気じゃなかったの?
遊びだったんじゃ…なかったの…?
「お父さん、本気?」
「明日にでも家を出るつもりだよ」
「それで、どうするの!?」
母はヒステリックに叫ぶと
包丁を胸の前で構えジリジリと父ににじり寄る
「どうしても別れるって言うのなら、貴方を殺して私も死ぬ!」
その言葉に咲穂はキレた
「二人共、自分の事しか考えてないの?私はどうなるの?私の事なんてどうでもいいの!?」
そう怒鳴ると
自分の部屋に閉じ籠った
お腹が空いて朝早く目が覚めた
泣きながら寝たせいかみっともないくらい目が腫れていた
昨日あの後どうなったのかは判らないけど
とりあえず母のわめき声は聞こえて来なかった
キッチンには誰もいない
自分で食パンを焼きバターを塗り
ミルクを温めインスタントコーヒーでカフェオレを作った
父はもう仕事に行ったのか
それとも本当に出て行ったのか
気配は全く感じられなかった
朝食を済ませて家を出ようとした時母が部屋から出て来て
「ごめんね」
と言った
母の顔も見ず返事もせず
咲穂は家を出たのだった
ごめんね?
謝れば済むことなの?
冗談じゃない!
靴箱の前に立ち
真新しい歩歌の上履きを握り締め体育館の裏に走った
興奮した気持ちを落ち着かせるように植え込みに座り込み
歩歌の上履きを泥土に埋めていると
「何してんの!?」
背後から声を掛けられ驚いて振り向いた
仁王立ちでそこにいたのは歩歌だった
振り向いた咲穂を見て歩歌は慌ててその場から居なくなった
教室に入ってどうしていいか咲穂には判らなかった
だから
菜月達の姿が見えた時はホッとして自然と笑顔になっていた
歩歌は気分が悪いと言って直ぐに帰って行った
「気付いたのかな」
「まさかぁ。あの歩歌が気付く訳ないよ。あたしや菜月を疑う訳ないじゃん」
「それもそうよね」
そう言ったきり
誰も歩歌の事など気にしなかった
次の日の朝点呼で
歩歌の返事を聞く事は無かった
「佐原さん、太美さんの欠席の理由何か聞いてない?」
「いえ」
歩歌が欠席したのは
間違いなく自分のせいだ
酷い事をしたのだから
悪戯の域を完全に越えていた
謝ろうとは思わなかったが
悲しそうに傷付いたあの瞳が気になった
放課後
菜月達の誘いを断って向かった先は
あの占い師の所だった
「このままで、いいのかな」
‐友情を取り戻したい?‐
友情を取り戻したいわけじゃない
ただ
歩歌のせいじゃないのに
自分が悪いわけじゃないのに
苦しんでいる事に
苦しめている事に
理不尽さを感じて決着をつけたいのだ
「もう、終わりにしたい」
‐ここに来ても何の解決にもならない。決着をつけたいのなら、彼女と話すことね‐
そう言われてハッと気が付くと歩歌の家の前に立っていた
震える指でチャイムを鳴らす
「謝りに来たの?」
ドア越しに歩歌がきいた
「話がしたいの。何であんな事をしたのか、知りたいでしょ」
ドアを開けた歩歌は蒼白い顔をしていた
「おじゃましまぁ~す」
わざと明るく言うとソファーに座った
「で、話したい事って何」
その言い方に咲穂はカチンと来た
「謝るつもりは無いわ。何も気にしないアンタの態度が気に入らないの。イライラする」
「私、咲穂に何かした?」
「アンタが直接ウチに何かしたわけじゃないわ」
咲穂は涙を流しながら唇を噛みしめた
色々な感情が溢れだし睨むように歩歌を見る事しか出来なかった
言葉にするともっともっと傷付けそうな気がした
たまらず咲穂は外に飛び出した
家には帰りたくなかったが他に行く宛もなかった
こっそり部屋に入ろうと思ったが
リビングからパタパタとスリッパの音を響かせ
いきなり母は咲穂に抱き付いた
「アンタまで帰って来ないと思ったのよ!」
顔をクシャクシャにしてそう怒鳴った
「お父さん、…出て行ったわ」
「そ…う」
「…ご飯、待ってたのよ。着替えて来なさい」
「ん」
部屋に入って鞄を床に叩きつけた
「あんな奴、この世からいなくなれ!」
20年連れ添った妻より
目にいれても痛くない程可愛がった娘より
知り合って間もない商売女の方がいいなんて
‐生きている価値もない、最低な男‐
そう強く思った
‐貴方の願いを、叶えてあげる‐
あの占い師の笑い声がいつまでも谺していた
次の日から母はあちこちの病院に咲穂を連れ回した
しかしどの医者も所見は同じだった
『ショックの余り声を失った』と
でも
咲穂はホッとしていた
もう誰も
言葉の刃で傷付けずに済むのだから
『今まで感覚すら
掴む事は出来なかったけれど
声を出して伝える事って
なんて素敵な事なのかしら
さぁ
次は貴方の番よ
どんな願い事でも
一つだけ
叶えてあげる
その代わり
私の欲しい“もの”を
一つだけ
ちょうだい』