第9話 会計 音無心春は囁く【後編】
「ここでいいっしょ」
水無瀬先輩が横断幕を直すために脚立の準備を整えた。
「慎くん、そっちの準備はOK?」
「はい、このくらいの長さがあれば十分だと思います」
俺は工具箱の中から荷造り用の紐を適当な長さに切って、それをポケットに突っ込む。
横断幕の縁にはハトメが付いていて、その穴に紐を通して、昇降バトンに結び付けて固定するだけ。外れたのはきっと、昨日作業していた人の結びが甘かったのだろう。
ほどけた箇所は二か所だから手際よくやれば、そんなに時間はかからない。
「そんじゃ、いっちょやりますか。慎くんは脚立補助してね」
「えっ、水無瀬先輩が登るんですか?」
「ん? そうだけど?」
「だって……いや、俺にさせてください」
短いスカートの水無瀬先輩が脚立に登るってことは、下にいる俺たちからは当然、見えてしまうわけで。もちろん、これは見たいとか見たくないなんて問題じゃなくて、倫理的に問題だ。
もしかして、ここでスカートを覗くかどうかで、俺を試してる?
「慎くん、庶務の仕事めっちゃやる気出てきた?」
「そうじゃなくてですね。えっと……つまり……そ、そうです。せっかくのお試し期間なのでいろいろ経験した方がいいと思って」
ここでスカートのこと指摘すれば、水無瀬先輩に注目が集まってしまう。それなら、俺がやる気があるってことにした方がいい。
「嬉しいね。じゃあ、私が補助するよ」
俺は「お願いします」と言って、水無瀬と場所を入れ替わり、脚立の一段目に足を掛けると、釣り針の餌を小魚がつつくように俺のシャツが引っ張られた。
「どうかしましたか?」
後ろに立つ心春先輩がちょんとつまんでいたシャツを離す。俺を見上げる碧い瞳が何かを訴えているようだけど、読み取ることができない。
「これ……使って」
「ヘルメット?」
「高いところの作業……危ないから」
心春先輩から差し出されたヘルメットは年季が入っていて、お世辞にもきれいとか清潔感があるとはいえないものだった。
これ大丈夫かな。あとで頭が痒くならないかな。安全以外のことが心配になる。
「そんなに高くないから大丈夫だと思いま――」
カチッ。
心春先輩は俺の意見を聞くことなく、無駄のない動きで俺にヘルメットを被せて顎紐を止める。
「大丈夫じゃ……ない。法律……決まってる」
「で、あればしょうがないですね」
法律を持ち出されると、逆らえない。そういえば、阿部さんも蛍光灯を替える時にヘルメットしてたな。
「黒瀬君……素直。さすが……救世主」
「心春先輩、やめてください。あれは落ち着いてやれば、難しいことじゃないですから」
俺のことをからかっているのだろうけど、こういうところから変な噂が広まっては困る。
「黒瀬君……ちょっと」心春先輩は手で俺にしゃがむように促す。
作業をするのに他に注意することがあるのかと思ってしゃがむと、心春先輩が耳元で囁く。
「水無瀬のスカートを心配して作業 代わったでしょ。心配しなくても水無瀬はスパッツ履いてる」
「そうなんですか?」
俺も心春先輩にだけ聞こえるように声を潜める。
「水無瀬だって女の子だから、そのくらいの準備はしてる」
水無瀬先輩がスパッツを履いていることも驚きだけど、急に饒舌になった心春先輩にも驚きだ。
しかして、仮に水無瀬先輩がスパッツを履いていたとしても、脚立の上で作業をするのはどうだろう? パンツだからダメで、スパッツだったらいいというものでもない。やはり、隠されているスカートの中が見えるということが問題の本質であって――。
「慎くん、どしたの? 高いところダメだった?」
「あ、え、違います。すぐに始めます」
結論、スパッツであってもパンツであってもスカートの女の子に脚立の上で作業をさせてはいけない。
気持ちを切り替えて、脚立を登る。上から二段目まで登ったところで、横断幕を手に取って持ち上げる。
「慎くん、そこまでだよ。一番上の段は危ないから登っちゃダメだから」
俺は「わかりました」と返して、ポケットから取り出した紐で昇降バトンと横断幕を結ぶ。それが終れば、余っているところをハサミで切って、見栄えもよし。
この調子でもう一つもさっさと終わらせよう。